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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
昭和時代戦前
39/58

第33代 林銑十郎内閣

 第33代 林銑十郎内閣

 在任1937年2月2日~1934年6月4日(123日)


 国務大臣

内閣総理大臣 33 林銑十郎 予備役軍人

外務大臣 52 林銑十郎 兼任

53 佐藤尚武 官僚

内務大臣 52 河原田稼吉 官僚

大蔵大臣 42 結城豊太郎 財閥

陸軍大臣 43 中村孝太郎 陸軍中将

     44 杉山元 陸軍大将

海軍大臣 39 米内光政 海軍中将

司法大臣 46 塩野季彦 官僚

文部大臣 54 林銑十郎 兼任

農林大臣 ⑬ 山崎達之輔 衆議院昭和会

商工大臣 ⑮ 伍堂卓雄 退役軍人 

逓信大臣 47 山崎達之輔 兼任

     48 児玉秀雄 貴族院

鉄道大臣 ⑰ 伍堂卓雄 兼任

拓務大臣 ⑩ 結城豊太郎 兼任

内閣書記官長 39 大橋八郎 官僚


 林内閣は政務官を任命しなかったためなし。


 ◇参考

ウィキペディア『林内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%86%85%E9%96%A3

首相官邸HP『林内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/33.html

歴代内閣に関するデータベース『第34代・林銑十郎内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/34-Hayashi.htm


 主な出来事

1937年 1月 ・廣田内閣総辞職決定(衆議院解散を主張する寺内陸相と政党出身閣僚との閣内不統          一)

         ・日米綿業協定調印

         ・宇垣一成に組閣命令(陸軍の反対により29日辞退)

         ・陸軍三長官会議が陸軍の入閣拒否を決議

         ・林銑十郎に組閣命令(陸相後任で組閣難航)

         ・ケソン比大統領来日

         ・寺内陸相が後任に中村孝太郎を推薦

      2月 ・白白教事件

         ・松竹発足

         ・林内閣発足。

         ・ミヨシ油脂設立

         ・死のう団事件

      3月 ・名古屋汎太平洋平和博覧会開催

         ・純国産航空機神風号完成

         ・神風号が福岡・立川間で試験飛行

         ・大阪帝大でサイクロトロン完成

         ・丸井開業

         ・衆議院が会期最終日にして解散(食い逃げ解散)

         ・アルコール専売法公布

      4月 ・郵便料金値上げ

         ・東京・札幌間に定期航空路開設

         ・日本通運株式会社法公布

         ・横光利一「旅愁」連載開始(東京日日新聞・大阪毎日新聞)

         ・ヘレン・ケラー来日

         ・永井荷風「濹東綺譚」連載開始(東京朝日新聞)

         ・第1回文化勲章授与式。長岡半太郎、本多光太郎、木村栄、佐佐木信綱、幸田露           伴、岡田三郎助、藤島武二、竹内栖鳳、横山大観が受章。

         ・第20回衆議院議員総選挙。立憲民政党179、立憲政友会175、社会大衆党37、昭和会          19、国民同盟11、東方会11議席。

      5月 ・阪急西宮球場開場

         ・北海道美唄町で大火

         ・宮城県志津川町で大火

         ・三菱地所設立

      6月 ・内閣総辞職


 ◇参考

ウィキペディア『1937年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1937%E5%B9%B4


 概要

 さて、今回考察していきますのは林銑十郎内閣です。在任期間123日。短っ!? っていうよりも123ですか。語呂良いですね。まあ、語呂良くても短命じゃ意味ないですけど。

 さて、林内閣が123日で崩壊した理由について見ていきます。まず、内閣の基盤から見ていきましょう。今までの内閣は政党内閣が崩壊後も二大政党立憲政友会、立憲民政党の協力を得て成立していました。その際に、国務大臣にさすがに議員はなれませんでしたが、そこで出てきたのが政務官です。この政務官の職を狙ってみな内閣を支持しました。しかし、林内閣は政党議員がこうした政務官の職を狙っていた現状を嫌い任命しませんでした。適齢期の議員は政務官になれると思ったのにその職がないのです。そうなれば、こんな内閣支持しません。こうして林内閣の崩壊理由の1つとして政党からの信頼を持たれなかったことが挙げられます。

 次に、そもそも最初に廣田の次に総理になる予定だったのが林ではなかったことが挙げられます。実は、後任には当初宇垣一成元陸軍大臣が就任する予定でした。宇垣は実際に昭和天皇より大命降下を受けています。しかし、宇垣が総理になることに対して反対する勢力があります。それが陸軍です。宇垣が同じ陸軍の人間なのにどうして反発したのでしょうか。それは、宇垣が陸軍大臣時代にいわゆる宇垣軍縮と言われる軍縮を行ったことに反対していたからです。宇垣は大正期の軍縮時代に陸軍の戦力を削減しました。それが、軍事国家を目指す陸軍とは対立したのです。それと、宇垣自身は予備役であったため現役ではなく軍部大臣現役武官制により陸軍が大臣を出さなかったため組閣流産します。いわゆる宇垣流産内閣です。ちなみに、軍部大臣現役武官制を復活させたのは前回廣田内閣で説明したとおりです。

 そして最後に林内閣唯一と言ってもいい活動である衆議院の解散です。この解散選挙のことをいわゆる食い逃げ解散と呼ばれています。林内閣が二大政党と対立したため政権運営が困難でした。政権には閣内外協力として昭和会、国民同盟といった少数政党を与党としてましたが議会運営が極めて困難でした。そんな中予算案が成立すると林は突如として衆議院を解散します。この解散には明確な理由というものがなかったためかえって二大政党に更なる反発を受け、選挙の結果も与党としていた昭和会、国民同盟が議席を減らす敗北を受けます。ちなみに蛇足的ですが、この選挙において無産政党といわれる左派政党社会大衆党が議席を大幅に増やすといった出来事も起きてます。

 こうして完全に支持基盤を失った林内閣は総辞職するかと思いきや、林が政権を維持しようとあきらめてはいませんでした。しかし、支持基盤がない状況では周りはすべて敵です。結局は内閣総叙苦に追い込まれます。

 こうして123日の内閣が生まれました。当時憲政史上最悪の内閣と言われました。現在の話をしてみると民主党政権の菅内閣を史上最低の内閣と評する人が多いみたいですが、私的にはこの後の近衛内閣が最もひどいと思っています。さて、この何もしなかった林内閣には別名があります。そう、林銑十郎はやし せんじゅうろうという名前をもじって「何も銑十郎内閣」です。うまい例えですね。


 さて、今回はこのあたりで。次回は私が史上最も最悪と評価し、一番最初に嫌いな総理大臣がいますと言っていましたがまさにそれに当たる総理大臣近衛文麿が組閣した第1次近衛内閣について考察してきます。


 ◇参考

ウィキペディア『第20回衆議院議員総選挙』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC20%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99

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