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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
昭和時代戦前
41/58

第35代 平沼騏一郎内閣

 第35代 平沼騏一郎内閣

 在任1939年1月5日~1939年8月30日(238日)

 

 国務大臣

内閣総理大臣 35 平沼騏一郎(元司法大臣)枢密院

外務大臣   58 有田八郎(前外務大臣)再任、貴族院議員昭和研究会

内務大臣   55 木戸幸一(元厚生大臣)貴族院議員火曜会

大蔵大臣   45 石渡荘太郎 大蔵省官僚

陸軍大臣   47 板垣征四郎(前陸軍大臣)再任、陸軍中将

海軍大臣   41 米内光政(前海軍大臣)海軍大将、再任

司法大臣   48 塩野季彦(前司法大臣)再任、司法省官僚

文部大臣   58 荒木貞夫(前文部大臣)再任、予備役陸軍大将

農林大臣   ⑮ 櫻内幸雄(元商工大臣)衆議院議員立憲民政党

商工大臣   ⑱ 八田嘉明 貴族院議員昭和研究会

逓信大臣   50 塩野季彦 兼任

       51 田辺治通 逓信省官僚

鉄道大臣   ⑲ 前田米蔵(元鉄道大臣)衆議院議員立憲政友会

拓務大臣   ⑮ 八田嘉明 兼任

       ⑯ 小磯國昭 予備役陸軍大将

厚生大臣   ② 広瀬久忠 内務省官僚

無任所大臣   近衞文麿(元内閣総理大臣)貴族院議員火曜会

内閣書記官長 41 田辺治通 逓信省官僚

     42 太田耕造 司法省官僚


 政務次官

外務政務次官 松本忠雄

       清水留三郎

内務政務次官 勝田永吉

   漢那憲和

大蔵政務次官 太田正孝

   松村光三

陸軍政務次官 加藤久米四郎日

   西村茂生

海軍政務次官 一宮房治郎

   松田竹千代

司法政務次官 久山知之

   倉元要一

文部政務次官 内ヶ崎作三郎

    小柳牧衛

農林政務次官 高橋守平

   松村謙三

商工政務次官 木暮武太夫

   今井健彦

逓信政務次官 田島勝太郎

   平川松太郎

鉄道政務次官 田尻生五

   工藤十三雄

拓務政務次官 八角三郎

   寺田市正

厚生政務次官 工藤鉄男

   津崎尚武


 参与官

外務参与官 春名成章

      箸本太吉

内務参与官 木村正義

      中井一夫

大蔵参与官 中村三之丞

      矢野庄太郎

陸軍参与官 比佐昌平

      中井川浩

海軍参与官 岸田正記

      中原謹司

司法参与官 藤田若水

      浜野徹太郎

文部参与官 池崎忠孝

      野中徹也

農林参与官 助川啓四郎

      林譲治

商工参与官 佐藤謙之輔

      沢田利吉

逓信参与官 犬養健

      上田孝吉

鉄道参与官 金井正夫

      青木亮貫

拓務参与官 伊礼肇

      江藤源九郎

厚生参与官 山本芳治

      綾部健太郎


 ◇参考

・ウィキペディア『平沼内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E5%86%85%E9%96%A3

・首相官邸HP『平沼内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/35.html

・歴代内閣に関するデータベース『第36代・平沼騏一郎内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/36-Hiranuma.htm


 主な出来事

1939年 1月 ・平沼騏一郎内閣成立

         ・横綱双葉山が安藝ノ海に敗れる(連勝69)

         ・東京地下鉄: 新橋・渋谷間全通

         ・平賀譲東大総長が経済学部教授河合栄治郎・土方成美の休職処分を荒木貞夫文相に          上申。(平賀粛学)

      2月 ・日本国民に対し「金製品回収・強制買い上げ」を日本政府が実施

      3月 ・玉川塾(専門部)設置

         ・全国の招魂社を護国神社に改称

      4月 ・日本で電気庁設置

         ・日本で米穀配給統制令法公布

      5月 ・男鹿半島で地震(M6.6、死者27名、全壊604戸)

         ・満蒙国境で日本・ソビエト連邦両軍が衝突(ノモンハン事件)

         ・NHKが無線によるテレビ実験放送を公開。

      6月 ・昭和電工設立(日本電気工業と昭和肥料が合併)

         ・満蒙開拓青少年義勇軍壮行会挙行(明治神宮外苑競技場)

         ・南京総領事館毒酒事件

         ・日本国民の男子の長髪及び女子のパーマネントを禁止する「生活刷新案」が閣議決          定

      7月 ・日本軍がノモンハン攻撃開始

         ・東京芝浦電気(東芝)設立

         ・日本で国民徴用令公布

         ・大川周明『日本二千六百年史』刊行、ミリオンセラーとなる

      8月 ・独ソ不可侵条約締結

         ・毎日新聞社機ニッポンが世界一周目指し羽田を離陸、10月20日に目的を果たし帰           国。

         ・『欧州の天地は複雑怪奇』という声明を出して平沼内閣総辞職


 ◇参考

ウィキペディア『1939年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1939%E5%B9%B4


 概要

 さて、今回は平沼騏一郎内閣です。内閣時代は238日と歴代総理62人の中で14番目に短いです。ちなみに上から数えると49番目です。

 さて、前の近衛内閣がヨーロッパ戦線があわただしくなる中自分勝手に総理を辞めてしまいます。本当に近衛は使えない。さて、近衛の後任の内閣総理大臣に誰を推すのかということで元老西園寺が木戸厚生大臣などの意見を取り入れ司法大臣や大審院院長(現在の最高裁判所長官)を務めた平沼枢密院議長を推します。しかし、実際に平沼のことは西園寺自身は嫌いでした。それは、平沼が国本社という右翼団体の代表であったからです。しかし、右翼団体であれば共産主義を否定するだろうということで総理になります。

 さて、平沼内閣の政治課題は2つありました。

 1つ目は、日独防共協定強化問題つまりは、日独伊三国同盟締結問題。日独防共協定は1936年第1次近衛内閣で結ばれた条約です。防共とあるように共産主義から自国を守るという目的で結ばれました。共産主義すなわちソ連に対して一緒に抵抗しますということをアピールした条約です。この防共協定を軍事同盟として発展的解消をすることを陸軍が狙っていました。それに、独だけでなく伊を加えた三国で英米と対決しようとしたのです。しかし、これに関して海軍左派の米内光政海軍大臣、井上成美、山本五十六と言われる海軍左派トリオが断固反対します。こんな条約を結んだらいよいよ日本はアメリカと戦わなくてはならなくなる。国際派であった彼らはアメリカの実力に日本は相手にしたら負けてしまう。そんな危機感を持っていたのでこの条約を何としても結ばせないようにしようとしていました。国内はこの同盟を結ぶかで二分されていたのでした。

 2つ目は、泥沼化した日中戦争の終息。前の近衛総理が無能すぎて日中戦争はどうしようもなくなっていました。前任者の失敗のつけが平沼に回ってきたのでした。

 平沼内閣で起きた大きな事件としてノモンハン事件があります。この事件は満州国とモンゴル人民共和国(つまりソ連側)の国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した事件です。

 当時、日本(満州)とモンゴルの国境線が確定していなかったこともあり、しばしばモンゴル軍が日本の主張する国境線内に進入してきた。日本はこれに対して数度、撃退していたが、ついに日本軍はハイラル駐屯軍(第二十三師団)のなかから山県支隊を編制し、積極的行動を開始させます。しかし、この山県支隊が出会ったのは「ソ蒙相互援助条約」によってモンゴル国境を守っていたソ連の機械化師団であり山県支隊はソ連軍にやられ、撤退しました。ところが、関東軍はこのことに激怒して辻政信少佐などの作戦参謀を中心とするグループが大部隊を動かします。日中戦争が泥沼になっている中でこの動きをしたことで日本はまずい状況になります。

 日本軍の動くに対してソ連軍は対応します。空軍150機による絨毯爆撃、また戦車を主力とする機械化兵団が雪崩を打って侵攻してきました。

 結果として、日本軍の投入した兵力1万5000のうち、3分の1が戦死、3分の1が負傷するという壊滅的な打撃を受けます。日本の大敗北となりました。

 そして、平沼は内閣は最後ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を1939年8月に結ぶのですが、日本にとってソ連は敵以外の何者でもありませんでした。日本はドイツのこの行動の意味が分かりませんでした。日本の外交力のなさが露呈しますね。これに一番驚いたのが平沼総理です。平沼は総辞職をする際に『回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み従来準備し来った政策は之を打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至りました』という談話を残します。

 いわゆる、欧州事変は複雑怪奇也です。


 国際情勢に翻弄され、平沼内閣は短命に終わりました。

 平沼総理と言えば上の言葉が本当に有名ですね。この人を語る上で絶対出てきます。最後に名言(迷言?)を残して印象に残れてよかったのだか?

 さて、今回はこのあたりで。次回は阿部信行内閣です。実は昔もアベ総理がいたんですよ。


 ◇参考

・ウィキペディア『国本社』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9C%AC%E7%A4%BE

・ウィキペディア『防共協定』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A

・ウィキペディア『海軍左派』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E5%B7%A6%E6%B4%BE

・ウィキペディア『ノモンハン事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

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