第29代 犬養毅内閣
第29代 犬養毅内閣(政友会内閣)
在任1931年12月13日~1932年5月14日(156日)
高橋臨時代理1932年5月14日~5月26日
国務大臣
内閣総理大臣 29 犬養毅(元大臣)衆議院・立憲政友会
臨時兼任 高橋是清(元内閣総理大臣)衆議院・立憲政友会
外務大臣 44 犬養毅 兼任
45 芳澤謙吉 官僚外務省
内務大臣 46 中橋徳五郎(元文部大臣)衆議院・立憲政友会
47 犬養毅 兼任
48 鈴木喜三郎(元司法大臣)貴族院・研究会
大蔵大臣 36 高橋是清
陸軍大臣 37 荒木貞夫
海軍大臣 34 大角岑生
司法大臣 41 鈴木喜三郎
42 川村竹治 貴族院・交友倶楽部
文部大臣 47 鳩山一郎(元内閣書記官長)衆議院・立憲政友会
農林大臣 ⑨ 山本悌二郎(元農林大臣)衆議院・立憲政友会
商工大臣 ⑨ 前田米蔵(元法制局長官)衆議院・立憲政友会
逓信大臣 41 三土忠造(元大蔵大臣)衆議院・立憲政友会
鉄道大臣 ⑬ 床次竹二郎(元内務大臣)衆議院・立憲政友会
拓務大臣 ⑤ 秦豊助 衆議院・立憲政友会
内閣書記官長 32 森恪 衆議院・立憲政友会
政務次官
外務政務次官 矢吹省三
岩城隆徳
内務政務次官 古屋慶隆
松野鶴平
大蔵政務次官 田昌
堀切善兵衛
陸軍政務次官 伊東二郎丸
若宮貞夫
海軍政務次官 牧山耕蔵
堀田正恒
司法政務次官 八並武治
熊谷直太
文部政務次官 横山金太郎
安藤正純
農林政務次官 西村丹治郎
砂田重政
商工政務次官 松村義一
中島知久平
逓信政務次官 小池仁郎
内田信也
鉄道政務次官 末松偕一郎
若尾璋八
拓務政務次官 紫安新九郎
加藤久米四郎
参与官
外務参与官 田中武雄
高橋熊次郎
内務参与官 小山谷蔵
藤井達也
大蔵参与官 前田房之助
太田正孝
陸軍参与官 比佐昌平
土岐章
海軍参与官 鍋島直縄
西村茂生
司法参与官 名川侃市
文部参与官 工藤鉄男
山下谷次
農林参与官 岡本実太郎
今井健彦
商工参与官 桜井兵五郎
加藤鐐五郎
逓信参与官 平川松太郎
坂井大輔
東郷実
鉄道参与官 中島弥団次
野田俊作
拓務参与官 杉浦武雄
牧野賤男
◇参考
ウィキペディア『犬養内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸HP『犬養内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/29.html
歴代内閣に関するデータベース『第30代・犬養内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/30-Inukai.htm
主な出来事
1931年12月 ・犬養毅内閣成立
・金輸出再禁止令公布施行
・中島飛行機株式会社設立
・東京浅草オペラ館開場。エノケンが旗揚公演
・第60議会召集。
・東京中央郵便局完成
・ムーランルージュ新宿座開場
1932年 1月 ・大相撲春秋園事件(天竜事件)
・朝鮮人李奉昌が天皇の馬車に爆弾を投げる(桜田門事件)
・上海日本人僧侶襲撃事件
・第一次上海事変
2月 ・井上準之助前大蔵大臣が東京本郷で血盟団員小沼正に暗殺される(血盟団事件)
・銀座の柳植樹式(3月21日までに294本。銀座の柳復活)
・第18回衆議院議員総選挙
・上海戦線にて陸軍一等兵3名が爆弾筒を抱え相手陣地に突入し爆死(「爆弾三勇 士」事件)
3月 ・満州国が建国宣言
・三井合名理事長團琢磨が血盟団員に暗殺される(血盟団事件)
・血盟団盟主井上日召が自首
・第61臨時議会召集
・千田是也らの東京演劇集団第1回公演(「乞食芝居」)
・木越安綱元陸軍大臣死去。
4月 ・海軍航空廠設置(横須賀)
・鉄道弘済会開業
・第1回東京優駿大競走開催(目黒競馬場)
・上海天長節爆弾事件
5月 ・第1次上海事変: 上海停戦協定調印
・坂田山心中事件
・チャップリン来日
・五・一五事件で、犬養毅首相が殺害される
・福岡日日新聞が五・一五事件を社説「敢て國民の覚悟を促す」で批判し久留米師団 や在郷軍人から威嚇される。
・隅田川両国橋渡橋式
・館山海軍航空隊が館山・小笠原往復で新記録樹立(14時間13分)
・鈴木喜三郎が政友会総裁に就任
・大塚金之助ら編「日本資本主義発達史講座」発刊
・市村座焼失
・第62臨時議会召集
・犬養内閣総辞職
◇参考
ウィキペディア『1931年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1931%E5%B9%B4
ウィキペディア『1932年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1932%E5%B9%B4
概要
今回の内閣考察は犬養内閣です。憲政の常道により前の第2次若槻内閣総辞職後に野党であった政友会の犬養毅に大命降下がおります。犬養は実はこの時立憲政友会の総裁をしているのですが、田中義一が亡くなった後に政友会は後継総裁を誰にするのか内紛が起きます。結果、この内紛を治めるためにすでに政界引退をしていた犬養が立憲政友会の総裁として迎えられることになります。本人は嫌がっていたのですが、結局押し切られる形で総裁となります。
内閣成立直後、民政党では協力内閣派の安達謙蔵などが脱党したが、それ以上に内閣を揺るがしたのは、朝鮮人の李奉昌が天皇暗殺を企て、失敗したいわゆる1月8日に起こった桜田門事件です。天皇は以前の虎の門事件による第2次山本内閣総辞職に用に責任を取らせることなく引き続き犬養に内閣を留任させるように頼みます。
犬養内閣は、最初に民政党政権下の井上財政の刷新を行い、それから議会を解散した。具体的には、金解禁の後始末である。まず金との兌換を再禁止してから、民政党多数の議会を打破しようともくろんだのでありました結果として、政友会は大勝し、その議席は303。この数は当時の衆議院の議席数が466であったため圧倒的多数であり、戦前最高の獲得議席数でありました。ちなみに民政党の方の議席は146議席であり273議席から100以上の議席を減らす大敗北をしています。
民政党敗北の理由はいくつもありますが、大きい原因としては前大蔵大臣で有力な党幹部、また党財政を支えていた井上準之助が、テロ組織・血盟団(首領・井上日召)によって射殺されたことである。(血盟団事件)
国内の不安と同時に、満州でも軍による事変の収拾工作が続いました、満州国が溥儀を頭首として建国宣言し、それに対して国際連合からリットン調査団が派遣される一方、犬養内閣は満州国不承認の方向へ舵を取り、独走した軍部との対立することとなります。犬養は、芳沢謙吉外相に対し、中堅将校の処分を考えますが、うまくいきません。
そして運命の日。1932年5月15日、首相官邸を三上卓海軍中尉ほか数名が首相官邸に押し入り、犬養首相に対面しました。犬養は、「話せば判る」という有名な文言を言い、彼らを客間に導き、「他人の家に靴履きで上がるとはなにごとか」と一喝しました。官邸に押し入った者たちは、「われわれが何をしにきたかわかるだろう、言いたいことがあれば言え」と言い放ち、犬養が身を乗り出して駁論しようとした瞬間、「問答無用、撃て!」と発砲し、老首相を昏倒させました。乱入してきた者たちはそのまま立ち去っていき、犬養は「もう一度あれらを呼んでこい、判るように話してやる」と言ったとされますが、翌日早暁、息を引き取った。御年76のことでした。
犬養の死は大正デモクラシーより続いていた民主主義を完全に終わらせる事件でもありました。犬養が死んだことで政党内閣は終わり、戦前の民主的ともいってもいい政党政治は終わります。次回は海軍の斎藤実率いり挙国一致の内閣へと移っていきます。
◇参考
歴代内閣に関するデータベース『第30代・犬養内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Syouwa-kyukenpou/30-Inukai.htm
ウィキペディア『五・一五事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%80%E4%BA%94%E4%BA%8B%E4%BB%B6




