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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
大正時代
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第23代 清浦圭吾内閣

第23代 清浦圭吾内閣

 在任1924年1月7日~1924年6月11日(157日)


 国務大臣

内閣総理大臣 23 清浦圭吾

外務大臣   38 松井慶四郎

内務大臣  37 水野錬太郎

大蔵大臣 27 勝田主計 

陸軍大臣  31 宇垣一成

海軍大臣  27 村上格一

司法大臣 32 鈴木喜三郎

文部大臣 38 江木千之

農商務大臣  35 前田利定

逓信大臣  33 藤村義朗

鉄道大臣  ⑤ 小松謙次郎

内閣書記官長 25 小橋一太 

 なお、外務・陸軍・海軍大臣・内閣書記官長以外は貴族院議員

 ◇参考

ウィキペディア『清浦内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B5%A6%E5%86%85%E9%96%A3

首相官邸HP『清浦内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/23.html

歴代内閣に関するデータベース『第23代・清浦内閣圭吾内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/23-Kiyoura.htm


 主な出来事

1924年 1月 ・清浦内閣発足

         ・皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)と良子女王(後の香淳皇后)ご成婚。

         ・御成婚記念により上野公園・上野動物園が宮内省より東京市に下賜、上野恩賜公           園・恩賜上野動物園となる。

         ・第二次護憲運動

      2月 ・

      3月 ・谷崎潤一郎『痴人の愛』連載開始(大阪朝日新聞)

      4月 ・假名文字協會がカナモジカイに改称

         ・第1回選抜中等学校野球大会が開幕。

         ・宮沢賢治『春と修羅』出版

      5月 ・第15回衆議院議員総選挙

         ・米国で排日条項を含む移民法が成立。日本人の移民が全面禁止される(排日移民           法)。

      6月 ・清浦内閣総辞職


 ◇参考

 ウィキペディア『1924年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1924%E5%B9%B4

 http://www.papy.in/rekishi/nihon/taisyou_zidai.html


 概要

 さて、今回の内閣は清浦圭吾内閣となります。清浦圭吾の前の総理大臣は山本権兵衛になりますが、実は清浦は第1次の方の山本内閣崩壊後に一度大命降下を受けています。しかし、その際は海軍大臣を選出することができずに組閣流産に追い込まれています。このことを鰻香内閣まんこうないかくと呼ばれています。名前の由来は清浦がこの出来事を「大和田の前を通っているようなもので、匂いだけはするが、御膳立てはなかなか来ない」と言い、大和田という鰻屋の目の前を通ったけど匂いしかかぐことができなかったと皮肉ったものとなりました。その出来事が1914年になります。それから10年。ようやく清浦は内閣総理大臣の地位に就任することができました。

 清浦は元老西園寺公望の推薦で総理になります。その理由としては、いろいろあるそうですが、選挙管理内閣としての意味が大きかったそうです。

 清浦が総理になると閣僚は基本的には貴族院議員で構成しました。また、懐かしい響きである超然主義を言います。大正デモクラシーを経て超然主義を内閣の方針とするのは時代遅れにもほどがあります。これに政権の座から高橋是清内閣以来遠ざかっていた立憲政友会は反発します。また、議会第二党の憲政会も反対します。とりわけ政友会では清浦内閣にどう挑むかで党が分裂します。分裂した政党が政友本党(代表床次竹次郎)となり清浦内閣の与党となります。残ったメンバーの方の政友会は129議席となってしまいます。政友本党は148議席。残ったメンバーである政友会側は、枢密顧問官・三浦梧朗の斡旋あっせんのもと、政友会総裁・高橋是清、憲政会総裁・加藤高明、革新倶楽部・犬養毅が護憲の名の下に提携し、超然政権である清浦内閣と闘うことを決めました。この三党の提携は第二次護憲運動と呼ばれ、政友・憲政・革新三政党は「護憲三派」と呼ばれた。

 護憲運動の高まりは、第3次桂内閣打倒を目指した大正政変の時の第一次護憲運動のように一般民衆を巻き込んだ大きなものにはならなかったものの清浦内閣を追い詰めるのには十分であった。清浦首相はここで議会を解散、総選挙に出ました。(第15回衆議院議員総選挙)その結果は護憲三派の圧勝であった(憲政会:154議席、政友会:101議席、革新倶楽部:29議席)。政友本党は148議席から一挙に114議席にまで議席数を減らした。

 清浦内閣の中には、鈴木喜三郎法相のように政権維持を狙い、第二党に転落した政友会と呼応して憲政会に対抗させようとする動きもあったが、清浦首相自身が「光風霽月」と称して閣僚の辞表を取りまとめ、退陣した。

 清浦内閣はわずか5か月ほどで総辞職します。こうして、次に登場するのが戦前における憲政の常道の始まりであり政党政治が最も機能した時代を切り開いた加藤高明内閣になります。日本史を学ぶ人にとっては重要内閣です。その理由については次回の話にて。

 それでは、また次回。


 ◇参考

歴代内閣に関するデータベース『第23代・清浦内閣圭吾内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/23-Kiyoura.htm

 ウィキペディア『鰻香内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B0%BB%E9%A6%99%E5%86%85%E9%96%A3

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