表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
大正時代
26/58

第22代 第二次山本権兵衛内閣

 第22代 第二次山本権兵衛内閣

 在任1923年9月2日~1924年1月7日(128日)


 国務大臣

内閣総理大臣 22 山本権兵衛

外務大臣   36 山本権兵衛(兼任)

     37 伊集院彦吉

内務大臣   36 後藤新平(元司法大臣)

大蔵大臣   27 井上準之助

陸軍大臣   30 田中義一(元陸軍大臣)

海軍大臣   26 財部彪(前海軍大臣)再任

司法大臣 30 田健治郎

31 平沼騏一郎

文部大臣 36 犬養毅(元文部大臣)※逓信大臣兼任

     37 岡野敬次郎(元司法大臣)

農商務大臣  34 田健治郎 ※司法大臣兼任

逓信大臣  32 犬養毅

鉄道大臣  ④ 山之内一次

内閣書記官長 24 樺山資英


 ◇参考

ウィキペディア『第2次山本内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%86%85%E9%96%A3

首相官邸HP『第2次山本内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/22.html

歴代内閣に関するデータベース『第22代・第二次山本権兵衛内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/22-Yamamoto-vol2.htm


 主な出来事

1923年 9月 ・第2次山本内閣発足

         ・関東大震災: 戒厳地域を東京府・神奈川県に拡大

         ・ 関東大震災: 戒厳地域を埼玉県・千葉県に拡大

       ・関東大震災: 亀戸事件

         ・関東大震災: 支払猶予令

       ・関東大震災: 東京市内に夜間外出禁止令発令

         ・憲兵大尉甘粕正彦が大杉栄や伊藤野枝らを殺害(甘粕事件)

         ・関東大震災: 甘粕事件のため福田雅太郎戒厳司令官更迭(後任山梨半造前陸軍大           臣)

     10月 ・

     11月 ・

     12月 ・第47臨時議会召集

         ・虎ノ門事件

         ・第48議会召集

         ・河野広中元農商務大臣死去

1924年 1月 ・第2次山本内閣総辞職


 ◇参考

 ウィキペディア『1923年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1923%E5%B9%B4#1.E6.9C.88

 ウィキペディア『1924年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1924%E5%B9%B4


 概要

 さて、今回の歴代内閣考察は第2次山本内閣となります。久しぶりに総理に再就任する人となりましたね。そして、みなさん山本権兵衛って誰だっけとなっていませんか? それもそのはずです。山本権兵衛の前回の内閣はこれよりも10年も前まだ大正時代が始まったばっかの1913年のことです。あの時はシーメンス事件の責任を取り総辞職をしました。では、今回はというとまたまた可哀想なことにとある重大事件が発生し、山本自身は関係ありませんがその事件の性格上に引責辞任する事態となります。二度の内閣が自身とは関係ないことが原因での総辞職とは何とも可哀想なことです。

 さて、この内閣の特徴としてまずいうことは11名の閣僚中、錦城学校きんじょうがっこうの卒業生4名(外相:伊集院彦吉、蔵相:井上準之助、鉄相:山之内一次、海相:財部彪)及び、旧教員の文相・犬養毅の計5名が閣僚に含まれていたことから、「錦城内閣」とも呼ばれていた。この錦城学校とは何かというと、1880年、福澤諭吉の高弟である矢野文雄(号・龍渓)が、慶應義塾旧医学校跡に創設した、三田予備校を源流とする慶應義塾の関連校であった。当時は男子校である。どうでもいい話をするが作者も男子校である。それはとてもどうでもいいですね。で、この錦城学校に関係した著名な人が多くいます。

 例えば、教員。

 芥川龍之介

 犬養毅

 尾崎行雄

 坪内逍遥

 徳富蘇峰

 などなど内閣総理大臣を務める犬養といった政治家から芥川など小説家と多種多様な教員がいます。

 それから卒業生。

 前順の4人の大臣のほか、

 大久保利武貴族院議員(大久保利通三男)

 椎名悦三郎内閣官房長官(第2次岸改造内閣)、自由民主党副総裁のちに椎名裁定は有名です。

 田中角栄内閣総理大臣

 尾崎紅葉 小説家

 島崎藤村 小説家

 以上上げたのはほんの一部です。こんなすごい学校があったのですね。そこの出身者が一気に4人も入閣したとなれば錦城内閣と呼ばれても不思議ではありません。


 第2次山本内閣の最大の政治課題は、関東大震災によって壊滅的打撃を被った東京とその周辺の復興であった。この対処の中心となったのは、後藤新平内務大臣であった。後藤は9月6日の閣議で「帝都復興の議」を建白し、震災を契機とする抜本的な首都改造を行おうとし、9月27日には帝都復興院を発足せしめるなど、その計画を急速に進めていった。しかし、復興院の計画は膨大な予算を伴う。後藤内相は、「復興費に30億円を要する」と言明していたが、それが実際に上程されるとさすがに反対が多かったため結局、最終的には7億円規模にまで縮小されたが、それでも復興審議会で高橋是清、伊東巳代治などが反対し、5億7000万円に縮小。さらに議会では政友会が反対し、復興計画は大幅な縮小を余儀なくされてしまったのである。

 この内閣でもう一つの課題となったのは、普通選挙制度(普選)問題である。この問題に関しても、山本内閣のキーマンである後藤内相が深くコミットしたが、山本首相の支持母体である薩摩派は普選施行に消極的な態度を示していた。後藤・犬養の普選派と、樺山、山之内など薩派がこの問題をめぐって対立を深めた。そんな中ある事件が起きる。それが、摂政宮狙撃事件、いわゆる「虎ノ門事件」である。

 12月27日、無政府主義者アナーキスト難波大介が、議会開院式に向かう途中の摂政宮を狙撃。摂政宮のお体に怪我はなかったが、内閣はこの事件に責任を感じて総辞職に追い込まれることになった。

 ちなみにこの虎の門事件であるが、犯人である難波大介の父親難波作之進は庚申倶楽部に所属していた現役衆議院議員であった。この事件で責任を感じ議員を辞職そのまま故郷で絶食し死去する。また、難波にかかわった多くの人は職を辞するなど社会的に追われることとなっている。

 では、今回はこのあたりにします。この内閣の話は基本的には虎の門事件で終わります。帝都復興の話はそれほど出てきませんでした。ちょっと、そのあたりはすみません。

 次は清浦圭吾内閣です。


◇参考

 ウィキペディア『第2次山本内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%86%85%E9%96%A3 

 ウィキペディア『錦城学園高等学校』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%A6%E5%9F%8E%E5%AD%A6%E5%9C%92%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

歴代内閣に関するデータベース『第22代・第二次山本権兵衛内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/22-Yamamoto-vol2.htm

 ウィキペディア『虎ノ門事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E3%83%8E%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ