第2代 黒田清隆内閣
第2代 黒田清隆内閣
在任 1888年4月30日~1889年10月25日(544日)
国務大臣
・内閣総理大臣 ② 黒田清隆(薩摩閥・前農商務大臣)
・外務大臣 ③ 大隈重信(肥前藩・前外務大臣)再任
・内務大臣 ② 山縣有朋(長州閥・前内務大臣)再任
・大蔵大臣 ② 松方正義(薩摩閥・前大蔵大臣)再任
・陸軍大臣 ② 大山巌 (薩摩閥・前陸軍大臣)再任
・海軍大臣 ② 西郷従道(薩摩閥・前海軍大臣)再任
・文部大臣 ② 森有礼 (薩摩閥・前文部大臣)再任(1889年2月12日暗殺)
代 大山巌
③ 榎本武揚 (旧幕臣・前逓信大臣)1889年3月22日逓信相から補職変更
・農商務大臣 代 榎本武揚
④ 井上馨(長州閥・元外務大臣)
・逓信大臣 ② 榎本武揚(旧幕臣・前逓信大臣)再任
③ 後藤象二郎(土佐藩)
・班列 伊藤博文(長州閥・前内閣総理大臣)枢密院議長
そのほか
・内閣書記官長 ② 小牧昌業(薩摩閥)
参考:首相官邸黒田内閣のページhttp://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/02.htmlより
ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3より
主な出来事
1888年 4月・内閣成立
・三宅雪嶺の雑誌「日本人」が創刊
5月・内閣書記官長に小牧昌業就任
6月・枢密院、憲法草案審議開始
・高島炭鉱事件問題化
11月・日墨修好通商条約締結(メキシコにとっては初の平等条約)
12月・香川県が愛媛県より独立・以後日本の47府県制(当時は東京都はなく東京府)が 沖縄県の戦後一時期の占領以外維持されることとなる。
1889年 1月・三池炭鉱が三井財閥に払い下げられる
2月・大日本帝国憲法発布
・森有礼文部相暗殺
・超然主義演説
・衆議院議員選挙法・皇室典範公布
3月・森前文部相の正式な後任に榎本武揚逓信相が就任。それに伴い逓信大臣に 後藤象二 郎が就任。
4月・市制施行。横浜市など31都市が市となる。
5月・東京市誕生
7月・東海道線開通
10月・大隈重信外相遭難
・内閣総辞職
概要
1888年に第2代内閣総理大臣に黒田清隆が就任したことにより成立したのが黒田清隆内閣です。さて、この内閣考察も2回目となりますが皆さんが最初に思ったことは黒田清隆って誰? 2代目の総理大臣って誰? と、いったところではないでしょうか。確かに私もそう思います。初代内閣総理大臣は誰か? という質問に対して伊藤博文と即答することができます。3代目内閣総理大臣は誰? という質問に対しても即答で答えられる人は少ないかもしれませんが、答えが山縣有朋であることを知れば「なるほど~」と思える人が多くいるかもしれません。しかしながら、黒田清隆と言われてもはっきりとしないという人が多いのではないのでしょうか。そこで、今回の概要は黒田清隆首相についてと前回に引き続き榎本武揚について語っていきたいと思います。
では、まず黒田清隆についてから。
でも、その前にまずは黒田内閣成立の過程を見てみましょう。黒田内閣成立の原因というのが前首相に伊藤博文にあります。当時の日本はヨーロッパをモチーフとした近代化を推し進めていました。明治維新以後産業の分野などで近代化を進めていましたが、政治の世界においても近代化を推し進める必要がありました。中でも、憲法の制定は近代国家としての最重要任務であったのです。伊藤は、内閣総理大臣などやっていたらいつまでも憲法が作れないと思って総理の座を投げ捨てました。(嘘です。投げ捨てたかどうかは本人ではないのでわかりません。でも、昔見た漫画でそんなことが描いてあったような……)また、そのような経緯もあって伊藤は内閣総理大臣の座から降りました。で、次の総理大臣を誰にするかという話になります。ここで、伊藤は薩摩閥の黒田清隆を後継首相に推薦したことによる黒田内閣が成立することになります。伊藤は長州藩出身なので次に薩摩藩出身が首相になるのはバランス的にも当然であると考えられます。黒田内閣は伊藤内閣の閣僚を引き続いた形であり独自色ある組閣はされてはいません。
次に黒田の経歴を見ていきたいと思います。
1840年に当時の薩摩藩の藩士の子として生まれます。その後、薩英戦争に参加したりして大政奉還後の戊辰戦争においては鳥羽・伏見の戦い、奥羽越列藩同盟の相手を経て蝦夷地(北海道)に逃げた榎本武揚らを倒すために蝦夷地(北海道)に向かいます。そして、榎本に降伏を求めて降伏をさせます。そのあとは、前回の榎本の話で語りましたが黒田は榎本の助命を求めて坊主頭にしていろんな人に話を求めて榎本を救い出します。
戊辰戦争後の蝦夷地の開拓を担当する行政機関開拓使の開拓次官になって黒田は蝦夷地開拓をします。そして、1880年代に入って開拓使の廃止が決まったところで黒田は薩摩閥の重臣として身を置いていましたが世にも有名な開拓使官有物払下げ事件が起きます。これは、開拓使の持っていた建物を同じさつま出身の五代友厚にものすごい安い値段で払い下げようとしたことがリークされてしまった事件です。当時、政府内では伊藤博文と大隈重信が国会の開設時期を巡って対立をしていた時期であり、これは伊藤側にダメージを与えるために大隈側が内部告発をしたといわれています。ただ、この辺には異論あり。これを逆手にとって伊藤は大隈を政府から追放しました。これを明治十四年の政変といいます。
黒田は払い下げを中止にし当時は開拓長官でしたが、辞任をして閑職に回ることになりました。
私としては、黒田にいい印象が世間で持たれていないのはこの事件が原因だと考えています。どの時代も疑獄というのは見分が広がりやすいので完全にここで黒田は政治的に終わっていたのではないか。そう、ついつい考えてしまいます。
ですが、時代は明治。現在と違って民主主義が発展しているわけではありませんので黒田は薩摩の重鎮であることには違いなく1887年には第一次伊藤博文内閣に農商務大臣として途中入閣を果たします。そして、1888年には第2代内閣総理大臣としてこの黒田内閣を組閣します。
さて、次に榎本武揚について語りたいと思います。
しかし、実を言うと榎本については前回語りました。では、今回は何を語るのかというと、榎本の能力の高さといったところですか。
榎本と黒田の関係については前回言いましたのでそれでいいとして、この内閣において榎本はまず逓信大臣として再任されます。これは、黒田内閣がある種(正確に言うと違うので)の居ぬき内閣と言われるものであることを考慮しますがそれでも再任されるほどの力を持っていたと考えられます。ちなみに居抜き内閣の説明は高橋是清内閣でしたいと思います。
また、農商務大臣の臨時代理を発足時から後任の井上馨が就任するまで務めています。ちなみに榎本はこの後第二次伊藤内閣で正式な農商務大臣に就任し歴代最長の農商務大臣として職務を果たします。
そして、逓信大臣から文部大臣に横滑りします。逓信、農商務、文部と各分野から重用されたことからわかるように榎本には本当に才能があったことがわかります。
最後に、この内閣の倒閣理由を話して今回の話を終わらせていただきます。黒田は元々明治天皇からはあまり信頼されていなかったとされています。天皇との関係も内閣のステータスとして存在している理由なのでこれは内閣の存在理由としては大きくマイナスになります。そして、そこに大きな事件が起きてしまいます。それが、大隈重信遭難事件といわれるものです。大隈外務大臣が玄洋社といわれる右翼団体によって爆弾を投げられて右脚切断の重傷を負う事件です。大隈の外交では、諸外国との不平等条約の解消の材料として大審院(現在の最高裁判所)に外国人判事を任用すること、内地雑居を認めることを容認したことでした。内地雑居は外国人が定められた土地以外でも自由に日本に住んでもいいというもので当時の日本はまだ開国してから2,30年しか経っていなかったので保守的でありました。そのための反対です。そして、大審院の外国人判事の採用というのはある意味で主権を侵す最も最悪なものです。最高裁に外国人が行った時に結局のところ無罪になってノルマントン号のような悲劇を繰り返すだけになります。だからこそ、大隈の交渉を不満を思った玄洋社は襲ったのです。ちなみに、テロは私としては容認していないのでまだ野蛮な内政事情だと思っています。
このような経緯もあって黒田は1889年10月25日に全閣僚の辞表を持って明治天皇のもとに行き内閣総辞職をするのでした……
今回はここまでとします。