第6代 第二次松方正義内閣
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第2次松方正義内閣
在任期間1896年9月18日~1898年1月12日(482日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑥ 松方正義(薩摩藩・元内閣総理大臣・前大蔵大臣)
外務大臣 ⑨ 西園寺公望(公家)
⑩ 大隈重信(肥前藩・元外務大臣)進歩党党首格
⑪ 西徳二郎(薩摩藩)
内務大臣 ⑭ 板垣退助(土佐藩・前内務大臣)再任 自由党総理
⑮ 樺山資紀(薩摩藩・元海軍大臣)
大蔵大臣 ⑧ 松方正義 内閣総理大臣兼任
陸軍大臣 ⑦ 大山巌(薩摩藩・前陸軍大臣)再任 陸軍中将
⑧ 高島鞆之助(薩摩藩・拓殖務大臣) 拓殖務大臣兼任 陸軍中将
海軍大臣 ⑧ 西郷従道(薩摩藩・前海軍大臣)再任 海軍大将、陸軍中将
司法大臣 ⑨ 芳川顕正(徳島藩・前司法大臣)再任
⑩ 清浦奎吾(肥後藩)伯爵
文部大臣 ⑪ 西園寺公望(公家・前文部大臣)侯爵
⑫ 蜂須賀茂韶(徳島藩)公爵
⑬ 濱尾新(豊岡藩)
農商務大臣 ⑫ 榎本武揚(幕臣・前農商務大臣)再任 子爵 海軍中将
⑬ 大隈重信(肥前藩・外務大臣)外務大臣兼任
⑭ 山田信道(肥後藩)男爵
逓信大臣 ⑨ 白根專一(長州藩)
⑩ 野村靖(長州藩・元内務大臣)子爵
拓殖務大臣 ② 高島鞆之助 再任
班列 黒田清隆(薩摩藩・元内閣総理大臣)伯爵 陸軍中将
内閣書記官長 ⑥ 高橋健三(曾我野藩)
⑦ 平山成信(幕臣・元内閣書記官長)
◇参考
ウィキペディア『第2次松方内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸『第2次松方内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/06.html
歴代政府・内閣に関するデータベース『第2次松方内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/06-Matsukata-vol2.htm
『第6代内閣 第2次松方正義内閣閣僚一覧』http://www.cyoueirou.com/_house/ichiran/naikaku/06.htm
歴代内閣閣僚事典『第2次松方正義内閣』http://homepage1.nifty.com/kitabatake/naikaku6.html
主な出来事
1896年 9月 第2次松方内閣成立
西園寺公望外相兼文相、板垣退助内相、大山巌陸相、芳川顕正司法相、白根專一 逓信相辞任
大隈重信外相、樺山資紀内相、清浦奎吾司法相、蜂須賀茂韶文相、野村靖逓信相就 任。陸相は高島鞆之助拓殖務相が兼任
10月 台湾総督に陸軍中将乃木希典を任命
川崎造船所(後の川崎重工業)設立
第一回農商工高等会議開催
11月 「古事類苑」の刊行はじまる
岩崎弥之助、第四代日銀総裁に任命
「二十六世紀」事件(雑誌「二十六世紀」土方宮内大臣の行状を攻撃して発行禁 止)
豊田佐吉、自動織機を発明する
12月 第10議会召集
1897年 1月 新政党『革新倶楽部』組織(吏党)
俳句雑誌「ほととぎす」創刊
政党『実業同志倶楽部』の組織成る
2月
3月 足尾鉱毒被害者800名が上京して請願運動
内閣に足尾鉱毒事件調査委員会設置
貨幣法公布(金本位制の確立)
榎本武揚農商務相辞任
4月 台湾銀行法公布
高野房太郎ら労働組合結成を訴える演説会を開く
国会図書館開館
帝国図書館開館
5月 京都帝国博物館(後の京都国立博物館)開館
台湾における地方官制実施
日本郵船の艀船水夫六百名が同盟罷工
北海道に区制・一級・二級町村制公布
6月 沖ノ山炭鉱(後の宇部興産)創立
古社寺保存法制定
京都帝国大学(後の京都大学)創立
京都帝国大学の設立に伴い、既存の帝国大学を東京帝国大学と改称する
海軍、海外留学制度を再開(財部彪、村上格一、林三子雄、広瀬武夫、秋山真之ら5 人を選抜)
台湾モリソン山を新高山と改称
7月 労働組合期成会創立
8月 日本勧業銀行(後のみずほ銀行)創立
日本法律学校を日本大学と改称する
島崎藤村「若菜集」刊行
9月 日本智利通商航海条約調印
拓殖務省廃止
10月 金本位制実施
海軍軍医学校設置
山葉寅楠が大手楽器メーカーの日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)を 創業
11月 進歩党、松方内閣との提携断絶 大隈重信外相兼農商務相辞任
蜂須賀茂韶文部相辞任
12月 松代松之助電信主任らが、築地海岸に送信機を設置、受信機を小船に乗せ1.8kmの無 線通信に成功
松方首相辞表を提出
第11通常議会召集
衆議院の解散を命ぜられる
伊藤博文に第三次組閣の大命下る
1898年 1月 沖縄県が徴兵令の対象となる (入営12月1日)
第2次松方内閣総辞職
◇参考
「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表『1896年(明治29年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1896.html
「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表『1897年(明治30年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1897.html
「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表『1898年(明治31年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1898.html
ウィキペディア『1896年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1896%E5%B9%B4
ウィキペディア『1897年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1897%E5%B9%B4
ウィキペディア『1898年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1898%E5%B9%B4
概要
前回からだいぶ開いてしまいましたが、久しぶりの内閣考察と行きます。今回の内閣は第2次松方正義内閣です。この第2次松方内閣は通称で松隈内閣と呼ばれています。これは松方の松と、大隈の隈をかけたものです。この内閣は実質的に政党の内閣参加のはじめとも言われる内閣です。まず、大隈重信進歩党党首格が外務大臣として参加しており、それに加えて書記官長・法制局長官、更に当時勅任官であった参事官の一部を進歩党系から出すことに成功しておりこれが政党の内閣参加のはじめとも言われるわけです。
第2次松方内閣は松方正義が組閣した最後の内閣となっています。松方は第1次内閣で政策的に失敗しているため組閣が難航しているという話も残っています。松方の内閣総理大臣在職日数は第1次内閣の461日、第2次内閣の482日、通算で943日となっています。これは、2015年現在の歴代内閣総理大臣62人中16位となかなかの日数と言えます。
さて、今回も内閣の閣僚の顔ぶれについて見ていきたいと思います。
まず、内閣発足時から。内閣総理大臣松方正義、外務大臣には西園寺公望。この西園寺外務大臣はのちに桂園時代と呼ばれる時代に桂太郎と共に内閣総理大臣と勤め上げます。内務大臣に自由党総理の板垣退助、大蔵大臣は松方が兼任、陸軍大臣に大山巌、海軍大臣西郷従道、司法大臣芳川顕正、文部大臣は西園寺が兼任、農商務大臣榎本武揚、逓信大臣白根專一、拓殖務大臣高島鞆之助、班列黒田清隆となっております。この顔触れを見て思ったことがありませんか?
そうです。今までの内閣の顔ぶれと変わっていないのです。新しい顔ぶれというものがいないのです。ということで、1898年9月28日以降の閣僚について見ていきたいと思います。内閣発足後8日にして複数の閣僚が辞任しています。まず、発足後2日目9月20日に大山陸軍大臣、板垣内務大臣が辞任、9月26日には芳川司法大臣、白根逓信大臣が辞任、9月28日に西園寺文部大臣が辞任しています。わずか10日にして5人もの閣僚が辞めているわけです。一種内閣改造という考えなのかと調べてみましたが、内閣を改造するとなるとやはり同時に閣僚を辞めさせるわけになります。と、なれば自然にやめていったまたは、辞める理由があったとなります。個人的には松方の人望が一番だと考えているのですが……。
では、辞めた後に入閣した閣僚について見ていきます。内務大臣に樺山資紀、陸軍大臣に高島鞆之助、司法大臣に清浦奎吾、文部大臣に蜂須賀茂韶、逓信大臣に野村靖となっております。この中で新顔と言えるのは清浦司法大臣と蜂須賀文部大臣の2人です。今回はこの2人に掘り下げて放していきたいと思います。
まずは、清浦司法大臣。清浦圭吾。この名前を知っているという人は多いのではないでしょうか? え? 知らない。そうですか、そうなるとあなたは高校において日本史を取っていない人なのでしょうね。そう、清浦圭吾は高校日本史において名前が出てくる人物です。清浦は1924年に第23代内閣総理大臣に就任します。つまりは清浦は内閣総理大臣になる人物なのです。その清浦の記念すべき初入閣がこの第2次松方内閣なのです。さて、清浦の内閣総理大臣中の実績などはのちのちにやる予定の清浦内閣の回に回すとしてここまでの清浦について述べていきたいと思います。
清浦は1876年に司法省に入ると検事など多くの役職を務めた上に治罪法(今日の刑事訴訟法)の制定に関与した。このため、警視庁などから治罪法の講義を依頼され、それが『治罪法講義随聴随筆』という本にもなり、広く警察官に読まれるまでのものとなっている。この功績が時の内務卿であった山縣有朋の目に留まり1884年に全国の警察を統括する内務省警保局長に、34歳の若さで異例の抜擢を受けた。清浦の警保局長在任期間は7年間の長期に及んだが、その在任期間中の内務大臣は、5年余りが山縣であった。こうして清浦は山縣系官僚の一員として政界入りを果たすようになる。1892年に第2次伊藤内閣で山縣が司法大臣として入閣をすると清浦は司法次官に任じられる。そして、司法大臣として第2次松方内閣で入閣することになる。
こう見てみるといかに清浦が司法官僚として有能であったのかわかる。
次に蜂須賀茂韶文部大臣について。
徳島藩、蜂須賀。この2つを聞いてわかる人はもうわかると思いますが彼は徳島藩主蜂須賀家最後の当主です。蜂須賀と言えば結構有名どころですよね。蜂須賀は入閣までは元老院など裁判官関係の役職を歴任しています。そして、入閣までは第2代貴族院議長を務めあげています。また、各国の日本公使も歴任しています。私が調べ上げた中ではフランス、ベルギー、スペイン、ポルトガルの4か国でした。
山田信道が1897年3月に入閣しています。この人については後々詳しくこのあたりに書くかもしれません。
閣僚の話はこの辺にしておき、次にこの内閣で起きたことについて話します。今回話すことは内閣総辞職についてです。内閣についての話なのに辞職について見るとは……
さて、この第2次松方内閣は憲政史上唯一の総辞職の仕方をしています。それは衆議院解散と同時に内閣総辞職したことです。大隈ら進歩党が松方が地租増税を宣言すると政権を離脱して、内閣不信任決議案を提出します。どれに対抗して松方は衆議院を解散するのですが、選挙後の見通し手が立っていないとしてそのまま総辞職をしてしまいます。
衆議院の解散と同時に辞めた例はこれ1つしかありません。
今回はこの辺で終わりです。次は第3次伊藤内閣について見ていきます。
◇参考
ウィキペディア『清浦圭吾』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%A6%E5%A5%8E%E5%90%BE
ウィキペディア『蜂須賀茂韶』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E8%8C%82%E9%9F%B6