第4代 第一次松方正義内閣
第4代 第一次松方正義内閣
在任期間1891年5月6日~1892年8月8日(461日)
国務大臣
内閣総理大臣 ④ 松方正義(薩摩藩・前大蔵大臣)
外務大臣 ⑤ 青木周蔵(長州藩・前外務大臣)再任 *大津事件で辞任
⑥ 榎本武揚(幕臣・元逓信・文部大臣)海軍中将
内務大臣 ⑤ 西郷従道(薩摩藩・前内務大臣)再任 陸軍中将 *大津事件で辞任
⑥ 品川弥二郎(長州藩)
⑦ 副島種臣(肥前藩・元外務卿)
⑧ 松方正義 兼任
⑨ 河野敏鎌(土佐藩・元文部卿)兼任
大蔵大臣 ④ 松方正義 兼任
陸軍大臣 ④ 大山巌(薩摩藩・前陸軍大臣)再任 陸軍中将
⑤ 高島鞆之助(薩摩藩)陸軍中将
海軍大臣 ⑤ 樺山資紀(薩摩藩・前海軍大臣)再任 海軍中将
司法大臣 ④ 山田顕義(長州藩・前司法大臣)再任 *大津事件で辞任
⑤ 田中不二麿(尾張藩・元司法卿)
⑥ 河野敏鎌 兼任
文部大臣 ⑥ 芳川顕正(徳島藩・前文部大臣)再任
⑦ 大木喬任(肥前藩・班列)兼任
農商務大臣 ⑦ 陸奥宗光(紀伊藩・前農商務大臣)再任 衆議院議員
⑧ 河野敏鎌 兼任
⑨ 佐野常民(肥前藩・元大蔵卿)
逓信大臣 ⑤ 後藤象二郎(土佐藩・前逓信大臣)再任
班列 大木喬任 再任
内閣書記官長 ③ 周布公平(長州藩・前内閣書記官長)再任
④ 平山成信(幕臣)
参考・引用
ウィキペディア『第1次松方内閣』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E6%9D%BE%E6%96%B9%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸『第1次松方内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/04.html
主な出来事
1891年5月 第1次松方内閣成立
大津事件(青木外相、西郷内相、山田司法相が引責辞任)
11月 第2議会招集
12月 田中正造が足尾銅山鉱毒問題についての質問書を議会に提出する
樺山海軍大臣による蛮勇演説
日本初の衆議院解散
1892年2月 第2回衆議院議員総選挙 品川弥二郎内務大臣による選挙干渉
大本教発足
日本初の日刊紙『東京日日新聞』(現毎日新聞)発刊
3月 品川内務大臣、選挙干渉の引責辞任 陸奥農商務相辞任
4月 東京神田の大火
5月 第3議会招集
6月 田中司法相、芳川文部相、副島内務相辞任
7月 閣内不統一により第1次松方内閣総辞職(なお、政務執行内閣として次期内閣の組 閣される8月8日まで職務は継続)
参考・引用
坂の上の雲マニアックス『1891年(明治24年)』
『1892年(明治25年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1892.html
ウィキペディア『1891年』http://ja.wikipedia.org/wiki/1891%E5%B9%B4
『1892年』http://ja.wikipedia.org/wiki/1892%E5%B9%B4
第一学習社『最新日本史図表』
山川出版社『詳説日本史B』
概要
第1次山縣内閣の総辞職により成立したのが、内閣制度の発足以前1881年明治十四年の政変の時から大蔵卿、大蔵大臣として松方デフレを主導してきた松方正義が内閣総理大臣として組閣した第一次松方内閣です。
前回、第一次松方内閣についての概要は2つすると言いました。その2つを紹介する前に閣僚の顔を見ていきたいと思います。青木外務大臣、西郷従道内務大臣、松方正義大蔵大臣、大山巌陸軍大臣、樺山資紀海軍大臣、山田顕義司法大臣、芳川顕正文部大臣、陸奥宗光農商務大臣、後藤象二郎逓信大臣、周布公平内閣書記官長、班列大木喬任の11ポスト中11ポストでつまりは全閣僚の再任が行われていることからいわゆる居ぬき内閣となります。本来松方は総理にはなるつもりはなかったのであったが、伊藤博文と山縣有朋に強く押されたことにより総理になることとなりました。そうした経緯もあり松方は政権を運営する自信がなかったのか全閣僚の再任で内閣を運営していこうとします。民党からは「黒幕内閣」「二流内閣」と揶揄されます。発足した第1次松方内閣ですが、発足してすぐに複数の閣僚が辞任する事態となり1か月後には海軍、農商務、逓信の3大臣以外の閣僚が差し替わってしまった。また、この人事による薩長藩以外の出身者が多く絞められたことから政権運営が危うくなっていった。
また、この内閣においては内閣の閣僚人事が3つの時期に分かれています。1つ目が発足時、2つ目が1891年6月から1892年6月、3つ目が6月から内閣総辞職までです。同じ時期に複数の閣僚が同時に辞任しているということもあり現在でいうところの内閣改造あたりのことをされていたと考えてもいいのですが、実際には内閣における対立や伊藤、山縣ら長老の圧力があったそうです。
今回の人事で私が取り上げたいと思うのが、初の尾張藩出身の閣僚である田中不二麿司法大臣と2人目の幕臣出身平山成信内閣書記官長です。
最初に田中不二麿司法大臣から。在任期間は1891年6月1日~1892年6月23日と約1年。尾張藩は尾張徳川家という徳川御三家の1つが治める藩であったが、鳥羽・伏見の戦いにおいては新政府についたことにより藩主が新政府の議定に任じられているため比較的親政府の藩であった。新政府においては教育行政に関わり、岩倉使節団の文部理事官として渡欧した。以後も文部大輔という文部省の役職になって、教育令など明治に制定された欧米式の教育制度を建白するなど教育行政の第一人者として政府で活躍した後に司法大臣として入閣することになりました。
ここで私が思ったことは、田中は教育行政をわたってきたということは教育行政の文部大臣に何でならなかったのかということです。
それには田中が作った教育令が深くかかわっています。教育令はイギリス式の自由主義な教育の法律です。また、教育のほとんどを地方に任せたため地方の負担が大きくなったこともあり批判が飛び交います。教育令の前に出されていた学制は中央集権的な性格を持っておりこれもまた批判されていたことに対処するために地方へ大部分をゆだねたのですが、これもまた新たな批判が生まれました。地方にゆだねたため学校教育がままならなくなってしまったのです。そして、これと次期同じくして太政官の参議が廃止となり、各省の卿に大異動があった。この時に新たに文部卿には第1次松方内閣の内務・司法・農商務大臣である河野敏鎌が就任し、田中は司法卿へと昇進します。田中はこの時(1880年)に司法卿に就任して以降文部行政には関わることはなくなりました。教育令はその後改正され初代文部大臣森有礼の手によって作られた学校令の施行と同時に廃止となります。
続いて平山成信内閣書記官長についてです。まず、内閣書記官長というのは現在で言うところの内閣官房長官にあたりますが現在とは違って実際には国務大臣扱いとは少し違ったものであり、職権も現在ほど強くないものでした。そもそも現在の内閣官房長官の権力が定められたのは2001年の中央省庁再編の時でした。さて、関係ない話はこの辺にして平山について語っていきたいと思います。
2人目の幕臣出身となると、1人目は誰かとなります。1人目は私がしつこいほど紹介した榎本武揚外務大臣です。
さて、平山について語ります。と、思っていたのですが意外とネットでいろんなサイトを探して回ったのですが、平山についての詳細がなくてやっぱりやめようかと思いました。そこで幕臣出身ということの関係で義理の父親の平山省斎について語りたいと思います。
平山省斎は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の側近として外国奉行などを務めた幕臣です。外国奉行というのは現在でいうところの外務大臣です。また、平山省斎は神道家としても有名であり神道大成教の創始者です。ちなみに平山成信は養子として育てられたそうです。
ここまでで3000文字ちょい行きましたがここからが本番です。私は、第1次松方内閣においては2つのことを説明したいと言いました。では、さっそくその2つのことについて入っていきたいと思います。
1つ目。何といってもこの内閣を高校の日本史において勉強する際に最重要となってくる用件の1つ、大津事件についてです。
大津事件とは何か? まずはそのことから始めたいと思います。
大津事件(別名湖南事件)。1891年明治24年5月11日に滋賀県の現在の大津市において来日中であったロシア帝国の皇太子ニコライ(のちのロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世)が警備にあたっていた警察官の津田三蔵に襲われて負傷した事件のことです。この事件は当時の日本はまだ日露戦争前でありロシアという列強の1国相手に勝てるかどうかわからない緊張した状況であり、そんな中仮想敵国であったロシアの皇太子を斬りつけたということは国家の滅亡がかかったとても緊迫したものでした。行政つまりは第1次松方内閣はロシアとの関係を考慮したうえで津田を死刑に処すように大審院(現在における最高裁判所)に圧力をかけますが、司法は行政に対してきっぱり拒絶し日本において三権分立が確立した日本法学史における重要事件です。
では、大津事件の経過について語っていきたいと思います。1891年5月のシベリア鉄道起工式典に参加する予定であったニコライはロシア帝国海軍の船で移動する途中日本に立ち寄りました。日本政府は当時はまだ小国であったためニコライを国賓扱いで丁重に接待します。そして、事件が起きたのは琵琶湖への観光の際に起きました。警備を担当していた滋賀県警の津田三蔵巡査が突如としてサーベルでニコライに襲い掛かったのです。ニコライはこの襲撃で負傷しました。津田は負傷したニコライが逃げるのを追いかけますが車夫やニコライと一緒に来日していたギリシャ王国の王子ゲオルギオスらの攻撃のよって警察官に取り押さえられることとなります。有栖川宮威仁親王もニコライと共に刊行していましたが、この事件を重く見て政府に十条外交問題として解決するように天皇のニコライへの見舞いをさせるなどロシアの日本への報復への対処をすることとなります。
日本政府はこの事件を受けてさっそくロシア対策のために裁判官に死刑を命じるように行動を開始します。日本の天皇や皇族に対して危害を与えたものに適用する大逆で死刑にしようとしたのでした。しかし、大逆罪は旧刑法第116条に記されていたのですが、その対象は日本の天皇や皇族であり外国の皇族は含まれてはいませんでした。司法界では裁判官の中には死刑にすべきという意見もありましたが、大審院院長(現在の最高裁判所長官)の児島惟謙が「法治国家として法は遵守されなければならない」とする立場から、「刑法に外国皇族に関する規定はない」として政府の圧力に反発しました。
こうして津田は暗殺未遂として無期懲役となりのちに獄死することとなります。
事件後の影響として日本において三権分立──三権とは司法・立法・行政──が確立します。また、外務大臣青木周蔵はロシアとのこの事件の対処に対する密約もあり責任をとり辞任、内務大臣西郷従道も警察官は内務省管轄、国内での重大事件と言うこともあり責任を取り辞任、司法大臣山田顕義も病気を理由に辞任するが実質はこの事件における司法界の動揺の責任を取り辞任することとなります。中でも、青木外務大臣は伊藤博文とこの事件で対立したことのより政治生命を断ち切られることとなります。
2つ目は第2回衆議院議員総選挙です。第2議会においても政府は民党と対立をします。特に樺山海軍大臣の「蛮勇演説」を機に対立は頂点となったことから松方は衆議院を初めて解散することとなります。そして、この選挙において品川内務大臣が大選挙干渉し第1次松方内閣総辞職の原因となります。というのが、高校日本史の内容です。では、その中身を詰めていこうと思います。
まず当時は記名選挙であったためだれがだれに投票したのかわかる状況でありました。まず、松方総理と品川内務大臣が府県知事に吏党候補を応援するように要請を出します。そして、各府県知事がその府県において警察官と共に大選挙干渉をしました。選挙運営、府県知事、警察官そのすべてが内務省の管轄であるためいかに品川内務大臣の力が大きかったのかわかります。記名選挙であるがゆえに事由に投票することができずこの選挙期間に最終的に全国で死者25名、負傷者388名出る大惨事でした。特に、自由党の強かった高知県では、死者数が10名にも上りました。
ちなみに選挙の結果は民党132議席[-39議席](内訳:自由党94議席[-36議席]、立憲改進党38議席[-3議席])、吏党124議席[+40議席](内訳:中央交渉部81議席、独立倶楽部31議席、近畿倶楽部12議席)、無所属44議席[-1議席]となりました。民党は選挙干渉の影響で議席を大きく減らしていますが、それでも吏党を上回ることができました。
選挙後に、伊藤はさすがにやり過ぎであるとして品川内務大臣に圧力をかけて責任を取らせ辞任させます。民党側は松方内閣を暴力内閣として総辞職を要求し政府との対立はいよいよ激しくなりました。そして、数か月後にこの選挙干渉が遠因となって松方はついに内閣総辞職決めます。
今回は、このあたりで終わりとします。第1次松方内閣の総辞職後の新総理にはあの人がカムバックします。それでは、近いうちに次話を更新できるように頑張ります。
ウィキペディア・『田中不二麿』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E9%BA%BF
・『教育令』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E4%BB%A4
・『大津事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6
・『第2回衆議院議員総選挙』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99
コトバンク・『田中不二麻呂 たなか・ふじまろ』https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E4%B8%8D%E4%BA%8C%E9%BA%BB%E5%91%82-1135260
『平山省斎』https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E7%9C%81%E6%96%8E-121637
『平山成信』https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%B1%B1%E6%88%90%E4%BF%A1-1104199
『大津事件 おおつじけん』https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6-39396
文部科学省『四 教育令の公布』http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317583.htm
知っていましたか? 近代日本のこんな歴史『大津事件』http://www.jacar.go.jp/modernjapan/p05.html
日本の歴史についてよくわかるサイト『第二回衆議院議員総選挙での選挙大干渉について』http://www.worldwide-transition.info/meiji/teikoku/daikansyo.html
今回はとても長くなりました。