第38代 第二次近衛文麿内閣
第38代 第二次近衛文麿内閣
在任期間1940年7月22日~1941年7月18日(362日)
国務大臣
内閣総理大臣 38 近衛文麿(元内閣総理大臣)貴族院議員火曜会
外務大臣 62 松岡洋右 外務省官僚
内務大臣 58 安井英二(元文部大臣)貴族院議員
59 平沼騏一郎 兼任
大蔵大臣 48 河田烈(元内閣書記官長)貴族院議員公正会
陸軍大臣 50 東條英機 陸軍中将
海軍大臣 44 吉田善吾(前海軍大臣)再任 海軍中将
45 及川古志郎 海軍大将
司法大臣 51 風見章 衆議院議員
52 柳川平助 予備役陸軍中将
文部大臣 61 橋田邦彦
農林大臣 ⑲ 近衛文麿 兼任
⑳ 石黒忠篤 農林省官僚
21 井野碩哉
商工大臣 22 小林一三 民間・阪急電鉄オーナー
23 豊田貞次郎 予備役海軍大将
逓信大臣 54 村田省蔵 貴族院議員同和会
鉄道大臣 23 村田省蔵 兼任 貴族院議員同和会
24 小川郷太郎 衆議院議員
拓務大臣 ⑲ 松岡洋右 兼任 外務省官僚
⑳ 秋田清 衆議院議員
厚生大臣 ⑥ 安井英二 兼任 貴族院議員
⑦ 金光庸夫(元拓務大臣)衆議院議員
国務大臣 平沼騏一郎(元内閣総理大臣)
星野直樹 大蔵省官僚
小倉正恒 貴族院議員昭和研究会
鈴木貞一 予備役陸軍中将
企画院総裁 ⑦ 星野直樹 兼任 大蔵省官僚
⑧ 鈴木貞一 兼任 予備役陸軍中将
内閣書記官長 45 富田健治
政務次官
外務政務次官 小山谷蔵
内務政務次官 鶴見祐輔
大蔵政務次官 木村正義
陸軍政務次官 三好英之
海軍政務次官 松山常次郎
司法政務次官 星島二郎
文部政務次官 舟橋清賢
農林政務次官 岡田喜久治
商工政務次官 加藤鐐五郎
逓信政務次官 武知勇記
鉄道政務次官 宮澤裕
拓務政務次官 松岡俊三
厚生政務次官 一松定吉
参与官
外務参与官 小高長三郎
内務参与官 青山憲三
大蔵参与官 松田正一
陸軍参与官 宮崎一
海軍参与官 小山邦太郎
司法参与官 高木正得
文部参与官 仲井間宗一
農林参与官 松木弘
商工参与官 喜多壯一郎
逓信参与官 藤生安太郎
鉄道参与官 大島寅吉
拓務参与官 加藤成之
厚生参与官 飯村五郎
◇参考
・ウィキペディア『第2次近衛内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%86%85%E9%96%A3
・首相官邸HP『第2次近衛内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/38.html
・歴代内閣に関するデータベース『第39代・第二次近衛文麿内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/39-Konoe-vol2.htm
主な出来事
1940年 7月 ・第2次近衛内閣発足
・サムナー・ウェルズ米国務次官がバルト諸国のソ連への編入を承認しない旨を宣言 (ウェルズ宣言)。
・閣議で基本国策要綱を決定(大東亜の新秩序・国防国家)
・大本営政府連絡会議が「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定
8月 ・東京府が食堂・料理屋などでの米食使用を禁止。
・国民精神総動員本部が「贅沢は敵だ!」の立看板1500枚を東京市内に設置。
・吉富製薬(当時の社名:武田化成株式会社)設立。
・立憲民政党の解散により議会制民主主義が実質上停止
・八路軍、日本軍に対して大攻勢(百団大戦、 ~12月まで)。
・大日本農民組合解散
・第二次ウィーン裁定:ルーマニア王国、北トランシルヴァニアをハンガリー王国に 割譲。
・杉原千畝副領事、ナチスドイツの迫害によりポーランドなどから逃れてきたユダヤ 人に大量ビザを発給(いわゆる命のビザ)。
9月 ・大阪朝日新聞と東京朝日新聞の題号を『朝日新聞』に統一。
・クラヨーヴァ条約:ルーマニア、南ドブロジャをブルガリアに割譲。
・日本軍、フランス領インドシナ北部に進駐(北部仏印進駐)。
・日仏印軍事協定成立。
・日独伊三国軍事同盟成立。
・731部隊、浙江省で細菌戦を実施
・麻生久元社会大衆党党首死去
10月 ・第5回国勢調査(内地人口7311万4308人、外地人口3211万1793人)
・フランスのヴィシー政権がユダヤ人並びに外来者に対する法を可決。
・閑院宮が参謀総長を辞任(後任に杉山元大将)
・大政翼賛会発会式
・ドイツ軍がルーマニアに進軍開始
・立教大学のチャールズ・ライフスナイダー総長が辞任し名実共に日本の大学に
・神嘗祭の日に皇紀二千六百年奉祝全国基督教信徒大会を開催し、日本基督教団の設 立を決議
・戸田漕艇場竣工
・メキシコが対日禁輸を解除
・イタリア軍がギリシアに進軍開始(ギリシャ・イタリア戦争)
・ヒトラーとムッソリーニが会見
・バトル・オブ・ブリテン終了(イギリスVSドイツ)
・東京のダンスホール閉鎖
・敵性語追放:タバコ改名(バットが金鵄、チェリーが桜)
11月 ・戦時統制で築地小劇場が国民新劇場と改称
・小西六が国産初のカラーフィルムを発表
・米大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが3選される(後に4選される)
・帝室博物館で正倉院御物特別展開催(初の一般公開)
・アメリカワシントン州のタコマナローズ橋が強風により落橋
・紀元二千六百年記念行事
・全国の神社で午前10時に浦安の舞が奉納
・全国で提灯行列・旗行列
・赤飯用餅米特配
・イギリス海軍が空母艦載機によりターラント軍港を攻撃(タラント空襲)
・御前会議で日華基本条約および支那事変処理要項を決定
・海軍省が兵備局を新設
・ドイツ軍がイギリス中部の都市コヴェントリーを空襲
・ハンガリーが枢軸国に加入
・トルコ全土で戒厳令
・大日本産業報国会結成
・ルーマニアが枢軸国に加入
・タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。
・元老西園寺公望元内閣総理大臣死去(国葬12月5日)
・第1回全国学生柔道大会開催
・ルーマニアでイオン・アントネスクによるクーデター。ニコラエ・ヨルグを含む、 亡命中の旧国王カロル2世の支持者60人以上が逮捕・処刑される。
・議会開設五十周年式典(国会議事堂)
・日華基本条約調印(汪兆銘政権承認、日清通商航海条約破棄)
12月 ・内閣情報局設置(内閣情報部廃止)
・ドイツ ヒトラーが独ソ戦(バルバロッサ作戦)の準備を命令
・第76議会召集
・アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義国の兵器廠と なる」と発言
1941年 1月 ・映画館でニュース映画の上映が義務化
・大日本帝国海軍航空部隊が昆明を爆撃
・アメリカ海軍が 戦艦ミズーリを起工
・皖南事変。国民党軍が移動中の新四軍を包囲攻撃(第二次反共攻勢)
・東條陸軍大臣が戦陣訓を通達
・独ソ不可侵条約更新
・大日本青少年団結成
・国民政府が新四軍に解散命令
・欧州航路最終の貨物船「だあばん丸」が横浜に帰港
・中国共産党が新四軍を再編
・松岡外務大臣がタイ・仏印紛争に関して調停を申入れ、両国受諾
・中国共産党が皖南事変に抗議し国民政府に国共調整臨時弁法12条を要求
・野村駐米大使が出発(グルー駐日大使と東京駅で握手後、郵船鎌倉丸で横浜出港)
・日本海洋学会創立
・日本の調停によりタイ・仏印紛争が妥結し停戦協定を妥結
2月 ・第1回東亜児童大会開催
・大本営政府連絡会議で対独伊ソ交渉要領を決定(日ソ国交調整)
・警視庁が「警察訓」を帝都の警察官に示達
・支那方面作戦視察中の大角大将らの搭乗機が広東省黄揚山に激突(9日に殉職確認)
・タイ・仏印紛争調停会議が東京で開催
・李香蘭の日劇出演にファンが殺到し警官隊出動
・国粋大衆党が南進要請皇民大会を開催(武道館)
・統制経済の複雑化に対応するため,警視庁が経済保安課を経済警察部に昇格
・野村駐米大使がルーズベルト大統領と初会談
・堀切駐伊大使がムッソリーニ首相と初会談
・蒙古聯合自治政府主席徳王一行が靖国神社・明治神宮に参拝
・情報局が各総合雑誌に執筆禁止者(非左翼自由主義者)の名簿を内示
・タイ・仏印紛争緊迫によりハノイの邦人引揚げを準備
・大角岑生元海軍大臣死去
3月 ・ 野村駐米大使とハル国務長官が日米交渉開始
・治安維持法が全部改正される
4月 ・国民学校令施行
・ドレミファの階名がイロハとなる
・ロンメル将軍のドイツ軍が北アフリカ戦線でイギリス軍を撃破
・日本癌学会創立
・賀川豊彦らキリスト教会代表が平和使節として渡米
・ユーゴスラビアがソビエト連邦と不可侵条約に調印
・ナチス・ドイツを始めとする枢軸国がユーゴスラビアとギリシャに侵攻(ユーゴス ラビア侵攻、ギリシャ・イタリア戦争)
・琵琶湖で訓練中の第四高等学校漕艇部11名らが遭難し全員死亡(琵琶湖遭難事故)
・日ソ中立条約成立
・ユーゴスラビアが独に降伏
・広島県内の無尽会社4社が合併し広島無尽(後のもみじ銀行)設立
・ギリシャがドイツに降伏
・政府が日本における高等教育を受けている学生の人数を調査し示す。
5月 ・中原会戦( - 6月15日)。
・東京条約が締結されタイ・フランス領インドシナ紛争が終結
・越南独立同盟成立
・東京港が開港
・内田洋行設立
・ドイツ海軍の戦艦ビスマルク沈没
・アメリカ合衆国大統領ルーズベルトが国家非常事態宣言を発令[1]
・日本軍、重慶を爆撃(一〇二号作戦)
6月 ・東海銀行設立(愛知銀行・名古屋銀行・伊藤銀行が合併)
・16,246名のリトアニア人がソビエト当局によりシベリアなどへ強制追放
・ナチス・ドイツがソビエト連邦に対して攻撃開始(バルバロッサ作戦)し、独ソ戦 が始まる
・日本基督教団創立(新教教会の合同)
・フィンランドがソビエト連邦に対して宣戦布告(継続戦争)
・ハンガリーがソビエト連邦に対して宣戦布告
・ユーゴスラビアのチトーがパルチザンを組織し、ドイツ軍に対するゲリラ戦を開始
・ドイツが日本に対して対ソ参戦を申入れるも日本は拒否
7月 ・山隂合同銀行設立(松江銀行と米子銀行が合併)
・帝都高速度交通営団設立(東京地下鉄道と東京高速鉄道が合併)
・アイスランドにアメリカ軍が駐留
・関東軍特種演習(関東軍、対ソ戦を準備)
・英ソ相互援助協定締結
・三井不動産創業
・長野地震
・第2次近衛内閣総辞職(松岡外相の更迭のために総辞職し、すぐさま第3次近衛内 閣発足)
◇参考
・ウィキペディア『1940年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1940%E5%B9%B4
・ウィキペディア『1941年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1941%E5%B9%B4
概要
さて、今回考察しますのは第2次近衛内閣です。近衛文麿という男が大嫌いであると私は第1次内閣の時に散々言いました。そんな男が二度目の組閣をするとは本当に信じられません。というよりも、この男無能のくせして歴代内閣総理大臣62人のうち15人しかいない1000日越えの総理大臣の1人です。無能なのによく総理を続けられたな、本当。さあ、またこのままだと悪口のオンパレードになってしまいますので早速第2次近衛内閣の時の出来事について見ていきます。
何と言ってもでかい出来事は1940年9月27に締結された日独伊三国同盟です。阿部・米内内閣と2つの内閣が否定してきたものをついに締結してしまいます。これにより日本は完全に枢軸陣営に名実ともに入り、対英米戦は避けられない状況が作られることになりました。しかし、近衛総理は英米戦を避けようとします。こんなものを締結したことの意味を理解していないバカなのでしょうか。まあ、陸軍の傀儡になっていただけのお坊ちゃまに何かができるとは思ってもいませんが。おそらく陸軍も調子のいい傀儡だと感じていたのでしょう。
他にのちの大東亜共栄圏に通ずる大東亜新秩序建設の発表をします。もうこの時点で太平洋戦争の日本側の理想とも言うべきものの下地を作っている時点で近衛の戦争犯罪は避けられません。よく、これで自分は戦争犯罪人にならないと思えたものです。
そして、日ソ中立条約を結んでいます。これは完全に大局が見えてませんね。そもそもこの条約が結ばれた理由というのは同盟国であるドイツがソ連との間に独ソ不可侵条約を結んだことが関係しています。日本にとってソ連は敵。そして、ドイツにとってもソ連は敵のはずでした。しかし、突如としてこのに告が条約を結びます。日本側はあわてました。これは前にも言いましたが、これで平沼内閣が総辞職に追い込まれます。さて、ここで日本が考えたのは日本軍は南進しようとしていました。しかし、南に兵を多く送ると北側が手薄になります。北というのはソ連です。そこで、北の憂いを断つためには今ドイツとソ連は仲良くしているのでソ連と条約を結び敵国でなくなれば南に全力で侵攻できる。そう考えました。さっそく、松岡外務大臣がソ連に向かいます。松岡はスターリンと会い、スターリンに気に入られます。そして、最終的に条約は締結しその後ドイツに向かうため汽車に乗るため駅に行きますがスターリンがわざわざ見送ってくれ、さらにハグをしてくれます。その後、ドイツに着くとヒトラーはムスッとしていたという話があります。さて、この話、高校の授業で先生から学びましたがふざけてうちのクラスは松岡とスターリンとヒトラーの三角関係BLだとか言っていましたが、ヒトラーの起源はなぜ悪かったのでしょうか。その理由というのが、この日ソ中立条約にあります。そもそもヒトラー自身はソ連との敵対関係は継続しているつもりです。ソ連と条約を結んだのは西側を攻めるために東の憂いをなくすためでした。そして、西が片付いた後にソ連を攻め込むつもりでした。もちろん、ソ連はそのことを知っていました。つまりスターリンが松岡にハグまでしたのは、ああ日本よお前はバカだな。ありがたいぜ。この条約。的なことを思っていたのです。ちなみにこの後すぐにドイツはソ連を攻めます。
この話から分かるように日本はすでに大局が見えていなかったのです。この時点で第二次大戦負けの未来があってしまったんじゃないのかな。
さて、今回はこのあたりで終わりにします。結局、近衛と松岡の悪口で終わってしまいましたね。




