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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
大正時代
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第18代 寺内正毅内閣

 第18代 寺内正毅内閣

 在任期間1916年10月9日~1918年9月29日(721日)


 国務大臣

 内閣総理大臣 ⑱ 寺内正毅

 外務大臣   30 寺内正毅 臨時兼任

       31 本野一郎

      32 後藤新平(元逓信大臣)

 内務大臣   31 後藤新平

       32 水野錬太郎

 大蔵大臣   22 寺内正毅 兼任

      23 勝田主計

 陸軍大臣   25 大島健一(前陸軍大臣)再任

 海軍大臣   21 加藤友三郎(前海軍大臣)再任

 司法大臣   25 松室致(元司法大臣)

 文部大臣   32 岡田良平

 農商務大臣  30 仲小路廉(元農商務大臣)

 逓信大臣   28 田健治郎

 内閣書記官長 ⑳ 児玉秀雄


 参政官

 任命なし。


 ◇参考

 ウィキペディア『寺内内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E5%86%85%E9%96%A3

 首相官邸HP『寺内内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/18.html

 歴代内閣に関するデータベース『寺内内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/18-Terauchi.htm


 主な出来事

1916年10月 ・寺内内閣発足

         ・明治製菓(当時の社名東京菓子)創立

     11月 ・折尾駅 二階建洋風(コロニアル様式)木造駅舎の完成

         ・日本精工設立

     12月 ・奈良原三次が千葉県稲毛海岸に日本初の民間飛行場(白戸飛行機練習所)を開設

         ・第38議会招集

         ・大山巌元陸軍大臣死去

         ・夏目漱石死去

1917年 1月 ・第一次世界大戦:駐日英国大使が日本艦隊の欧州派遣を本野外相に要請

         ・日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行が中華民国に借款を提供(西原亀三の仲介によ          る西原借款)

      2月 ・本海軍が欧州派遣に向け第1・第2特務艦隊を編成

         ・寺内内閣が日本艦隊の欧州派遣を閣議決定

         ・神戸衛生実験所(後のビオフェルミン製薬)設立

      3月 ・日本海軍第2特務艦隊がシンガポールを出発

      4月 ・日本がロシアの臨時政府を承認(3月ロシア革命)

         ・第13回衆議院議員総選挙

      5月 ・第3回極東選手権大会で東京高等師範学校のサッカー部が日本代表として中華民国          チームと対戦(結果:0-5)(日本サッカー初めての国際試合)

         ・「思潮」創刊(阿部次郎)

      6月 ・鈴木商店(後の味の素)設立

         ・第39特別議会召集

      7月 ・

      8月 ・菊池大麓元文部大臣死去

      9月 ・森永乳業(当時の日本煉乳株式会社)創立

         ・日本で金・地金輸出取締令が出され、金本位制が停止(再開は犬養内閣)

         ・東京湾で「大正六年の大津波」と呼ばれる高潮水害が発生。東京の佃、月島、築           地、品川、深川地区が浸水したほか、市川、船橋など千葉県の東京湾岸一帯に被害          を及ぼす。横浜港で多数の船が転覆したほか、行徳の塩田も壊滅状態に。(関東大          水害)

     10月 ・

     11月 ・日米間で石井・ランシング協定締結(中華民国の独立,門戸開放・機会均等の尊重          を約条し、満州における日本の権益を米国が承認)

     12月 ・明治乳業(当時の社名極東練乳)創立

         ・第40議会召集

         ・左右田喜一郎「経済哲学の諸問題」

1918年 1月 ・並木製作所(後のパイロットコーポレーション)設立

         ・豊田紡織(現:トヨタ紡織)設立  

      2月 ・

      3月 ・ 松下電器産業(当時の社名松下電気器具製作所)設立

      4月 ・丹那トンネル起工

         ・日英両軍が居留民保護を理由としてウラジオストクに上陸

         ・東京女子大学創立

      5月 ・

      6月 ・稲畑産業設立。

         ・英政府が珍田捨巳駐英大使にシベリア出兵を要請

      7月 ・児童雑誌「赤い鳥」創刊(鈴木三重吉)

         ・日本海軍の戦艦『河内』が徳山湾で爆発事故により沈没

         ・富山県で米騒動がおこる。

         ・米価が大暴騰し、米市場が大混乱

      8月 ・日本がシベリア出兵を宣言

      9月 ・寺内内閣総辞職、西園寺公望に大命降下、辞退。

 


 ◇参考

 ウィキペディア『1916年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1916%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1917年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1917%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1918年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4


 概要

 さて、今回考察します内閣は寺内正毅内閣です。みなさん、この内閣について気づいたことはありませんか? そうです。今回の内閣には第〇次というのが含まれていません。すなわち寺内は第1次内閣しか発足させていないということです。何気、内閣制度ができてからこの時点で約30年16代の内閣ができていましたが、2度目のことです。黒田清隆が1回だけだったことを最後にです。伊藤、山縣、松方、大隈、桂、西園寺、そして2度目の組閣はまだですが山本と二度以上組閣している傾向が目立っているのが戦前ゆえの内閣の性質です。

 寺内内閣の最大の特徴というのは非政党内閣であるということです。閣僚は山縣系官僚か貴族院議員です。寺内が総理になったのも山縣という元老にとって扱いやすい駒だったからでしょう。しかし、寺内自身は山縣ら元老に指図されたくはないと思いすぐに、内閣に干渉するなと山縣に言います。元老の影響力をそろそろ排除していこうとする意志が読み取れます。そのことが次の内閣で一番出てきますが、今回は関係ありませんね。

 さて、寺内内閣での主な重要な出来事は2つあります。まずは、米騒動です。

 1918年7月米価の沸騰に困った富山県の婦人たちが米商屋を襲ったことをきっかけとして全国的に起こった事件のことです。米価の沸騰は第一次世界大戦によるものやシベリア出兵によるものがあります。シベリア出兵により多くのコメが必要と知った商人は、高く政府にコメを売ろうとします。そのため、米を倉の中に隠したりします。流通量が少なったものは必然的に値段が上がります。それに困窮していた市民がブチギレた話というわけです。この米騒動の終息のために寺内は軍隊を派遣します。一般市民に軍を向けたことが寺内の国民からの信頼を大きくなくした理由の1つとなります。

 

米騒動

1918年、米価の暴騰に苦しんでいた民衆が、県外への米の積み出しを阻止したり、米屋を襲ったりした。富山の騒動が新聞で全国に報道され、名古屋、京都、大阪、東京、広島など全国各地に広がり、寺内正毅内閣の総辞職につながった。大正デモクラシー期の護憲運動や普通選挙運動などにも影響を与えたとされる。


(2006-04-02 朝日新聞 朝刊 富山全県 1地方)https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95-66267より。


 2つ目は、今出てきましたが、シベリア出兵です。


 1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。社会主義を封じるという説明は抽象的である。より具体的には帝国時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いがあった。


日本は兵力7万3,000人(総数)、4億3,859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3,333人から5,000人の死者を出し撤退した。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害されたとされる[1])。また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる。

 ※https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5より


 このシベリア出兵はソビエト連邦社会主義共和国通称ソ連という世界史上初の社会主義国家の誕生に危機感を抱いた資本主義国アメリカ、日本、イギリスなどによって行われるのですが、実のところ日本は別の場所に狙いがありました。この革命に乗じてロシアの領土を手に入れようとしていたのです。現に日本はほかの国よりも長い時期ロシアに滞在しています。日本が最終的に撤退するのは1922年になってのことです。

 このシベリア出兵は、ある種伏線になると私は考えています。この伏線というのは、第二次世界大戦のことです。ここで、ソ連に負けたことがかなり影響していると思います。

 ただ、このシベリア出兵は失敗に終わるので寺内の失敗の1つであるのではないかと考えます。ただ、こちらの場合は寺内はすでに総辞職しており死んでいるので関係はないのでしょうが……

 

 今回はこのあたりで終わりにしたいと思います。

 ついに元老による政権は民衆に見放された。次に国民が期待したのは……次回、平民宰相立つ。という感じで次回は原敬内閣についてやります。


 ◇参考

 ウィキペディア『1918年米騒動』https://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95

 コトバンク『米騒動』https://kotobank.jp/word/%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95-66267

 『米騒動 - 【日本の歴史巡り】』http://www.jphistoryrd.com/tai/kome.html

 ウィキペディア『シベリア出兵』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5

 ウィキペディア『ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%88%E9%80%A3%E9%82%A6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD

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