第5代 第二次伊藤博文内閣
すみません。1か月以上も書き上げるのにかかってしまいました。私の作品史上最も長い8000字強となっております。
第5代 第二次伊藤博文内閣
在任期間1892年8月8日~1896年8月31日(1485日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑤ 伊藤博文(長州藩・元内閣総理大臣)
代 黒田清隆(薩摩藩・元内閣総理大臣)伊藤が8月31日に単独辞任した後の臨時代 理
外務大臣 ⑦ 陸奥宗光(紀州藩・元農商務大臣)
⑧ 西園寺公望(公家)兼任
内務大臣 ⑩ 井上馨(長州藩・元外務大臣)
⑪ 野村靖(長州藩・元神奈川県令)
⑫ 芳川顕正(徳島藩・元文部大臣)兼任
⑬ 板垣退助(土佐藩)自由党総理
大蔵大臣 ⑤ 渡辺国武(諏訪藩)
⑥ 松方正義(薩摩藩・前内閣総理大臣)
⑦ 渡辺国武
陸軍大臣 ⑥ 大山巌(薩摩藩・元陸軍大臣)陸軍中将
海軍大臣 ⑥ 仁礼景範(薩摩藩)海軍中将
⑦ 西郷従道(薩摩藩・元内務大臣)海軍大将・陸軍中将 国民協会会頭
司法大臣 ⑦ 山縣有朋(長州藩・元内閣総理大臣)陸軍中将
⑧ 芳川顕正 兼任
文部大臣 ⑧ 河野敏鎌(土佐藩・前司法大臣)
⑨ 井上毅(肥後藩・元法制局長官)
代 芳川顕正
⑩ 西園寺公望 兼任
農商務大臣 ⑩ 後藤象二郎(土佐藩・前逓信大臣)
⑪ 榎本武揚(幕臣・元外務大臣) 海軍中将
逓信大臣 ⑥ 黒田清隆(薩摩藩・元内閣総理大臣) 陸軍中将
⑦ 渡辺国武 兼任
⑧ 白根專一(長州藩)
拓殖務大臣 ① 高島鞆之助
班列 黒田清隆 兼任
内閣書記官長 ⑤ 伊東巳代治(肥前国長崎)
参考
ウィキペディア『第2次伊藤内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3
歴代政府・内閣に関するデータベース『第二次伊藤内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/05-Itou-vol2.htm
首相官邸『第2次伊藤内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/05.html
明治時代の内閣閣僚データベースhttp://meiji.sakanouenokumo.jp/naikaku/profile.cgi?key=%91%E62%8E%9F%88%C9%93%A1%93%E0%8At&label=1
主な出来事(今回は日本史に東洋史の出来事も加えています)
1892年 8月 第2次伊藤内閣成立
11月 萬(万)朝報創刊(黒岩涙香)
山田顕義元司法大臣死去
大井憲太郎、東洋自由党結党
第4議会招集
伊藤博文交通事故にあう(伊藤首相はしばらく意識不明となり臨時首相代理に井上 馨内務相1993年2月27日まで)
伝染病研究所設立
軍艦「千島」が英商船と衝突・沈没(死者74名)
12月 正岡子規、新聞『日本』に入社
東京湾にて巨大地震発生(M6.2ぐらい)
1893年 1月 文学界創刊
日比谷公園できる(2月3日とするものもある)開園自体は1903年
2月 大村益次郎銅像除幕式(日本初の西洋式銅像)
衆議院、内閣弾劾上奏案可決
建艦費の詔勅下る
予算案成立
3月 弁護士法成立
川越大火
郡司成忠海軍大尉らによる千島探索
大阪・神戸間の電話開通
4月 出版法・版権法公布
5月 防穀令交渉成立
戦時大本営条例公布
海軍軍令部設置
7月 三菱合資会社創立
閣議で陸奥外相の条約改正案を審議、交渉方針を決定しイギリスと交渉開始
東京美術学校第1回卒業式(横山大観ら)
8月 八王子で大火
君が代、祝日大祭日の唱歌に(正式発布)
9月 富岡製糸場三井に払い下げ
速射砲及び無煙火薬を装備する最初の帝国軍艦「吉野」、イギリスで進水
10月 東京市で近代式水道起工
大日本協会結成
「二六新報」創刊
文官任用令・文官試験規則公布
11月 明治座開場
「朝野新聞」刊行開始
第5議会招集
衆議院、星亨議長不信任動議可決。星議長辞職拒否
大倉組設立
12月 衆議院、取引所汚職問題で、星亨議長の不信任上奏案可決
衆議院解散
1894年 1月 鹿児島大火
葉山御用邸完成
大阪天満紡績スト
2月
3月 第3回衆議院議員総選挙
明治天皇大婚満二十五年祝典挙行(日本で銀婚式が広まる)
金星で水星の日面通過、土星で水星の日面通過と金星の日面通過。
金玉均が上海にて閔妃の刺客により暗殺される
4月 日英通商航海条約交渉開始
高山樗牛「滝口入道」連載開始(讀賣新聞)
5月 第6特別議会招集
北村透谷自殺
6月 明治東京地震(M7.0クラス)
朝鮮派兵決定
大本営を参謀本部に設置
陸軍朝鮮上陸
清国、派兵中止を陸奥外相に要求
陸奥外相要求を拒否
高等学校令
衆議院解散
7月 日英通商航海条約調印(領事裁判権撤廃)
海軍軍令部長が中牟田倉之助から樺山資紀に交代
日本海軍が初の聯合艦隊を編成(司令長官伊東祐亨中将)
日本軍が朝鮮王宮を占領し興宣大院君を擁立
日清戦争: 豊島沖海戦
日清戦争: 成歓の戦い
8月 日清戦争:日本、清相互に宣戦布告
開戦にともない、新聞記事の事前検閲令公布
軍事国債発行
駐清代理公使小村寿太郎、帰朝
北里柴三郎ペスト菌発見
9月 第4回衆議院議員総選挙
日清戦争: 平壌の戦い
日清戦争: 大本営(明治天皇親栽)が皇居から第5師団司令部(広島城)に進出(広島大 本営)
日清戦争: 黄海海戦
10月 金鵄勲章令公布
最初の海軍大将に西郷従道が任命される 長谷川将軍の混成旅団、仁川に上陸
広島県宇品港を軍用港と定める
国内初の月刊時刻表『汽車汽船旅行案内』発売
第一軍、奉天省義州を占領
日清戦争: 鴨緑江作戦
第7臨時議会召集(広島にて)
11月 金鵄勲章令公叙賜条令公布
東京で戦捷祝賀会(明治天皇臨御)
日本軍、大弧山を占領
日本軍、大連湾頭の各砲台を占領
連合艦隊、大連湾を占領
北里柴三郎博士、ペスト病原菌発見の功により表彰される
日本軍、岫巌を占領
日本軍、旅順口の攻撃を開始する 日清戦争: 旅順口の戦い
第二軍、連合艦隊と協力し旅順を占領(清国軍の死傷者約1000名、日本軍189名)日 清戦争: 旅順虐殺事件
日米通商航海条約締結調印
清国政府、アメリカ公使を経て講和の議を提唱する
旅順占領の勝報に帝都湧き立つ
旅順口陥落を祝い、慶応義塾生がカンテラ行列
12月 乃木希典少将の第一旅団、復州城占領
第8議会招集
1895年 1月 首相伊藤博文、衆議院において戦時の挙国一致を議決する
清国講和使、香港を発ち日本に向う
2月 京都に電車運転始まる(日本で最初の市電)
日本軍、威海衛軍港陸岸を占領
日本軍第二軍、太平山占領
3月 正岡子規、日清戦争従軍記者として東京を出発する
連合艦隊司令長官伊東祐亨、宇品に凱旋
連合艦隊司令長官伊東祐亨、大本営に登営し戦況上奏
日本軍、牛荘城を占領
日本軍第一師団、営口を占領
日本軍、清国軍最後の拠点である田庄台を占領
フランス人ボアソナード帰国
平安神宮創建
清国講和全権弁理大臣李鴻章、門司着
下関で日清講和会談開始
日本軍、台湾澎湖島を占領
日本軍、台湾裏正角湾上陸
李鴻章、講和会談の帰途に狙撃され負傷
日清休戦条約調印(全権弁理大臣陸奥宗光と清国の李經芳の間に調印成る)
4月 第四回内国勧業博覧会
日清講和条約(下関条約)に調印(全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章)
三国干渉(露・仏・独3国による遼東半島返還要求)
5月 露・仏・独の三国干渉の結果、遼東半島を清国へ返還する重大閣議決定
台湾で反乱、台湾民主国建国宣言
6月 日本軍、台北を占領
日露通商航海条約調印
台湾事務局設置(初代台湾総督に樺山資紀元海相)
台湾総督府開庁、この日を台湾始政記念日とする(6月17日)
7月
8月 台湾総督府条例公布(台湾に軍政実施)
9月 住友銀行設立
10月 朝鮮に京城事変起こり、公使三浦梧郎、兵を率いて騒乱を鎮撫
日本軍、壮士、朝鮮王妃・閔妃を殺害(乙末の変)
農商務省の第一回馬匹調査会
正岡子規、『俳諧大要』を新聞「日本」に連載(12月31日まで掲載、1899年1月刊)
11月 小村寿太郎公使、韓国王に国書捧呈
遼東半島還付条約に調印
日本聖公会宣教師リデル・ハンナ、グレイス・ノットが、熊本市にハンセン病患者療 養施設「回春病院」を開設する
「東洋経済新報」創刊
自由党、伊藤内閣との提携宣言書発表
日本郵船、欧州定期航路開設
12月 遼東半島還付条約公布される
第9議会召集
1896年 1月
2月 日本銀行が竣工
3月 立憲改進党、立憲革新党などが合同し、進歩党を結成
最初の欧州直航船出帆(日本郵船会社の汽船土佐丸)
造船奨励法、航海奨励法公布
製鉄所官制公布
台湾総督府条例公布
4月 社会政策学会創立
最初の侍従武官長に、陸軍中将・男爵岡沢精が任命される
5月 京城で日露協定成立(小村・ウェーバー覚書)
6月 陸軍中将桂太郎、台湾総督に任命
明治三陸大津波(死者2万名)
7月 神戸に生糸取引所を設置
佐渡、生野両鉱山払い下げとなる
信濃川の堤防各所が決壊、被災面積18000haに及ぶ(横田切れ)
日清通商航海条約調印
8月 日本郵船会社の日米間定期第一船たる「三池丸」、神戸出帆アメリカに向う
第2次伊藤内閣総辞職(ただし伊藤の単独辞任のため黒田が首相代理として9月18 日まで存続
◇参考
「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表『1892年(明治25年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1892.html
『1893年(明治26年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1893.html
『1894年(明治27年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1894.html
『1895年(明治28年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1895.html
『1896年(明治29年)/明治時代年表』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1896.html
ウィキペディア『1892年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1892%E5%B9%B4
『1893年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1893%E5%B9%B4
『1894年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1894%E5%B9%B4
『1895年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1895%E5%B9%B4
『1896年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1896%E5%B9%B4
概要
今回は第二次伊藤博文内閣について語ります。5代目の内閣にして内閣総理大臣の再就任。この後元老達がコロコロと何回も総理大臣の職に就きます。そして、今内閣は概要を書くのもそして、ここに至るまでも長かった。それは初めて在職日数が1000日を超えたからです。1485日。およそ4年に及ぶ長期政権です。日清戦争もこの内閣ですね。
さて、ここで歴代内閣の在職日数を少し見ていきましょう。歴代10位まで。ちなみにここでいう在職日数は第○次となっている場合は別々にカウントしていきます。では、ランキング形式で第10位から。
第10位 第1次小泉純一郎内閣 938日(小泉首相の通算在職日数3次1980日)
第9位 第2次中曽根康弘内閣 939日(中曽根首相の通算在職日数1806日)
第8位 東条英機内閣 1009日
第7位 第2次佐藤栄作内閣 1063日(佐藤首相の通算在職日数2798日)連続歴代1位
第6位 第2次池田勇人内閣 1097日(池田首相の通算在職日数1575日)
第5位 原敬内閣 1133日
第4位 第2次桂太郎内閣 1143日(桂首相の通算在職日数2886日)通算歴代1位
第3位 第3次吉田茂内閣 1353日(吉田首相の通算在職日数2616日)
第2位 第2次伊藤博文内閣 1485日(伊藤首相の通算在職日数2720日)
第1位 第1次桂太郎内閣 1681日
という感じになっています。第1位の第1次桂太郎内閣についてはこの後思う存分語りたいと思いますので、今回は第2次伊藤内閣をやります。この内閣は歴代2位の長さの内閣です。この内閣の在任期間中にはいろいろなことが起きています。詳しくは上の主な出来事より。その中でもひときわ目立つ出来事というのが日清戦争です。この内閣の在任期間にちょうどかぶります。また、陸奥宗光外務大臣主導のもとで日英通商航海条約がこの内閣で締結することにより幕末よりの悲願であった不平等条約の領事裁判権(治外法権)の撤廃に成功します。
このころから政府と民党との関係も変化してきており自由党が政府寄りになってきているのも特徴です。
では、今内閣の閣僚から見ていきたいと思います。元勲と称される黒田清隆・山縣有朋元内閣総理大臣両人が入閣しています。また、のちに元老と称される人物のうち伊藤、黒田、山縣、西園寺公望、井上馨、松方正義、大山巌、西郷従道が入閣しています。ちなみに元老はあと桂太郎だけいます。つまり桂以外の全元老が今内閣には入閣しているのです。そのため別名「元勲内閣」とも呼ばれます。
では、ほかの閣僚についても見ていきましょう。この内閣は長く続いたため適度な時期で閣僚が辞任したりして閣僚の顔ぶれが変わっています。
ということで、発足時の顔ぶれから。
内閣総理大臣には伊藤が、外務大臣には陸奥がなっています。カミソリ大臣というあだ名もある陸奥です。陸奥は日英通商航海条約によって領事裁判権(治外法権)の撤廃に成功したほかに、日清戦争の後始末も担当しています。しかし、陸奥は肺結核の持病を持っており1896年5月30日に外務大臣を辞職して療養し翌年亡くなります。満53歳という若さでです。ちなみに小村寿太郎外務大臣も陸奥と同じ肺結核で亡くなっています。偉大な条約改正者の共通点です。
内務大臣には井上馨が就任しています。井上はこれまでの内閣で外務大臣(第1次伊藤内閣)、農商務大臣(黒田内閣)。しばらく閣僚になっていなかった井上の久しぶりの大臣ですが、この時期にはあまり目立った活躍はしていません。日清戦争の際に内務大臣を辞任します。ちなみに井上は内閣発足後すぐに伊藤が交通事故で重体となると1892年11月27日から1893年2月6日の約2か月間内閣総理大臣代理を務めています。
大蔵大臣には渡辺国武が就任しています。渡辺は大蔵省出身であり松方前内閣総理大臣が大蔵大臣になるのではないかという下馬評を覆して就任しました。特に目立った実績はありませんが、1895年3月17日の人事で逓信大臣に横滑りしますが同年8月に再度大蔵大臣になります。後年第4次伊藤内閣でも大蔵大臣として入閣します。
陸軍大臣には大山の再登板、海軍大臣仁礼景範が就任。仁礼海軍大臣は海軍の組織改革を行ったが当時の政府は陸軍を重視していたため、海軍軍令部を参謀本部が独立させた政策が陸軍の反発にかつ、この反発による頓挫が民党、文官の海軍改革に積極的ではないという非難につながり1893年3月11日に辞任します。
司法大臣には元総理の山縣、文部大臣には第1次松方内閣において農商務・内務・司法大臣を歴任した河野敏鎌、農商務大臣には逓信大臣を長らくこなしてきた後藤象二郎逓信大臣には黒田清隆元内閣総理大臣が就任しています。
これが、時代を経るごとにメンバーが変わっていきます。
また1896年には拓殖務省が新設されます。拓殖務省の仕事は台湾総督府の監督が目的です。高島鞆之助が最初にして翌年に廃止されるため唯一の大臣です。1895年10月9日に逓信大臣に就任した白根専一は第1次松方内閣の品川弥二郎内務大臣の下で内務次官に就いており選挙大干渉を行った1人です。内務省官僚としていわゆる山縣系の1人でもあり長州藩出身の人物です。
榎本武揚も農商務大臣として入閣しています。第2代の内閣法制局長官を第1次伊藤内閣~第1次山縣内閣まで務めた大日本国憲法条文起草者の1人井上毅も文部大臣として初入閣しています。芳川顕正は今内閣でも複数の閣僚を兼任しています。
閣僚の紹介はこの辺で終わりとします。
さて、次に今内閣で起こったことを語りたいと思います。やはり、第2次伊藤内閣を語る上で重要なのは条約の改正と日清戦争となります。しかし、それじゃあつまらない。では、何を語るのか。考えた結果として条約改正に比を置くことにしました。日清戦争についてはやりません。下手なことを言いたくないというのもありますし、語ったとしたらおそらくこの1話だけでは終わる自信はありません。日清戦争においては李鴻章の話もしてみたいし、外交官の活躍や、新国内の事情。多くの背景があるのが戦争です。そういった背景を1つ1つできれば見ていきたいと思うのでやはり書くのは大変だという方向で。と、いうことで条約交渉について話をしていくことにします。
まず、事の始まりから行くとなると1853年の黒船来航、翌年に日米和親条約が成立したことが始まりです。開国した日本に駐日アメリカ合衆国大使としてハリスが着任します。ハリスは幕府に対して通商条約に締結を要求します。幕府は拒否していたのですが、井伊直弼が大老として力をもつと強行して日米修好通商条約を締結します。そして、この条約は不平等条約でした。関税自主権がない、領事裁判権(治外法権)が認められている。この2点は日本にとってとても不利なものでした。そのため、明治新政府になるとこの不平等条約を何とかして改正しようと政府は努力します。最初に、岩倉使節団を派遣します。しかし、条約改正の相手をしてもらえずに欧米の視察に目的を変更します。次に寺島宗則外務卿が関税自主権の回復に取り組みますがアメリカとは成功したもののイギリス、ドイツの反対でとん挫。ちなみに関税自主権から手を付けたのは寺島ただ1人です。ついて井上外務卿(のち外務大臣)が鹿鳴館外交と言われる極端な欧化政策を進めましたが、国内の不興を買い、かつ内地雑居の項目が保守派からは忌み嫌われ辞任に追い込まれます。大隈重信外務大臣は井上の反省をし極秘に交渉を進めます。しかし、交渉内容がイギリスの新聞社にスクープされてしまい、はたまた国内の不興を買います。内地雑居の項目はもちろん、それに加えて大審院(現在の最高裁判所)に外国人判事を採用するという内容がまったく今の領事裁判権と変わってないではないかとバッシングの対象となります。その後、大隈は襲われて辞任します。井上、大隈と失敗して次に青木周蔵外務大臣が登場します。青木は交渉にほぼ成功しました。これでようやく領事裁判権の撤廃ができる。そう思った矢先に前に語りました大津事件が発生してしまい辞任します。もちろん条約改正交渉は白紙に戻ります。そう言った経緯がある中で陸奥が外務大臣に就任します。陸奥は青木元外務大臣と協力したうえで各国と交渉をします。その結果が1894年の日英通商航海条約です。それと同時に15か国との間で不平等条約の撤廃に成功します。陸奥は外交官として小村と並ぶ名外務大臣となりました。
ノルマントン号事件が条約改正のきっかけとなったりしてこの時代の日本人は外国人を裁くことができなかったのがようやく裁けるようになったのです。陸奥は本当にすごい人だと思います。しかし、条約改正交渉並びに日清戦争の外交処理で陸奥は持病の肺結核が悪化してしまいます。それでも、日本という国のために働いたすばらしい外交官です。
明治日本が躍進できたのは名外交官がいたからではないかと思います。相当、先の話になりますが松岡洋右とかでは相手にはなりません。
話はずれしましました。すみません。条約改正の話が外交官の話になってしまいました。
日清戦争については語る暇が出来たらこの後ろにあとで加筆という形で載せられたらいいと思います。その際には最新話あたりでも報告させていただきたいと思います。
では、今回はこのあたりで。
次回は再び内閣総理大臣に就任することになり組閣され第2次松方正義内閣についてです。




