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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
昭和時代戦前
45/58

第39代 第三次近衛文麿内閣

 第39代 第三次近衛文麿内閣

 在任期間1941年7月18日~1941年10月18日(93日)


 国務大臣


内閣総理大臣 39 近衛文麿(前内閣総理大臣)貴族院議員火曜会

外務大臣   63 豊田貞次郎(前商工大臣)予備役海軍大将

内務大臣   60 田辺治通(元内閣書記官長)貴族院議員無所属倶楽部

大蔵大臣   49 小倉正恒(前国務大臣)貴族院議員昭和研究会

陸軍大臣   51 東條英機(前陸軍大臣)再任 陸軍中将

海軍大臣   46 及川古志郎(前海軍大臣)再任 海軍大将

司法大臣   53 近衛文麿 兼任

       54 岩村通世 元検事総長

文部大臣   62 橋田邦彦(前文部大臣)再任 東京帝大医学部教授

農林大臣   22 井野碩哉(前農林大臣)再任 農林省官僚

商工大臣   24 左近司政三 予備役海軍中将 貴族院議員同和会

逓信大臣   55 村田省蔵(前逓信大臣)再任 貴族院議員同和会 

鉄道大臣   25 村田省蔵 兼任

拓務大臣   21 豊田貞次郎 兼任 予備役海軍大将

厚生大臣   ⑧ 小泉親彦 予備役陸軍軍医中将

国務大臣    平沼騏一郎(前国務大臣)再任

        柳川平助 予備役陸軍中将

        鈴木貞一(前国務大臣)再任 予備役陸軍中将 

企画院総裁   鈴木貞一(前企画院総裁)予備役陸軍中将

内閣書記官長 46 富田健治(前内閣書記官長) 再任

 

 政務次官、参与官は任命されず。

 ◇参考

・ウィキペディア『第3次近衛内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC3%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3

・首相官邸HP『第3次近衛内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/39.html

・歴代内閣に関するデータベース『第四十代:第三次近衛文麿内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/40-Konoe-vol3.htm


 主な出来事

1941年 7月 ・第3次近衛内閣発足

         ・伊藤情報局総裁が「変転極まりなき国際関係に恃むは自力のみ」と土曜放送で強調

         ・第1回海の記念日

         ・ルーズベルト米大統領,シェンノート指揮下の義勇空軍の中国配置を認可し,軍事           援助を明らかにする。

         ・日本・仏印間に南部仏印進駐細目の話合い成立

         ・米が在米対日資産を凍結

         ・英が在英日本資産を凍結

         ・極東アメリカ軍をフィリピンに創設(司令官ダグラス・マッカーサー中将)

         ・蘭印が在蘭印日本資産を凍結

         ・日本軍、フランス領インドシナ南部進駐(南部仏印進駐)。

      8月 ・米、石油の対日輸出全面禁止を発表

         ・大西洋憲章発表

         ・豊田外務大臣が日米首脳会談を要請

         ・イギリス・ソビエト連邦がイラン進駐を開始

      9月 ・日米首脳会談の要請を米国が拒否

         ・御前会議にて「帝国国策遂行要領」を決定

         ・日本軍、西貢に上陸。

     10月 ・第3次近衛内閣総辞職


 ◇参考

ウィキペディア『1941年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1941%E5%B9%B4


 概要

 さて、今回は前回に引き続き近衛文麿率いる内閣である第3次近衛内閣について見ていきます。さて、第3次近衛内閣は初めての内閣でもあります。何が初めてだというと連続して2回連続で総理になる内閣です。ご存じのとおり大日本国憲法下においては天皇により大命降下がなされ総理大臣に就任します。そのため、大命降下された回数で内閣が代わります。基本的には大日本国憲法下では総理が続けるということは新たに任命される必要がないので1代の内閣で十分です。しかし、この憲法下での問題は現在の様に総理には自由に閣僚を任命する権利がなかったため閣内で不一致が起きるとすぐに総辞職しなければならないという点がありました。そして、第2次近衛内閣においてもただ1人外交的に強硬策に出てソ連にはまり、ドイツに陶酔した問題児松岡洋右外務大臣がいました。近衛的には英米との対決を避けたいのが本音であり、戦争に自信はありませんでした。そのため、アメリカと戦争回避の交渉をするためにも松岡を更迭しなければいけません。そこで、あえて1回内閣総辞職をし改めて大命降下で内閣総理大臣になりました。

 アメリカとの戦争を回避するための日米交渉は野村吉三郎駐米大使がしていました。しかし、日本軍が南部仏印に進駐すると7月にアメリカは米国内の日本資産を凍結し、8月1日には石油類の対日輸出を禁止するほどの反発をします。近衛総理はその辺をきちんと計算することができていないことは確かです。といっても、これらの政策は軍部が行っていたものであり総理が関与で来ていたかは怪しいですが。9月6日に行われた御前会議で高校日本史B教科書にも出てくるいわゆる、帝国国策遂行要領を決定し、「外交手段を尽くすが、10月下旬までに対米戦争の準備を完了し、10月上旬においても交渉の目途が立たなければただちに開戦を決意する」というものを策定します。この時、対米交渉について及川古志郎海軍大臣は「アメリカの要求を丸飲みする覚悟で交渉すべし」と近衛総理を支持しますが、他方対米戦争の勝算が立たないことを海軍の名において公言することを回避しています。一方、大東亜共栄圏などを提唱している東條英機陸軍大臣は、アメリカの要求する仏印・中国からの撤兵受け入れを全く考慮しないわけではなかったが、陸軍部内の強硬論を代表する立場であるため東條陸軍大臣は近衛総理と対立します。

 その後、10月になっても日米交渉はうまくいきません。そして、ついに帝国国策遂行要領による期限が迫ってきました。近衛は戦争に自信がありませんでした。東條陸軍大臣を説得してどうにか戦争について回避をしようとするもうまくいかず、結局3か月で政権を投げ出す終わり方をしました。後任には戦争推進派の東条がなりますが、これについては次回見ていきます。


 ◇参考

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