第16代 第一次山本権兵衛内閣
更新遅れました。いろいろとシーメンスについてのHPを見ていました。
第16代 第一次山本権兵衛内閣
在任期間1913年2月20日~1914年4月16日(421日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑯ 山本権兵衛(元海軍大臣)
外務大臣 26 牧野伸顕(元文部大臣)
内務大臣 26 原敬(元内務大臣)
大蔵大臣 ⑲ 高橋是清
陸軍大臣 21 木越安綱
22 楠瀬幸彦
海軍大臣 ⑱ 斎藤実(前海軍大臣)再任
司法大臣 22 松田正久(元大蔵大臣)
23 奥田義人
文部大臣 28 奥田義人 一時司法大臣兼任から単独へ
29 大岡育造
農商務大臣 27 山本達雄(元大蔵大臣)
逓信大臣 25 元田肇
内閣書記官長 ⑱ 山之内一次
◇参考
ウィキペディア『第1次山本内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸『第1次山本内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/16.html
歴代内閣に関するデータベース『第一次山本権兵衛内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/16-Yamamoto-vol2.htm
歴代内閣閣僚事典『第1次山本権兵衛内閣』http://homepage1.nifty.com/kitabatake/naikaku16.html
主な出来事
1913年 2月 ・第1次山本内閣成立
・尾崎行雄らが立憲政友会を離党、政友倶楽部を結成
3月 ・
4月 ・東京で電流殺人事件が発生
5月
6月 ・ 愛知貰い子殺人事件が発覚。
・「森永ミルクキャラメル」が発売
・軍部大臣現役武官制撤廃
・国語調査委員会廃止
7月 ・林董元外務大臣死去
8月 ・ 吉田岩窟王事件
・東北帝国大学に3名の女性が入学、帝国大学初の女子学生となる
・日本海軍の巡洋戦艦「金剛」が竣工
9月 ・田中正造元衆議院議員死去
10月 ・日本政府が中華民国を承認
・桂太郎前内閣総理大臣死去
11月 ・ハウス食品(当時の社名浦上糧食工業所)設立。
・史上最後の征夷大将軍、徳川慶喜が感冒にて死去。享年77
・徳川慶喜の死後、勲一等旭日桐花大綬章が授与された。
12月 ・京都法政大学が「私立立命館大学」に改称
・立憲同志会(後の憲政会)結成
・第31議会召集
1914年 1月 ・桜島が大噴火
2月 ・内閣弾劾国民大会開催(日比谷公園)- 国会議事堂を包囲
・青木周蔵元外務大臣死去
3月 ・朝鮮総督府による大規模な自治体の統廃合(都市部分は府、農村部分は郡に)
・ニチロ(現マルハニチロ)設立
・辰野金吾設計による東京駅が新築落成
・東京大正博覧会開催(日本初のエスカレーター登場)
・第1次山本内閣総辞職(シーメンス事件による)職務は次の内閣成立まで継続
・芸術座公演「復活」(松井須磨子ら)
・松田正久元大蔵大臣死去
・長谷場純孝元文部大臣死去
4月 ・宝塚少女歌劇(現在の宝塚歌劇団)第1回公演
・第2次大隈内閣成立
◇参考
ウィキペディア『1913年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1913%E5%B9%B4
ウィキペディア『1914年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1914%E5%B9%B4
概要
さて、久しぶりの歴代内閣考察に行きたいと思います。
ちなみに今月5月1日をもってこの作品も1年が経ちました。本文中に挨拶するのは悪いですが、本当にありがとうございます。
さて、そろそろ本題に入りましょう。
今回の内閣は第1次山本権兵衛内閣です。第1次ということはこの人は複数回内閣総理大臣をやる人で、実際に2回内閣総理大臣をやる人です。2回目は1923年になります。ちなみにあとで(第2次)で話すことになりますが、山本権兵衛は本当に運がない人です。2度の内閣においての総辞職の原因がすべて自分が起こしたこと以外の事件に遠因しています。シーメンス事件と、虎の門事件のこと。
さて、閣僚の紹介へと入りたいと思います。
山本権兵衛内閣総理大臣。のちの第2次内閣で紹介します。
牧野伸顕外務大臣。第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣文部大臣、第2次西園寺内閣農商務大臣を歴任しています。今回は牧野の説明をしようと思います。
牧野は、1861年に、薩摩国鹿児島城下に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の二男として生れました。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、吉之丞が戊辰戦争における北越戦争(新潟)で戦死したため名字が牧野のまま大久保家で育ちました。父親が大久保利通とはとてもすごい家系に生まれています。
1871年に11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、帰国し開成学校(後の東京帝国大学)に入学します。その後、東京大学を中退して外務省入省。 ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあいます。帰国後、太政官権小書記官、法制局参事官、兵庫県大書記官、黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨城県知事、文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使等を歴任する。太政官権小書記官時代、伊藤博文に随行し北京にて伊藤と李鴻章との駆け引きを肌で感じたといいます。オーストリア公使時代には、日本とギリシアとの通商条約締結、ロシアとの戦争を見越した情報宣伝操作、第一次大戦後の君主国の動向の調査などがある。ヨーロッパにおいて、黄禍論の広まりを防ごうとしました。
第1次西園寺内閣で文部大臣を務めた際、外交官時代の功績によって男爵を授けられた。文部大臣時代の功績として義務教育の年限を4年から延長して6年としたことと文部省からお金を支出して、美術展覧会・文展が開かれることがある。第2次西園寺内閣で農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣で外務大臣となります。山本権兵衛と三浦梧楼から、山県閥への牽制として当初宮内大臣への就任を打診されたが、政府と宮中の長官を薩摩人が占めることに誤解を抱かれるとの懸念から辞退しています。 この時期の牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげました。1914年に、貴族院勅選議員に任じられる。
1919年、第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。一行の首席は西園寺であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿吉田茂、芦田均などのちに内閣総理大臣に就任する人物がいました。パリ講和会議では日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っている。1920年、パリ講和会議の論功行賞により男爵から子爵へ陞爵し、同時に旭日桐花大綬章を授けられた。
1921年、宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると元老の松方正義が後継選択を行い、に親任式が行われ、牧野が宮内大臣に就任することとなった。しかし、薩派の山之内一次や樺山資英らが、牧野を松方・山本の後を嗣ぐ次代のエースとみなしており、辞退を勧告した。また、西園寺公望も宮相就任の挨拶に来た牧野に「宮相も従来からの候補であったが、首相として原の後を引き受けてもらいたかった」と発言している。穏健な英米協調派で自由主義的傾向が強い牧野を宮内大臣に推したのは、天皇及び宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った西園寺の意向であるといいます。宮相就任後、牧野は元老と内大臣との間の情報仲介役として、後継首班奏請に関与するようになる。宮相になった翌年、山県が亡くなり、元老は松方と西園寺のみとなり、両者とも病臥することが多くなった。
1925年、内大臣に転じ、1935年まで約10年間在任。牧野は常侍輔弼という大任に加え、後継首相の選定にもあずかることになった。宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの任務挙行の功績により公爵となる。牧野に対する天皇の信頼は厚く、15年後、多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。後任の内大臣に湯浅倉平を推薦し、牧野はその後も宮中、外交への影響力を保持し続けようとしたが健康がすぐれず、また、就任以来15年になるので人心を新たにすることを退任の理由とした。牧野には当時持病として神経痛とじんましんがあり、1932年以降には、宮中での晩さん会の中座、陸海軍大演習の不参といった、公務にも支障をきたすほどの容体になっていました。
1936年、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されてしまいますが、孫である麻生和子(吉田茂の娘)の機転によって窮地を脱した。ちなみに護衛の警官は殺害されてしまったそうです。牧野を殺害対象としたテロ計画はこの事件の前にも何個かありました。
第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼は衰えず、数度宮中に招されて意見具申をしました。最晩年は千葉柏市に居住したそうです。戦後も皇室と天皇の処遇に関心があり、GHQで憲法問題担当政治顧問のケネス・コールグルーヴ と会談し、情報を天皇に伝え、天皇謁見を依頼したり、東京に帰った明仁親王に幕末の外交談や留学談、英米の政治家の懐旧談を語った。オールド・リベラリストの1人として牧野の評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に推す声さえあったが、老齢のため二度と政治の世界に復帰することはありませんでした。戦後、首相となっていた吉田茂は度々相談に牧野の元へと訪れています。
1949年(昭和24年)1月25日死去、享年87。死後ほとんど財産らしきものは残っていなかったといわれています。日本棋院初代総裁。また、シャーロッキアンの草分け的存在としても有名だそうです。
シャーロッキアンの草分け的存在って何だろうと思って調べてみました。
シャーロッキアンってシャーロットホームズの熱烈なファンのことみたいです。私は初めて知りました。みなさんは普通に知っていると思いますが、私がはじめてしまったのであえて書いておきます。
原敬内務大臣。原内閣にて。
高橋是清大蔵大臣。高橋内閣にて。
木越安綱陸軍大臣。
この内閣において前内閣で問題となった軍部大臣現役武官制の改正を陸軍の意向に反する形で合意する。その責任を取り途中で辞任。このことが原因で予備役に追いやられます。
日清、日露両戦争において実際に戦っています。
楠瀬幸彦陸軍大臣。
閔氏殺害に関わった人ですが、無罪となっています。前任の木越と同じく軍部大臣現役武官制の改正に賛成したため陸軍内で干されて大臣としてはこの内閣の身に入閣し、退任後は予備役に追いやられます。ちなみに軍部大臣現役武官制の改正に反対していた上村勇作は陸軍大将、元帥まで上り詰めています。
斎藤実海軍大臣。斎藤内閣にて。
松田正久司法大臣。第4次伊藤内閣で説明をしています。
奥田義人(おくだ よしと/よしんど)文部大臣のち、司法大臣。
第1次山本内閣でのみの入閣となります。1913年2月20日~1914年3月6日まで文部大臣、1913年11月11日~1914年4月16日まで司法大臣。
1860年幕末の鳥取県生まれです。東京帝国大学卒。最初は官僚として仕事をし、1903年の第8回衆議院議員総選挙で無所属にて旧神奈川県横浜区から立候補し当選。1904年の衆議院解散のあとの第9回衆議院議員総選挙では、旧鳥取県鳥取区から無名倶楽部公認で立候補して再選を果たします。1912年貴族院議員となります。
この第1次山本内閣にて司法大臣として初入閣。これは、鳥取県出身者では初めての大臣です。内閣総辞職後は、中央大学の設立に貢献。その後、東京市長(第5代・1915~1917)となり1917年に死去します。
大岡育造文部大臣。第15・16代衆議院議長歴任。のち第20代衆議院議長。
1856年に長州藩の医師の子として生まれます。その後、自由党に入党。1890年の第1回衆議院議員総選挙に立候補し当選。1894年の第4回と1915年の第12回衆議院議員総選挙を覗き13回当選。国民協会、帝国党そして立憲政友会の結党に関わり中央新聞を編集していました。1903年からは東京市関係の職に就き、1911年に第15代衆議院議長に就任します。1913年の大正政変の際の衆議院議長として内閣不信任上奏決議案の提出に伴う尾崎行雄による過激な内容の趣旨説明で野次が飛び交い騒然となる議場を、議長という中立の立場から諌めて最後まで尾崎に趣旨説明を行わせ、さらに同郷人の立場から、桂太郎首相に退陣を勧告したという逸話が残っている人物です。桂も長州山口出身。このあたりの話は高校の日本史の先生に教わりました。
1917年に再び衆議院議長に就任。1920年まで在任。衆議院議長としての在職日数は1785日で、これは平成時代に2003年から2009年まで在任していた河野洋平に抜かれるまで歴代1位の記録であった。
山本達雄農商務大臣。今後も入閣するのでその時に説明を回します。
元田肇逓信大臣。原内閣で初代鉄道大臣に就任します。その時に説明を回します。
山之内一次内閣書記官長。のちに第2次山本内閣でも鉄道大臣に就任します。この人の情報は少ないので今回やってしまいたいと思います。
1866年鹿児島藩士の子として産まれます。第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、内務省に入省。青森県知事を1901年~1904年まで務めます。その後、逓信省、 鉄道院、北海道庁長官を歴任後、第1次山本内閣で内閣書記官長、1914年に貴族院議員。1923年に第2次山本内閣鉄道大臣。1932年に死去します。
さて、この第1次山本内閣は第3次桂内閣の崩壊により成立しています。陸軍の暴走の成れの果てに海軍から総理が出ました。これで、民衆の怒りはひとまず落ち着くだろうと元老どもは思ったのでしょう。しかし、翌年大事件が発覚します。それがシーメンス事件です。
シーメンス事件とは、簡単に言うと海軍の汚職事件です。
詳しい経緯を語っていこうと思います。
シーメンスまたはジーメンス事件のシーメンスというのはドイツの企業の名前です。当時、海軍がこのシーメンス社から軍需品を買う際に贈収賄が発覚した事件です。さらにシーメンス社以外にもイギリスのヴィッカース社とも軍艦金剛の建造に関する汚職事件が起きて、海軍は民衆からの批判を買います。詳しい説明はウィキペディアや各種サイトにありますので私はこのような短い言葉でまとめさせていただきます。
こうした海軍の汚職の責任を取って山本内閣は総辞職することになります。民衆の怒りは爆発。こうして元老が次の総理として白羽の矢を当てたのが民衆が好きである政界を引退していたあの人物でした。
次回、第2次大隈内閣発足へ。
◇参考
ウィキペディア『パリ講和会議』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E8%AC%9B%E5%92%8C%E4%BC%9A%E8%AD%B0#.E4.B8.BB.E8.A6.81.E3.81.AA.E5.87.BA.E5.B8.AD.E8.80.85
ウィキペディア『シャーロキアン』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%82%AD%E3%82%A2%E3%83%B3
ウィキペディア『牧野伸顕』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
ウィキペディア『山之内一次』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B9%8B%E5%86%85%E4%B8%80%E6%AC%A1
ウィキペディア『大岡育造』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E8%82%B2%E9%80%A0
ウィキペディア『シーメンス』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9
ウィキペディア『シーメンス事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B9%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ウィキペディア『奥田義人』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%94%B0%E7%BE%A9%E4%BA%BA
ウィキペディア『木越安綱』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%B6%8A%E5%AE%89%E7%B6%B1
ウィキペディア『楠瀬幸彦』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E7%80%AC%E5%B9%B8%E5%BD%A6
『牧野 伸顕 / クリック 20世紀』http://www.c20.jp/p/mnobuaki.html
シーメンス・ジャパン株式会社HP『日本のシーメンス』http://www.siemens.com/entry/jp/ja/
『鳥取県郷土人物文献データベース--おくだぎじん』http://db.pref.tottori.jp/HomePerson.nsf/DataPersonView/DF795546BAF10F9D4925700000117BFA?OpenDocument
山川出版社『日本史B用語集』




