第31代 岡田啓介内閣
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第31代 岡田啓介内閣
在任1934年7月8日~1936年3月9日(611日)
国務大臣
内閣総理大臣 31 岡田啓介(元海軍大臣)海軍
内閣総理大臣臨時代理 後藤文夫
外務大臣 49 広田弘毅(前外務大臣)官僚外務省
内務大臣 50 後藤文夫 貴族院無会派
大蔵大臣 38 藤井真信 官僚大蔵省
39 高橋是清 二・二六事件で暗殺
40 町田忠治 兼任
陸軍大臣 40 林銑十郎(前陸軍大臣)再任 陸軍 相沢事件で引責辞任
41 川島義之 陸軍
海軍大臣 37 大角岑生(前海軍大臣)再任 海軍
司法大臣 44 小原直 官僚司法省
文部大臣 50 松田源治 衆議院民政党在任中病死
51 川崎卓吉(元内閣書記官長)衆議院民政党
農林大臣 ⑪ 山崎達之輔 衆議院政友会除名→昭和会
商工大臣 ⑫ 町田忠治(元農林大臣)衆議院民政党
逓信大臣 43 床次竹二郎(元内務大臣)衆議院政友会除名在任のまま死去
44 岡田啓介(内閣総理大臣による兼任)
45 望月圭介(元内務大臣)衆議院政友会除名→昭和会
鉄道大臣 ⑮ 内田信也 衆議院政友会除名→昭和会
拓務大臣 ⑦ 岡田啓介 兼任
⑧ 児玉秀雄(元内閣書記官長)貴族院研究会
内閣書記官長 35 河田烈 官僚内務省
36 吉田茂 官僚内務省
37 白根竹介 官僚内務省
政務次官
外務政務次官 井阪豊光 衆議院無所属
内務政務次官 大森佳一 貴族院公正会
大蔵政務次官 矢吹省三 貴族院公正会
陸軍政務次官 土岐章 貴族院研究会 再任
岡部長景 貴族院研究会
海軍政務次官 堀田正恒 貴族院研究会
司法政務次官 原夫次郎 衆議院政友会
文部政務次官 添田敬一郎 衆議院民政党
農林政務次官 守屋栄夫 衆議院政友会
商工政務次官 勝正憲 衆議院民政党
逓信政務次官 青木精一 衆議院政友会離党→昭和会
鉄道政務次官 樋口典常 衆議院政友会離党→昭和会
蔵園三四郎 衆議院政友会離党→昭和会
拓務政務次官 田中武雄 衆議院民政党
桜井兵五郎 衆議院民政党
参与官
外務参与官 松本忠雄 再任 衆議院民政党
内務参与官 橋本実斐 貴族院研究会
大蔵参与官 豊田収 衆議院政友会
陸軍参与官 石井三郎 再任 衆議院無所属
海軍参与官 窪井義道 衆議院政友会離党→昭和会
司法参与官 舟橋清賢 貴族院研究会
文部参与官 山枡儀重 衆議院民政党
農林参与官 森肇 衆議院政友会離党→昭和会
商工参与官 高橋守平 衆議院民政党
逓信参与官 平野光雄 衆議院民政党
鉄道参与官 兼田秀雄 衆議院政友会離党→昭和会
拓務参与官 手代木隆吉 衆議院民政党
佐藤正 衆議院民政党
◇参考
ウィキペディア『岡田内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸HP『岡田内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/31.html
歴代内閣に関するデータベース『第32代・岡田啓介内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/32-Okada.htm
主な出来事
1934年 7月 ・岡田内閣発足
8月 ・
9月 ・室戸台風が日本上陸
・日本・フィリピン間に無線電話開通
10月 ・陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を配布、社会主義国家創立 を提唱
・日本・蘭印間に国際電話開通
・高山本線全通
11月 ・満鉄が大連・新京間に特急「あじあ」を運転開始(8時間30分)
・ベーブ・ルースら17名が米大リーグ選抜チームとして来日
・谷崎潤一郎「文章読本」発刊
・東北地方の冷害凶作被害に対して、昭和天皇と香淳皇后から50万円の救恤金が下 賜される。
・千葉県東葛飾郡で牛乳による炭疽病発生 (警視庁が業者に牛乳17石の廃棄を命令)
・陸軍特別大演習(北関東平野)
・群馬県桐生市で昭和天皇誤導事件
・ベーブ・ルースが藤沢カントリー倶楽部でゴルフを楽しむ
・桜島フェリー運航開始
・陸軍士官学校事件
・流線型機関車第一号(C53の改造)
・第66臨時議会召集
・藤井真信蔵相が病気辞任
・日本初のアメリカン・フットボール試合 (全日本学生対横浜在留外人)
・田辺元「社会存在の論理」(「哲学研究」)
12月 ・丹那トンネル開通。それに伴いダイヤ改正。
・日米間に国際無線電話開通
・東北地方の冷害凶作被害に対処するため、凶作地ニ対スル政府所有米穀ノ臨時交 付ニ関スル法律(昭和9年法律第52号)が公布される(同年12月21日施行)。
・東京・樺太間に電話開通
・文部省に国語審議会設置
・第67議会召集
・大日本東京野球倶楽部結成。
・日本が米国にワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。
1935年 1月 ・国際司法裁判所判事、安達峰一郎博士の葬儀がハーグで挙行
・宝塚大劇場焼失
2月 ・築地市場開場
・菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を反国体的と糾弾
3月 ・忠犬ハチ公死去。
4月 ・満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
・美濃部達吉が天皇機関説のため不敬罪で告発される
・美濃部達吉の「憲法概要」など著書3冊が発禁となるも買手殺到し書店で売切れ
5月 ・
6月 ・鉄道省が女子車掌を初採用
・NHKが国際放送を開始
・有楽座開場
・梅津・何応欽協定成立(日本軍による華北分離工作の開始)
・富士通信機製造設立(後の富士通)
・土肥原・秦徳純協定成立
7月 ・船橋・千葉間省線の電化完成(東京・千葉間全通)
8月 ・警視庁で無線自動車が登場
・中国共産党が抗日救国統一戦線を提唱(八・一宣言)
・国体明徴声明発表
・永田鉄山暗殺事件(相沢事件)
9月 ・第一高等学校が駒場に移転(東京帝大農学部と敷地を交換)
・第四艦隊事件。演習中の日本海軍の艦隊が台風に遭遇し、多数の艦艇が損傷。
・和辻哲郎「風土 人間学的考察」
・床次竹二郎元内務大臣死去
10月 ・大阪市営地下鉄御堂筋線の梅田駅本駅が開業(30日には心斎橋駅 - 難波駅間が開 業)
・八杉貞利編「露和辞典」発刊(岩波書店)
11月 ・汪兆銘狙撃事件
・上海で日本人水兵が殺害さる(中山水兵射殺事件)
・12歳の稲田悦子がフィギュア・スケートのオリンピック選手に決定
・日本、冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を設立
・日本ペンクラブ発足(初代会長島崎藤村)
・土讃本線三縄-豊永間開通(最後の「陸の孤島」高知県が鉄道で結ばれる)
・小林秀雄「私小説論」
12月 ・初の年賀郵便用切手発売開始
・澄宮崇仁親王に三笠宮の称号
・第二親王が義宮正仁と命名
・東京電気化学工業(後のTDK)設立
・大本教教祖出口王仁三郎と幹部三十余名を不敬罪・治安維持法違反で検挙(第二 次大本事件)
・関東軍支援のもと李守信軍がチャハル省に進軍
・北平の学生1万名が抗日・華北分離工作反対デモ(一二・九学生運動)
・大阪野球倶楽部(後の阪神タイガース)発足
・天理教本部が脱税で捜索
・同盟通信社創立
・望月圭介逓相ら政友会脱退派が昭和会を結成
・第68議会召集
・牧野伸顕内大臣辞任(後任齋藤實)
1936年 1月 ・同盟通信社開業
・日劇ダンシングチーム初公演(「ジャズとダンス」)
・日本がロンドン海軍軍縮会議から脱退
・松竹大船撮影所開所
・中日ドラゴンズの前身、名古屋軍が誕生
・シャリアピン来日
・シャリアピン独唱会(日比谷公会堂)
・横山隆一「江戸ッ子健ちゃん」連載開始(東京朝日新聞、フクちゃん漫画の初 め)
・中井正一、論文「委員会の論理」(「世界文化」)
2月 ・松田源治元拓務大臣死去
・天皇機関説を提唱した美濃部達吉が、右翼に襲撃されて負傷
・全日本職業野球聯盟設立
・神戸モロゾフ洋菓子店が、英字雑誌に日本初のバレンタインチョコレートの広告 を出す。
・第19回衆議院議員総選挙
・二・二六事件勃発
・斎藤実元首相・高橋是清元首相・松尾伝蔵首相秘書・渡辺錠太郎陸軍教育総監暗 殺される
・東京市に戒厳令布告(〜7月16日)
・岡田啓介内閣総辞職
・二・二六事件の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵に告ぐ」)が出され、帰順。
3月 ・正式に後継内閣が決まり総辞職
◇参考
ウィキペディア『1934年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1934%E5%B9%B4
ウィキペディア『1935年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1935%E5%B9%B4
ウィキペディア『1936年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1936%E5%B9%B4
概要
久しぶりの更新となります、今回は岡田啓介内閣について取り上げていきたいと思います。さて、岡田内閣は前内閣の齋藤内閣と同じく挙国一致内閣です。どちらも海軍穏健派による内閣ですね。
さて、岡田内閣において今後の日本を揺るがす大きな事件が起きています。それが、とても有名な陸軍(正確には青年将校)によるクーデター二・二六事件です。事件名はその名の通り1936年2月26日に発生したことからついています。
では、簡単に事件の概要についてまとめていきたいと思います。この事件は当時陸軍においては皇道派と統制派という2つの派閥が対立していました。統制派と行動派の対立は人事を巡って起こり最終的には統制派の永田鉄山軍務局長が皇道派の相沢三郎陸軍中佐によって斬殺された相沢事件で決定的なものとなります。この事件で皇道派は完全に陸軍の主流派から追いやられます。ちなみに永田鉄山は統制派のリーダーでしたが、この事件で死去したことでこの後統制派のリーダーとして東條英機が台頭してきます。一部の研究者や創作ものでは永田鉄山が死ななければ東條が表に出てくることもなく第二次世界大戦の結果が変わっていたのではないかと架空戦記ができるほど重要人物です。なろうにおいてもまず永田鉄山を殺させないところから始めるタイムスリップものを見ました。作品名は言いませんが、個人的にはとても大好きな作品です。と、余分な話はこのあたりにしておく続きと行きます。
この時、皇道派は再び陸軍の主流派になるべく活動を開始します。そして、起きたのがこの二・二六事件です。しかし、実際は反乱した兵士のほとんどが入隊して数か月の将校であり皇道派の上司の命に従ったのに過ぎなかったのです。2月26日~29日まで帝都東京の主要部を占拠し昭和天皇の逆鱗を受け反乱軍として片づけられることになります。こうして、陸軍将校による昭和維新を掲げるクーデターは失敗しました。
この事件においてまず殺害された人としては斎藤実内大臣・高橋是清元内閣総理大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監、そして松尾伝蔵首相秘書官がいます。
斎藤内大臣は天皇の側近であり陸軍将校からしてみれば天皇に悪いことを伝えている本人として殺害の対象になっていました。
高橋是清元内閣総理大臣は、この時現職の大蔵大臣でした。これは6度目の大蔵大臣就任です。高橋蔵相は軍備拡張に対しては反対であり緊縮政策を進めている関係で陸軍と対立していました。陸軍としては予算を何としても欲しいので蔵相の高橋は邪魔であり殺害します。
渡辺錠太郎陸軍教育総監は、上記の陸軍内の統制派と皇道派の対立により殺害されます。陸軍教育総監は、陸軍将校など陸軍全般の教育機関のトップという役職に当たります。最初教育総監の職は皇道派が握っています。林銑十郎教育総監が皇道派のリーダー格でもあった荒木貞夫陸相が将校からの支持をなくすと陸相に就任し、後任の教育総監にはこれまた皇道派のリーダー格真崎甚三郎が就任します。しかし、林陸相は皇道派の考えについて否定的になっており真崎を辞めさせ、後任にこの統制派の渡辺を就任させます。教育総監の職をずっと持っていた皇道派としては認めたくない事実です。こうした陸軍内の対立により渡辺には特に罪はなかったのですが、殺害されることになりました。
最後に松尾伝蔵首相秘書官です。彼は岡田啓介首相とは血縁関係はありませんでしたが非常に顔つきが似ていました。結果、首相官邸を襲った陸軍将校は岡田首相と勘違いして彼を殺しました。もともと替え玉の役を担っていたのかもしれません。岡田首相は当初暗殺されたと思われていましたが、後日押入れに隠れていることが判明し、それを何としても陸軍側に漏らさずに脱出させようとする作戦が行われました。これについては歴史秘話ヒストリアにて放送されています。ですが、首相死去の報が新聞の一面を駆け巡りながら後日無事復帰した岡田首相はこの事件とは無関係でしたが、起こしてしまったことと松尾氏を死なせてしまった自責の念から内閣総辞職することになります。
今回は二・二六事件の話だけで終わってしまいました。次回は年明けに廣田弘毅内閣をします。
◇参考
ウィキペディア『二・二六事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
https://matome.naver.jp/odai/2142483087277450601
http://www12.plala.or.jp/rekisi/2.26.html
ウィキペディア『相沢事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ウィキペディア『相沢三郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%B2%A2%E4%B8%89%E9%83%8E
ウィキペディア『永田鉄山』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%94%B0%E9%89%84%E5%B1%B1
ウィキペディア『教育総監』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E7%B7%8F%E7%9B%A3