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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
大正時代
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第24代 加藤高明内閣

第24代 加藤高明内閣

 在任1924年6月11日~1926年1月28日(597日)

 若槻臨時代理1926年1月28日~1928年1月30日


 国務大臣

内閣総理大臣  24 加藤高明(元外務大臣)  1926年1月28日死去(病死)

          若槻禮次郎 臨時兼任

外務大臣    39 幣原喜重郎

内務大臣  38 若槻礼次郎

大蔵大臣  28 濱口雄幸

陸軍大臣  32 宇垣一成

海軍大臣  28 財部彪

司法大臣  33 横田千之助 

    34 高橋是清  臨時兼任

    35 小川平吉 

    36 江木翼 

文部大臣  39 岡田良平

農商務大臣  36 高橋是清(元内閣総理大臣)立憲政友会総裁 1925年4月1日農商務省廃止

農林大臣   ① 高橋是清 商工大臣兼任  1925年4月1日農林省設置

      ② 岡崎邦輔 

       ③ 早速整爾 

商工大臣    ① 高橋是清 農林大臣兼任  1925年4月1日商工省設置

      ② 野田卯太郎 

       ③ 片岡直温   

逓信大臣    34 犬養毅 

    35 安達謙藏 

鉄道大臣    ⑥ 仙石貢

内閣書記官長 26 江木翼 

     27 塚本清治


 政務次官 1924年8月12日新設。

外務政務次官  中村巍 

    矢吹省三 

内務政務次官  片岡直温 

    俵孫一 

大蔵政務次官  早速整爾 

    武内作平 

陸軍政務次官  関和知 

    降旗元太郎 

     水野直 

海軍政務次官  秦豊助 

    武内作平 

    井上匡四郎 

司法政務次官  熊谷直太 

    本田恒之 

文部政務次官  鈴置倉次郎 

農商務政務次官 三土忠造 

農林政務次官  三土忠造 

    小山松寿 

商工政務次官  秦豊助 

    柵瀬軍之佐 

逓信政務次官  古島一雄

    頼母木桂吉

鉄道政務次官  俵孫一

    降旗元太郎


 参与官 1924年8月12日新設。

外務参与官  永井柳太郎

内務参与官  鈴木富士彌

大蔵参与官  三木武吉

陸軍参与官  川崎克

   溝口直亮

海軍参与官  菅原伝

       伊東二郎丸

司法参与官  岩崎幸治郎

   八並武治

文部参与官  河上哲太 

   山道襄一 

農商務参与官 堀切善兵衛

農林参与官  黒住成章

   高田耘平

商工参与官  堀切善兵衛

   野村嘉六

逓信参与官  植原悦二郎 

       川崎克

鉄道参与官  古屋慶隆


 ◇参考

ウィキペディア『加藤高明内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E%E5%86%85%E9%96%A3

首相官邸HP『加藤(高)内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/24.html

※歴代内閣に関するデータベースは第一次、第二次と表記されている説を取っていたため今回は参考に使いません。


 主な出来事

1924年 6月 ・加藤高明内閣発足

         ・第49特別議会召集

      7月 ・日本でメートル法が採用

         ・阪神甲子園球場完成

         ・元老松方正義元内閣総理大臣死去(以後、元老は西園寺公望ただ1人となる)

      8月 ・全国中等学校優勝野球大会の開催を主目的として建設された、日本初の大規模多目          的野球場・阪神甲子園球場(当時の球場名は阪神電車甲子園大運動場)が竣工。

      9月 ・

     10月 ・阪急甲陽線開業

         ・荒川放水路通水式(岩淵水門完成)

         ・明治神宮外苑競技場(国立霞ヶ丘競技場の前身にあたる)竣工

         ・第1回明治神宮競技大会

         ・西表島北北東海底火山が噴火。その後大量の軽石が漂流し、日本各地の海岸に漂           着。

     11月 ・孫文が神戸市で大アジア主義講演

         ・財団法人東洋文庫設立

     12月 ・大同洋紙店(後の国際紙パルプ商事)創立

         ・岩国のシロヘビが天然記念物に指定

         ・第50議会召集

1925年 1月 ・娯楽雑誌『キング』創刊

         ・日ソ基本条約締結(日本はソ連を承認)

         ・株式会社武田長兵衛商店(現:武田薬品工業株式会社)を会社設立。

         ・同人雑誌『青空』創刊(梶井基次郎「檸檬」掲載)

      2月 ・全日本スキー連盟創立

         ・丸善『理科年表』創刊

         ・横田千之助司法大臣在任中に病死

      3月 ・東京日暮里で大火(焼失2100戸)

         ・東京放送局(後の日本放送協会)がラジオ放送開始

         ・株式市況の放送が開始される(現在、日本最古の現役番組)

         ・京王電気軌道(現在の京王電鉄)新宿-八王子間開通

      4月 ・新橋演舞場開場

         ・治安維持法公布

         ・汽車時間表」(後のJTB時刻表)創刊

         ・平田東助元内務大臣死去

      5月 ・活動写真フィルム検閲規則が内務省令で発令

       ・松屋呉服店(後の松屋)銀座店開店

         ・普通選挙法公布(25歳以上の男子に選挙権)

         ・北但馬地震(死者428人)

         ・北海道製酪販売組合(後の雪印乳業)設立

      6月 ・五・三〇事件対応のため日米伊の陸戦隊が上陸

         ・ジュネーヴ議定書署名( 化学兵器・細菌兵器使用禁止)

      7月 ・

      8月 ・

      9月 ・帝国議会議事堂全焼

         ・東京六大学野球のリーグ戦が始まる

     10月 ・早慶戦が復活

     11月 ・山手線で環状運転開始(御徒町駅・秋葉原駅旅客営業開始)

         ・東京帝国大学に地震研究所開設

         ・柳田國男が雑誌「民族」を創刊民俗学と民族学の連携を提唱。

     12月 ・農民労働党結成、即日結社禁止

         ・京都学連事件、京都府警察部特高課が京大・同志社大などの社研部員33名を拘           束。

         ・東海道本線が国府津駅まで電化

         ・第51議会召集

         ・鈴木商店(後の味の素)設立

         ・大日本相撲協会(後の日本相撲協会)設立

         ・朝鮮総督府庁舎完成

         ・岡部長職元司法大臣死去

1926年 1月 ・ 東洋レーヨン設立

         ・京都学連事件で初の治安維持法適用

         ・加藤高明内閣総理大臣死去

         ・内閣総理大臣臨時兼任に若槻礼次郎内相。

         ・加藤高明内閣総辞職

 ◇参考

ウィキペディア『1924年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1924%E5%B9%B4

ウィキペディア『1925年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1925%E5%B9%B4

ウィキペディア『1926年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1926%E5%B9%B4


 概要

 今回は加藤高明内閣についてやります。加藤内閣は久しぶりに登場する政党内閣です。はじめは憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派連立内閣として発足しました。しかしながら、発足後1年たった1925年8月2日以降は憲政会単独の内閣となります。さて、ここで歴史上揉めているものがあります。これが加藤内閣はここで憲政会単独になる際に内閣改造をしたのかそれとも新たな内閣になったのかです。その話について見ていきます。

 加藤は護憲三派内閣を組織した際と、1年後憲政会単独内閣を組織した際の二度にわたって、摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)から組閣の大命を拝しています。この2度目の大命降下があった時点で第1次加藤高明内閣は一旦総辞職したものと見なして、同日以後を第2次加藤高明内閣とする見方がかつては支配的でありました。しかし現在の内閣府の公式見解では、この日以後をむしろ改造内閣と考え、加藤高明内閣は1内閣だったとしている。ただ、一部の日本史史料集においては加藤内閣を第1次としていたら第2次としていたりするものも存在しています。

 現行の新憲法下では全閣僚が連帯して責任を負う内閣総辞職が一つの内閣の区切りとなるが、旧憲法下では慣例として内閣総理大臣が全閣僚の辞表を取りまとめて参内し天皇にこれを奉呈するという形式をとっています。しかし政局によってはこうした辞表が受理されずに差し戻され、その結果内閣が存続することが稀にあったとされています。加藤高明内閣は、大連立与党の護憲三派体制が崩壊したことにより加藤が全閣僚の辞表を取りまとめてこれを奉呈、当初は後継首班について検討もされていましたが、結局加藤に大命が再降下することになった。ただしその際、奉呈されていた辞表はすべて差し戻されており、この事実をもって加藤高明内閣は存続したとみなすのがこの内閣府の公式見解であります。辞表がもどされるということで内閣改造と見るそうです。

 さて、実はこれと対比されるものがあります。それがのちに登場する第2次近衛内閣であります。この第2次近衛内閣では、近衛総理が対立していた松岡洋右外相を更迭しようとしたが、表立って松岡に辞任を要請すると強硬な松岡は逆にこれを拒否して閣内不一致を理由に倒閣を図りかねない状況にあったため、近衛は一旦全閣僚の辞表を取りまとめて奉呈したのち、改めて大命再降下をうけ松岡抜きの第3次近衛内閣を発足させています。この時には辞表の差し戻しがなく、そのために松岡の更迭の前後がそれぞれ別個の一内閣とみなされており、この点が加藤高明内閣の場合と異なっているとのことです。第2次近衛、第3次近衛内閣については後々やる予定です。

 さて、この加藤高明内閣では重要なことが起きています。日本史において重要な出来事です。

 1つ目は世にも名高い悪法治安維持法が成立したのがこの加藤高明内閣です。

 もともとは日ソ基本条約締結による国内の共産主義者を取り締まるだけの法律でした。最高刑に死刑はこの時はまだありません。これが後々幽霊法律となっていきどんどんと幅が広くなっていきますが、それはこの内閣よりも田中義一内閣の時に話すかもしれない話題ですので今回は触れません。

 2つ目は普通選挙法の成立です。

 大正デモクラシーの時から庶民がずっと待ちに臨んでいた普通選挙による選挙権の拡大です。ただ、女性には参政権が与えられず戦後を待つことになります。女性の中には市川房江のように参政権を獲得するために運動する人も生まれてきます。

 普通選挙法による最初の選挙は、1928年に行われるなど少し後になりますが、加藤はやるべきことをやりました。そこは評価できる点ではないでしょうか。しかし、治安維持法という悪法にもなってしまう法律を作ってしまったことを考えるとそこは評価を落とす点となりますね。

 他にもソ連との国交樹立(日ソ基本条約)、労働争議調整法の制定、陸軍2個師団の削減(宇垣軍縮)など多くの業績があげられます。宇垣軍縮はかなり大幅な陸軍の削減でありました。貴族院改革では、帝国学士院選出議員の設置と有爵議員定数の僅かな削減が行われたに留まった。また、前述の宇垣軍縮による陸軍の軍縮を進める一方陸軍現役将校学校配属令、学校教練も創設されました。

 加藤は1926年に肺炎によって死去します。同じ加藤姓の友三郎も病死したという何とも不思議な偶然が起きます。

 今回はこのあたりで次は総理臨時兼任を務めあげた若槻礼次郎がそのまま後任の内閣総理大臣となりそして時代は激動の昭和へと動きます。


 ◇参考

ウィキぺィア『加藤高明内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E9%AB%98%E6%98%8E%E5%86%85%E9%96%A3

ウィキぺィア『治安維持法』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95

ウィキぺィア『普通選挙法』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%80%9A%E9%81%B8%E6%8C%99%E6%B3%95

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