第3代 第一次山縣有朋内閣
第3代 第一次山縣有朋内閣
在任期間1889年12月24日~1891年5月6日(499日)
国務大臣
内閣総理大臣 ③ 山縣有朋(薩摩藩・前内務大臣)
外務大臣 ④ 青木周蔵(長州藩)
内務大臣 ③ 山縣有朋 兼任
④ 西郷従道
大蔵大臣 ③ 松方正義(薩摩藩・前大蔵大臣)再任
陸軍大臣 ③ 大山巌 (薩摩藩・前陸軍大臣)再任
海軍大臣 ③ 西郷従道(薩摩藩・前海軍大臣)再任
④ 樺山資紀(薩摩藩)
司法大臣 ③ 山田顕義(長州藩・前司法大臣)再任
文部大臣 ④ 榎本武揚(幕臣・前文部大臣)再任
⑤ 芳川顕正(徳島藩)
農商務大臣 ⑤ 岩村通俊(土佐藩)
⑥ 陸奥宗光(紀伊藩)衆議院議員
逓信大臣 ④ 後藤象二郎(土佐藩・前逓信大臣)再任
班列 大木喬任(肥前藩・枢密院議長)
内閣書記官長 ③ 周布公平 (長州藩)1889年12月26日より
参考
・ウィキペディア『第1次山縣内閣』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E5%86%85%E9%96%A3#cite_ref-.E5.85.BC.E4.BB.BB_1-0
・首相官邸─第1次山縣内閣http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/03.html
主な出来事
1889年 12月 第1次山縣内閣成立
周布公平内閣書記長官就任
内閣官制制定
1890年 1月 森鴎外『舞姫』発表
2月 国民新聞創刊(発刊者:徳富蘇峰)
4月 第3回内国勧業博覧会開催
ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)来日
民事訴訟法公布
商法公布
5月 府県制郡制公布
西郷従道内相、樺山資紀海相、芳川顕正文相、陸奥宗光農商務相就任
7月 第1回衆議院議員総選挙
9月 立憲自由党結党
エルトゥールル号遭難事件
10月 刑事訴訟法公布
元老院廃止
教育勅語発布
11月 帝国ホテル開業
第1回帝国議会
12月 足尾銅山鉱毒事件
1891年 1月 内村鑑三不敬事件
帝国議会議事堂全焼
2月 三條実美死去
3月 立憲自由党、自由党と改称
ニコライ堂完成
5月 予算案成立、議会終了
第1次山縣内閣総辞職
参考・引用
インターネット:ウィキペディア
『1889年』http://ja.wikipedia.org/wiki/1889%E5%B9%B4
『1890年』http://ja.wikipedia.org/wiki/1890%E5%B9%B4
『1891年』http://ja.wikipedia.org/wiki/1891%E5%B9%B4
『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1889年(明治22年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1889.html
『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1890年(明治23年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1890.html
『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1891年(明治24年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1891.html
書籍:第一学習社『最新日本史図表』
『〈日本の近代 3〉明治国家の完成1890~1905』
概要
明治天皇より三條暫定内閣が2か月続いた後に大命降下を受けて成立した内閣が第1次山縣有朋内閣です。山縣は第3代内閣総理大臣を辞めた後もう一度総理大臣に再就任しますので第1次内閣です。
さて、今回はどんなことを話しましょうか。では、まずは閣僚の顔ぶれから見ていくことにしましょう。前内閣からの再任者は6人となっています。松方、西郷などの薩長の重臣に加えて私がここ数回しつこいほど紹介した榎本も再任しています。外務大臣には青木周蔵が就任しています。青木外務大臣は高校の日本史Bの教科書にも名前が出てくる存在であり文系の方であれば名前は聞いたことがあると思います。寺島宗則外務卿、井上馨、大隈重信外務大臣に続く4人目の条約改正交渉の担当者です。あとは、近内閣で初めて現職の衆議院議員が閣僚として入閣しています。陸奥宗光です。陸奥は小学校のことから社会の教科書に登場するほどの人物であるので皆さんは知っていると思います。陸奥は外務大臣という印象がでかいのですが実は初入閣は農商務大臣だったのです。それから伊藤が総理に再びなると外務大臣に就任するのですがそのあたりの話はまたあとですることにします。あとの新ブレについては次官からの昇格メンバーとなっており新鮮味がかけています。
では、閣僚の顔ぶれを簡単にまとめたあたりから私が注目したい場所を話していきたいと思います。この内閣で取り上げたいことは今までの人物中心ではなく上記の主な出来事から内閣の対応について話していきたいと思います。では、2つある中の1つ目から行きたいと思います。
1つ目。上の主な出来事を見て一番重要であることは1890年7月1日に日本史上、いやアジア史上初めてとなる国民による民主的な選挙が行われました。第1回衆議院議員総選挙です。現在まで47回行われている選挙の栄えある第1回目です。この選挙は政府にとっては重要なものでありました。まず国会開設までに政府と民権派が行った自由民権運動の対立がありました。政府はこの選挙で勝たなければ政局を乗り切ることが難しいのです。実はこの選挙の行われる1年前1889年まだ黒田清隆が首相であったころに黒田は超然演説というものをしています。いわゆる超然主義の発表です。この内容は政府の行うことは議会には影響されないというものです。簡単に言えば政党の力は政府には及ぶことはないというものです。
しかし、政党の力はものすごく強かったのです。政府は何としても政府運営をよくするために選挙に自分たち寄りの人たちにも政党を作らせて立候補させます。大成会、国民自由党です。これらは吏党と呼ばれました。対して立憲自由党、立憲改進党など自由民権運動を主導してきた反政府の政党は民党と呼ばれました。この選挙の結果300議席中民党が171議席(内訳立憲自由党130議席、立憲改進党41議席)、吏党が84議席(内訳大成会79議席、国民自由党5議席)、無所属45議席と民党は過半数を超えて勝利します。
この選挙の結果は政府の首を絞めることとなりました。それは、予算案が民党のせいで通らないのです。現在でも与党と野党との間で予算案を巡って対立が起きますが当時もそうだったのです。予算案は今も昔も衆議院の優越により衆議院から審議入りすることになっています。山縣首相は議会の施政方針演説で国力増強(いわゆる主権線演説)を主張し、民党らの『政費削減』、『民力休養』の主張と対立してしまい予算案は通らなくなってしまいます。衆議院で通らなければ貴族院に予算案は送られることなく廃案となってしまいます。
では、どうやって成立させればいいのか。この時、山縣首相には2つの選択肢がありました。1つ目は民党議員を何としても説得させて切り崩しを行い成立させることです。2つ目は衆議院の解散です。しかし、後者にはリスクがありました。国家予算のリスクというのありましたが、国内的なことよりも国外的なことが解散できない影響にありました。日本は欧米以外で初めて国会が開設されて注目を浴びていました。もし、ここで解散をしてしまえば予算案すら通すことのできな野蛮人のごっこ遊びという認識が欧米では持たれてしまいます。なので、山縣首相は1つ目の選択肢を使います。自由党の土佐派の議員を買収して切り崩し予算案を可決させます。こうして予算案は無事に成立し山縣は難局を乗り越えました。
ちなみにどうでもいいことですが、土佐派の買収にものすごくキレた議員がいました。その人はルソーの著書を『民約訳解』として発表した中江兆民です。中江はこの土佐派の行動に対してあることを発表します。曰く、衆議院は蛆虫の巣窟らしいです。そう発表して議員を辞職します。まあ、私としてはたった数か月で議員を辞職したあなたにそんなことを言う権利があるのかと思ったりしましたが、まあ、彼は思想界において偉大な人物なのでそれなりの理念があったのでしょうね。まあ、私はそれでも認めませんが……
2つ目は内閣の対応とは少し関係が薄いのですが、私個人が感動した出来事としてのエルトゥールル号遭難事件についてです。
エルトゥールル号はオスマントルコ帝国の持つフリゲートです。フリゲートとは軍艦の一種ですが、その軍艦が1890年9月16日に和歌山県串本町沖で台風による強風で海上遭難して座礁してしまいました。死者行方不明者500人以上を出す大きな被害でした。大島村(現在の大串町)の人々は自身の暮らしが貧しいのにもかかわらずトルコ人を救出救援しました。おかげでトルコ人の方々は無事にのちに日本海軍の『比叡』と『金剛』によってオスマントルコまで連れて行かれます。
私は、この話を知ったのは小学生のころに何かの歴史の本で読みました。初めて読んだときにいい話だと感動したので山縣内閣とは直接的には関わりがない(実際は内閣は全力でエルトゥールル号の人々を援助しています)ですが、載せてしまいました。
それと、この話には後日談があります。1985年に起こったイラン・イラク戦争での出来事です。1985年? まったくエルトゥールル号と関係がないじゃないですかと、思う人もいると思います。私も最初はそうでした。しかし、この話はとても深い関係があるのです。イラン・イラク戦争でイラン上空を飛ぶ飛行機すべてを打ち落とすとフセイン大統領は宣言しました。制限時間は48時間。日本は当時は自衛隊を海外派遣することができなかったのでイランに残った邦人を救出するために民間の日本航空に要請しました。しかし、日本航空は危険を理由に拒否。と、なりますと誰も助けが来ないでこのままだと法人は死んでしまいます。在イラン大使館は各国に救援を頼みます。しかし、各国は自国民の避難で精いっぱいです。まあ、自国民を助けるのに精いっぱいであるということはわかります。こんな緊迫した状況の中で他国民を助ける余裕なんて持っているはずがないのです。各国に拒否されて絶望的な状況でした。そんな中、トルコ政府とトルコ航空が救援に応じてくれました。日本人が無事イランを脱出したのはタイムリミットの1時間15分前であり本当に危機一髪でした。
この時に、トルコ政府はエルトゥールル号のお礼として救援してくれたと言います。事実はどうであれ私としては他国民のために救援に協力してくれた。しかも、自国民は飛行機ではなく自動車による陸地での避難をしたみたいです。そんなトルコさんには本当にありがたいと思います。
ちなみに今年でエルトゥールル号遭難から125年になるそうです。今年の12月には日本・トルコ合作映画として『海難1890』が公開されるみたいです。私もぜひ見てみたいと思います。
では、今回はこの辺で終わりにしたいと思います。参考や引用を載せる関係で見づらくなっていますがその辺はご了承ください。次回は第1次松方正義内閣についてやります。第1次松方内閣において解釈したいと私が考えていることは2つあります。では、またの機会に。
参考・引用
ウィキペディア: ・『イラン・イラク戦争』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%88%A6%E4%BA%89#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E9.80.A3
・『エルトゥールル号遭難事件』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB%E5%8F%B7%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
・『エルトゥールル (フリゲート)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%AB_%28%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%88%29
NAVERまとめ: ・『【日本とトルコの友情】エルトゥールル号遭難事件』http://matome.naver.jp/odai/2136957767984439301
・日本・トルコ合作映画『海難1890』公式HPhttp://www.ertugrul-movie.com/
大臣と書くべきか○○相と書くべきか悩んでいる。