第17代 第二次大隈重信内閣
第17代 第二次大隈重信内閣
在任期間1914年4月16日~1916年10月9日(908日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑰ 大隈重信(元総理大臣)
外務大臣 27 加藤高明(元外務大臣)
28 大隈重信 兼任
29 石井菊次郎
内務大臣 27 大隈重信 兼任
28 大浦兼武(元内務大臣)
29 大隈重信 兼任
30 一木喜徳郎
大蔵大臣 ⑳ 若槻禮次郎(元大蔵大臣)
21 武富時敏
陸軍大臣 23 岡市之助
24 大島健一
海軍大臣 ⑲ 八代六郎
⑳ 加藤友三郎
司法大臣 24 尾崎行雄
文部大臣 30 一木喜徳郎
31 高田早苗
農商務大臣 28 大浦兼武
29 河野広中
逓信大臣 26 武富時敏
27 箕浦勝人
内閣書記官長 ⑲ 江木翼(元内閣書記官長)
参政官(1914年10月6日設置)
政務次官の元である制度。
外務参政官 ・安達謙蔵
・柴四朗
内務参政官 ・下岡忠治
・藤沢幾之輔
大蔵参政官 ・浜口雄幸
・加藤政之助
陸軍参政官 ・真鍋斌
海軍参政官 ・早速整爾
・岡部次郎
司法参政官 ・田川大吉郎
文部参政官 ・桑田熊蔵
・大津淳一郎
農商務参政官 ・町田忠治
逓信参政官 ・藤沢幾之輔
・木下謙次郎
副参政官(1914年10月6日設置)
外務副参政官 ・鈴置倉次郎
・大隈信常
内務副参政官 ・鳥居鍗次郎
大蔵副参政官 ・大津淳一郎
・紫安新九郎
陸軍副参政官 ・三浦得一郎
海軍副参政官 ・田中善立
司法副参政官 ・関和知
文部副参政官 ・大隈信常
・小山谷蔵
農商務副参政官 坪井九八郎
逓信副参政官 荒川五郎
◇参考
ウィキペディア『第2次大隈内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E9%9A%88%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸HP『第2次大隈内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/17.html
歴代内閣に関するデータベース『第二次大隈内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Taisyou-naikaku/17-Ohkuma-vol2.htm
主な出来事
1914年 4月 ・第2次大隈内閣発足。
5月 ・第32臨時議会召集
・東上鉄道(後の東武東上線)池袋 - 田面沢(川越市内)まで開業。
6月 ・平凡社設立
・第33臨時議会召集
・九州電気軌道 折尾停留所 - 黒崎間の開通
・サラエボ事件(6月28日)
7月 ・第一世界大戦開戦
8月 ・英国が日本の対独参戦に同意
・第一次大戦で大日本帝国がドイツに宣戦布告する。(8月23日)
9月 ・第一次大戦で、日本がドイツ租借地の山東省に上陸する。
・第34臨時議会召集
10月 ・三越呉服店新装開店(エスカレーターやライオン像が話題になる)
・第一回二科展
11月 ・英国が日本艦隊のダーダネルス海峡への派遣を要請(日本は拒絶)
・新大久保駅開業
・「少年倶楽部」創刊(大日本雄辯會)
12月 ・第35議会召集
・東京駅開業(東海道本線始発駅は新橋駅から東京駅に変更、新橋駅は汐留貨物駅に 改称)
・伊藤忠合名会社設立
・一家四人死刑事件
1915年 1月 ・二十一カ条の要求(対華二十一カ条要求)
2月 ・
3月 ・第12回衆議院議員総選挙
4月 ・
5月 ・袁世凱政権が日本の対華二十一ヶ条要求を受諾
・第36特別議会召集
・梁瀬長太郎が梁瀬商会(現在のヤナセ)を設立。
6月 ・
7月 ・石原純、論文「重力の相対論」(「東北帝大理科報告」)
8月 ・ 第1回全国中等学校優勝野球大会 (後の全国高等学校野球選手権大会)が大阪府 の豊中球場で開幕
9月 ・
10月 ・第一次世界大戦:日本が戦後の権益に関する連合国側の秘密協定であるロンドン宣 言に加入。
・大阪府立大阪医学校を大阪府立大阪医科大学へ改組(専門学校令準拠のまま改称、 大学令による旧制大学では無い)
11月 ・第37議会召集
・田辺元「最近の自然科学」
12月 ・三毛別羆事件発生
・恩賜財団済生会により財団本部直営の病院として「済生会芝病院」(現・東京都済 生会中央病院)開設。初代院長は北里柴三郎。
1916年 1月 ・鈴ケ森おはる殺し事件で真犯人と名乗り出た石井藤吉を起訴。小守惣助の公判は中 止に。一つの事件で2人別々に起訴されるという前代未聞のケースになった。
2月 ・西南学院創立
・加藤老事件で、山口地裁が「共犯者」の供述を信用し、加藤新一に「無期懲役」を 判決。
3月 ・
4月 ・醍醐味合資会社(現カルピス)創立
・寺西化学工業所[現=寺西化学工業]創立
5月 ・箕面の母殺し事件で、大坂地裁が卯市に死刑判決、義任に懲役10年に判決。2人は直 ちに控訴したが、義任は取り下げた。
6月 ・
7月 ・
8月 ・
9月 ・河上肇『貧乏物語』(大阪朝日新聞)
・日本最初の労働者保護法である工場法施行
10月 ・第2次大隈内閣総辞職
◇参考
ウィキペディア『1914年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1914%E5%B9%B4
ウィキペディア『1915年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1915%E5%B9%B4
ウィキペディア『1916年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1916%E5%B9%B4
『1916年[ザ・20世紀] - So-net』http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1916.html
概要
さて、今回の歴代内閣考察は久しぶりの登場である大隈重信による第2次大隈内閣です。第1次大隈内閣が総辞職してから約14年5か月が経過してからの再登板です。この再登板は歴代内閣総理大臣で最も長い期間となっております。ちなみに、再登板した内閣総理大臣についての説明をしておこうと思います。再登板した総理大臣は以下の人たちとなっております。
伊藤博文(初・5・7・10代)
山縣有朋(3・9代)
松方正義(4・6代)
大隈重信(8・17代)
桂太郎(11・13・15代)
西園寺公望(12・14代)
山本権兵衛(16・22代)
若槻礼次郎(25・28代)
近衛文麿(34・38・39代)
吉田茂(45・48・49・50・51代)
安倍晋三(90・96・97代)
の、11人だけです。基本的に総理が辞めるのは何かしらの理由があるわけであるから再登板をする機会というのはあまりないです。戦前は総理が辞めようが元老など一部の人間によって決められていたため国民からの支持など関係なく再登板はありました。戦後は、吉田茂と現職の安倍総理だけですね。
そして、今回から変更点があります。閣僚紹介をやめようと思います。そして、閣僚紹介を時代ごと最後の歴代内閣データのあとに閣僚ごとの紹介をした話を設けようかと思います。ですので、方針の変更すみません。
では、本来の趣旨である内閣の紹介というか考察をしたいと思います。
第2次大隈内閣で起きたことと言えば、第一次世界大戦への参戦が一番でかいでしょう。日本が連合国側として参戦してちゃっかり勝利しちゃいます。ドイツの委任統治下にあった南洋諸島や山東半島をちゃっかり占領して戦後に日本の領土としてしまいます。また、中国に対しては強硬的であり世にも名高い『二十一カ条の要求(対華二十一カ条要求)』を袁世凱政権に容認させます。ただ、これを行ったのちに総理大臣となる加藤高明外務大臣に対して元老の西園寺は不信感を覚えます。
『二十一カ条の要求(対華二十一カ条要求)』
第1号 山東省について
ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許す こと
山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること
第2号 南満州及び東部内蒙古について
旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
第4号 中国の領土保全について
沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他
中国政府に政治顧問、経済顧問、軍事顧問として有力な日本人を雇用すること
ウィキペディア『対華21カ条要求』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82より抜粋
なお、一部重要ではないと思った項目は意図的に外しています。
中国の内政を著しく干渉しているものとして今でも中国史を語る上で非難されるものです。日本人としてすでにこの時代に中国侵略の足掛かりができていたということを覚えておきましょう。まだ、満州事変は起きていませんが伏線はこの辺から……
この内閣は元老の山縣が第2次西園寺内閣以来となっていた陸軍二個師団増設法案を成立させることを求めていたためこの法案に反対する立憲政友会の議席を減らすため第12回衆議院選挙のあとに成立させます。しかし、この際に大浦兼武内務大臣が第1次松方内閣の品川内務大臣以来となる大選挙干渉を行ったため批判され辞任します。大隈も責任を取り辞任しようとしますが、当時は大正天皇の即位式を控えていたため総辞職を諦めます。結果、総辞職しろと閣内で言っていた加藤外務大臣と、若槻礼次郎大蔵大臣を入れ替えます。そして、陸軍二個師団増設法案させると元老山縣としてはすでに大隈は使い捨てでもう用無しであったため総辞職させ第2次大隈内閣は終わります。
この内閣の役目は、私なりにはこのように思っています。元老達の手にあったと思っていた政治権力はここで揺らいでいくすなわち大正時代の政党政治への中間地点ということです。現に、山縣が暗躍しています。大隈は庶民に人気があるからという理由で人気受けのためにジーメンス事件という事件を風化させるために総理にしました。大隈は政界を引退していて早稲田大学の学長をしていたというのにです。
山縣は日本近代史の闇とも言われています。しかし、近年はそういった以外での研究も進んでいるようですが、まだまだ私の印象としては暗部というイメージです。
では、今回はここまで。次回はビリケン宰相寺内正毅です。
◇参考
ウィキペディア『内閣総理大臣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3
ウィキペディア『内閣総理大臣の一覧』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3%E7%B7%8F%E7%90%86%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E4.B8.80.E8.A6.A7
『二十一箇条問題に関する排日状況 第1輯 上海日本商業会議所調査』https://books.google.co.jp/books?id=BG0UQZ8SJagC&pg=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false
『戦前日本外交文書データベース「世界と日本」 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室』http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/indices/pw/
ウィキペディア『対華21カ条要求』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82