第43代 東久邇宮成彦内閣
第43代 東久邇宮成彦内閣
在任期間 1945年8月17日~1945年10月9日(54日)
国務大臣
内閣総理大臣 43 東久邇宮稔彦王 皇族・陸軍大将・貴族院議員無所属
外務大臣 71 重光葵 (元外務大臣)貴族院議員無所属
72 吉田茂 外務省官僚
内務大臣 66 山崎巌 内務省官僚
大蔵大臣 55 津島寿一(元大蔵大臣)貴族院議員研究会
陸軍大臣 55 東久邇宮稔彦王 兼任
56 下村定 陸軍大将
海軍大臣 51 米内光政(前海軍大臣)海軍大将 再任
司法大臣 58 岩田宙造 貴族院議員同和会
文部大臣 69 松村謙三 衆議院議員大日本政治会
70 前田多門 貴族院議員同成会
農商大臣 ⑤ 千石興太郎 貴族院議員無所属倶楽部 8月26日廃止
農林大臣 ① 千石興太郎 8月26日設置
軍需大臣 ⑤ 中島知久平(元鉄道大臣)衆議院大日本政治会 8月26日廃止
商工大臣 ① 中島知久平 8月26日設置
運輸大臣 ② 小日山直登(前運輸大臣)貴族院議員無所属 再任
大東亜大臣 ⑤ 重光葵 貴族院議員無所属
厚生大臣 ⑬ 松村謙三
国務大臣 近衛文麿(元内閣総理大臣)貴族院議員火曜会
国務大臣 緒方竹虎(前国務大臣)貴族院議員無所属
国務大臣 小畑敏四郎 予備役陸軍中将
内閣書記官長 53 緒方竹虎 兼任
政務次官、参与官は、新たに採用されなかったため省略。
◇参考
・ウィキペディア『東久邇宮内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E5%86%85%E9%96%A3
主な出来事
1945年 8月 ・東久邇宮内閣成立。
・満州国皇帝愛新覚羅溥儀退位。
・ソ連軍が千島列島で攻撃開始。
・内務省が占領軍向け特殊慰安施設を設置するよう地方長官に通達。
・東京に飛来した米軍偵察機を高射砲・零戦で迎撃。
・大本営が戦闘中止を発令。
・昭和天皇が東久邇宮首相に燈火管制解除等を指示。
・ベトナムで親日政権に対しベトミンが蜂起。
・三船殉難事件。
・海軍総隊司令部が戦闘停止を発令。
・天気予報復活。
・燈火管制解除・信書検閲停止。
・日本陸海軍の復員開始。
・音響管制解除・電報小包制限解除・娯楽興行再開許可。
・ソビエト連邦の指導者ヨシフ・スターリンが日本軍捕虜のソ連国内への移送を指 令(シベリア抑留)。
・川口放送所占拠事件。
・松江騒擾事件。
・大東亜省・軍需省廃止、農商省を農林省と商工省に分離。
・終戦連絡事務局設置。
・占領軍向け特殊慰安施設の第1号開業(小町園、東京大森)。
・敦化事件。占領軍の暴行に抗議して婦女子集団自決。
・連合国軍先遣部隊が沖縄本島より厚木飛行場に到着
・東久邇宮首相が記者会見で「将来言論を活発に」「一億総懺悔」等発言。
・マッカーサーが沖縄本島より厚木飛行場に到着し、米太平洋軍総指令部を横浜税 関に設置。
・ソ連は北海道占領への樺太での軍事行動を停止。
・五所平之助監督の『伊豆の娘たち』が上映。戦後初の封切り映画となる
・米軍主力が横浜・館山に上陸。
9月 ・第88臨時議会召集。
・東京劇場興行再開。
・東亜交通公社が日本交通公社に改称。
・NHK仙台放送局、NHK熊本放送局が第二放送の放送開始。
・連合国が東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、重光葵・梅津美治郎らが降伏文書調印 (第二次世界大戦終結。対日戦勝記念日)。
・陸海軍解体・軍需工業停止などを命令
・ソ連軍が日本の北方領土を占領。
・英人記者バーチェットが広島の惨状を取材し「No More Hiroshima」と打電。
・米軍進駐により神奈川県で女学校に休校を指示。
・ウェーク島の日本軍が降伏。
・アイヴァ・ダキノを東京ローズとして逮捕。
・中央本線笹子駅で脱線事故。
・マッカーサー元帥が東京に進駐。
・南京において中国の日本軍が降伏文書に調印。
・NHKが歌謡曲・軽音楽の放送を再開。
・「新聞報道取締方針」を発令し検閲を開始。
・大本営廃止を発令。
・『インドネシアの声』放送開始。
・東條英機ら戦犯容疑者39人に逮捕令(東條は自殺未遂)。
・マッカーサー元帥が記者会見で「日本は四等国に転落」と発言。
・シンガポールの日本軍が降伏。
・大本営廃止。
・元厚相小泉親彦中将が割腹自殺。
・大日本政治会解散。
・占領軍の動静を海外に発信していた同盟通信社に業務停止命令(事前検閲に移 行)。
・総司令部を東京・日比谷の第一生命館に移転。
・民間検閲支隊フーバー大佐が「連合国に対する批判禁止・100%の検閲実施」を表 明。
・誠文堂新光社「日米會話手帳」刊行。
・枕崎台風来襲
・重光葵外相辞任(後任吉田茂)。
・瑞穂村開拓団集団自決。
・鳩山一郎談話他を掲載した『朝日新聞』に発行停止命令
・日本新聞遵則を発令
・ニッポンタイムズに発行停止命令
・文部省が教科書の軍国的表現に墨塗りを指示(終戦二伴フ教科用図書取扱方二関 スル件)
・東京飛行場(羽田)を接収するため,海老取川以東住民に強制立退きを命令
・日本放送遵則を発令
・「新聞界の政府からの分離」を発令
・外国人記者2名が昭和天皇に拝謁しインタビューを行う
・復員船第1船「高砂丸」がメレヨン島より別府に到着
・三木清が豊多摩拘置所で獄死
・昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
・新聞各紙が昭和天皇のマッカーサー元帥訪問時の写真、および天皇のインタ ビュー記事を掲載したため、情報局が新聞紙法により頒布禁止とするが、GHQ は「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令 し頒布禁止を無効化。
10月 ・魚悦商店(現在のマルエツ)創業。
・光文社設立。
・連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)設置。
・「政治的、公民的及宗教的自由に対する制限除去」発令。
・特別高等警察が廃止される。
・東久邇宮内閣総辞職。
◇参考
・ウィキペディア『1945年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1945%E5%B9%B4
概要
さて、久しぶりに内閣の考察となります。今回は、戦後最初の内閣ということで東久邇宮内閣について見ていきます。さて、この内閣はいろいろな記録を持っています。まずは、歴代内閣の中で最も短命に終わった内閣です。内閣は54日で総辞職しています。54日。約2か月です。東久邇宮総理はわずか2か月だけ総理であったのです。今になったら国民から散々な評価をもらいますね。そして、最初でおそらく最後となるであろう皇族出身の内閣です。東久邇宮という名前の通り総理である成彦王は皇族です。今は、皇族は政治に関与できないためおそらく最初で最後の皇族総理になるであろうです。
さて、閣僚人事では緒方内閣書記官長、前田文部大臣、総理秘書官、緒方大臣の秘書官、内閣参与などにおいて朝日新聞関係者が多く採用されたことから朝日内閣とも呼ばれました。
東久邇宮内閣において重要政策となったのは、敗戦処理です。東久邇宮総理が一億総懺悔を発表したり、国体護持を通したりして戦後日本の姿を作ろうとします。GHQの指導の下で省庁再編、軍の武装解除、連合国軍の進駐、降伏文書調印などを実施しますが、GHQの自由の指令への対処が問題となった。この指令は、人権確保のため、治安維持法、宗教団体法などの廃止や政治犯・思想犯の釈放、特別高等警察(特高警察)の解体、日本共産党員や違反者の引き続きの処罰を明言した山崎巌内務大臣始め内務省幹部の罷免などを内容としていました。これによって共産主義者が再び世に出て日本の秩序を乱し革命を起こすのではないかと警戒し、急な改革に反発した東久邇宮内閣はGHQの指令にずっと従っていましたが、唯一の反抗として内閣総辞職をします。これが54日で終わった内閣ということです。ですが、54日の間に多くの改革がなされているので、その急な改革に対する反発が当時の日本政府にあったことは容易に分かります。
さて、次回はまだ生きていたのですかと言われてしまった幣原内閣についてやります。
◇参考
・ウィキペディア『東久邇宮内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E5%86%85%E9%96%A3