表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
大正時代
25/58

第21代 加藤友三郎内閣

第21代 加藤友三郎内閣

 在任期間1922年6月12日~1923年9月2日(439日)


 国務大臣

内閣総理大臣 21 加藤友三郎(前海軍大臣)(軍人:海軍大将)8月24日病死

内閣総理大臣臨時代理 内田康哉

外務大臣   35 内田康哉(前外務大臣)再任(政友会)

内務大臣 35 水野錬太郎(元内務大臣)(貴族院所属:交友倶楽部)

大蔵大臣 26 市来乙彦(貴族院所属:研究会)

陸軍大臣 29 山梨半造(前陸軍大臣)再任(軍人:陸軍大将)

海軍大臣 24 加藤友三郎(首相兼任・軍人:海軍大将)

     25 財部彪(軍人:海軍大将)

司法大臣 29 岡野敬次郎(貴族院所属:交友倶楽部)

文部大臣 35 鎌田栄吉(貴族院所属:交友倶楽部)

農商務大臣 33 荒井賢太郎(貴族院所属:研究会)

逓信大臣 31 前田利定(貴族院所属:研究会)

鉄道大臣 ③ 大木遠吉(貴族院所属:研究会)

内閣書記官長 23 宮田光雄(貴族院所属:庚申倶楽部)


 ◇参考

ウィキペディア『加藤友三郎内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E%E5%86%85%E9%96%A3

首相官邸HP『加藤(友)内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/21.html

歴代内閣に関するデータベース『加藤友三郎内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/21-Katou-tomo.htm


 主な出来事

1922年 6月 ・シベリア出兵: 日本が撤兵を声明

      7月 ・関西無尽(後の関西相互銀行→関西アーバン銀行)設立

         ・日本共産党結成(堺利彦・山川均ら)

      8月 ・日本経済連盟会設立(井上準之助・団琢磨ら)

       ・小学館設立

         ・東北帝国大学に金属材料研究所設置

         ・西武鉄道設立(武蔵鉄道より社名変更)

         ・大河津分水が通水

      9月 ・目黒蒲田電鉄(後の東京急行電鉄)設立

     10月 ・シベリア出兵: 樺太北部を除いて日本軍が撤兵を完了

     11月 ・革新倶楽部結成(犬養毅・尾崎行雄・島田三郎ら)

         ・アルベルト・アインシュタイン来日(〜12月29日,改造社の招聘)

     12月 ・第46議会召集

         ・鳳翔 (空母)就役(世界で初めて航空母艦として起工・就役)

1923年 1月 ・

      2月 ・

      3月 ・赤瀾会が日本初の国際婦人デー記念集会開催

         ・工場法改正(適用年齢の引き上げ他)

      4月 ・日本共産青年同盟(後の日本民主青年同盟)設立

      5月 ・

北一輝『日本改造法案大綱』


      6月 ・

      7月 ・

      8月 ・事実上の国内最高気温である42.5℃を徳島県鳴門市で観測

・加藤首相死去。総理大臣臨時代理に内田外相。

         ・山本権兵衛に組閣命令

      9月 ・関東大震災

         ・松岡康毅元農商務大臣死去

         ・加藤友三郎内閣総辞職


 ◇参考

ウィキペディア『1922年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1922%E5%B9%B4

ウィキペディア『1923年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1923%E5%B9%B4


 概要

 高橋是清内閣の総辞職のあと、政友会から後継首相を選ぼうとする者は元老の中にはすでに居なかった。山縣が死んだ後に残っていた元老は松方、西園寺の2名である。首相指名に当たって松方はまず清浦奎吾枢府議長と相談し、西園寺とも練り合わせ第一候補を加藤友三郎、第二候補を憲政会総裁・加藤高明に決めた。

「加藤にあらずば加藤」と言われ、苦節十年の辛酸を舐めた憲政会は大いに政権を獲得することをうれしく思った。しかし、第2次大隈内閣の時に対華強硬政策(二十一カ条の要求)を遂行した加藤高明に対する不信は根強かった。そのため実際はほぼ加藤友三郎で決まったようなものであった。そして、薩派の影響力が強い海軍が彼を猛烈にプッシュするようにし向けた。加藤友三郎は、組閣しても政権の基盤があるわけではないことを理由に、辞退を続けた。

 一方で、政友会は、憲政会に政権を奪われてはかなわない。そこで床次、横田など幹部が総出で加藤友三郎を訪問し、大命拝受を勧めた。加藤友三郎は折れて大命降下を受け入れる。こうして、貴族院・研究会、交友倶楽部から閣僚を求めた加藤友三郎内閣が発足。政友会は閣外協力として、政権与党の座についた。

 

 加藤内閣の大仕事は、ワシントン会議での取り決めに従い、シベリアからの完全撤兵と海軍軍縮を遂行することであった。

 組閣後間もない6月24日、加藤はシベリア撤兵を声明した。そして、何とかシベリア撤兵を無事に完了する。

 軍縮問題に関しては、加藤首相・兼・海相がワシントン条約に基づく海軍軍縮を断行した。

 戦艦「安芸」「薩摩」などは廃棄、建造中の「赤城」「加賀」などは航空母艦に改造された。数多くの将校・兵職工もリストラされた。

 海軍が軍縮に踏み切ったとなれば、その対抗勢力である陸軍も軍縮をしなくてはいけない流れとなる。し陸軍は、山梨半造陸相のもと、いわゆる「山梨軍縮」が行われ、多くの軍人が減らされる一方で、軍備の近代化が進められた。

 

 また、1922年の7月には非合法の政党として日本共産党が誕生している。共産党が現存最古の政党と言われるのはここにいわれがある。なお、共産党は今後の内閣によって二度活動休止に追い詰められることとなる。

 

 大正12(1923)年8月25日、折から病床についていた加藤友三郎首相逝去する。内田康哉外務大臣が臨時に首相代行に就任する。それから3日後の8月28日に後任の首相に山本権兵衛が大命降下される。山本は内閣の組閣を始める。しかし、組閣作業中の9月1日正午ごろ、東京・京浜地域を激震が襲った。世に言う関東大震災である。日本は首相不在という政治的に不安定な状況の中で大震災になったのだ。

 関東大震災は大正関東地震というマグニチュード7.9-8.1と推測されている巨大地震によって発生した一連の震災のことである。死者・行方不明者約10万人と言われている。震災の詳細については次代の第2次山本内閣でも述べようと思う。


 ◇参考

歴代内閣に関するデータベース『加藤友三郎内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/21-Katou-tomo.htm 

 ウィキペディア『関東大震災』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%9C%87%E7%81%BD

 ウィキペディア『関東地震』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%9C%B0%E9%9C%87

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ