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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
大正時代
19/58

第15代 第三次桂太郎内閣

 更新遅れました。文字を打つ作業をする暇もなく、かつ文字を打つやる気もありませんでした。

 第13代 第三次桂太郎内閣

 在任期間1911年12月日~1912年月日(62日)


 国務大臣

 内閣総理大臣  ⑮ 桂太郎(元内閣総理大臣)

外務大臣    24 桂太郎 兼任

       25 加藤高明(元外務大臣)

  内務大臣   25 大浦兼武(元逓信大臣)

大蔵大臣   ⑱ 若槻禮次郎

陸軍大臣   ⑳ 木越安綱

海軍大臣   ⑰ 斎藤実(前海軍大臣)再任

司法大臣   21 松室致

文部大臣   27 柴田家門(元内閣書記官長)

農商務大臣  26 仲小路廉

逓信大臣   24 後藤新平(元逓信大臣)

内閣書記官長 ⑰ 江木翼

 ※文部大臣と農商務大臣の代数が前回とずれているので現在調整中です。


  ◇参考

 ウィキペディア『第3次桂内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC3%E6%AC%A1%E6%A1%82%E5%86%85%E9%96%A3

 首相官邸『第3次桂内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/15.html

 歴代内閣に関するデータベース『第三次桂内閣』http://www.geocities.jp/since7903/Taisyou-naikaku/15-Katsura-vol3.htm

 


 主な出来事

1912年12月 ・第3次桂内閣成立

         ・夕張炭鉱で爆発事故。216名が死亡。4月に276名の死亡事故を起こしたば            かりであった。

         ・第30議会招集

1913年 1月 ・森鴎外『阿部一族』(『中央公論』)

      2月 ・尾崎行雄が政府弾劾演説を行う(第一次護憲運動)

         ・護憲派の民衆が議会を包囲し暴徒化

         ・第3次桂内閣総辞職(大正政変)


 ◇参考

 ウィキペディア『1912年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1912%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1913年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1913%E5%B9%B4


 概要 

 桂太郎が組閣する最後の内閣となります。また、大正時代になって初めて大正天皇によって大命降下を受けた内閣にもなります。

 さて、第3次桂内閣は歴代内閣の中で2番目に在職日数の短い内閣となっております。最短は東久邇宮成彦内閣の54日。ついでの62日です。桂はこの前に第1次、第2次内閣を経験しているため歴代最長の内閣総理大臣ですが1つ1つの内閣を見ると第3次がとても短くなっています。

 さて、恒例の閣僚紹介についていきます。


 桂太郎内閣総理大臣。ついに桂の紹介のターンとなりました。第1次、第2次では散々説明から逃げていましたので今回説明することとします。

 桂太郎は、1848年に現在の山口県萩市で、長州藩士馬廻役・桂與一右衛門の嫡男として生まれます。その後、長州藩の軍に参加したりし、戊辰戦争を戦います。

 明治維新後は、ドイツに留学するも生活が苦しく途中で帰国せざる負えなくなっています。ドイツ留学中に助けを求めた木戸孝允が山縣に頼んで桂を陸軍に入隊させます。

 以後、山縣閥として出世していき日清戦争でも戦います。日清戦争後、第2代台湾総督(在任1896年)を経て第3次伊藤内閣で陸軍大臣として初入閣します。第3次伊藤、第1次大隈、第2次山縣、第4次伊藤までの4内閣に及んで陸軍大臣の任を務めあげます。第4次伊藤内閣の途中で山縣に移行で児玉源太郎に陸軍大臣の職を譲ります。そして、井上が大命降下を受けたものの組閣流産したことにより桂に大命降下がきてついに第1次桂内閣ができます。

 その後、日露戦争を勝利に導き、西園寺と共に桂園時代という時代を作り上げます。第11代、第12代、第13代内閣総理大臣になります。

 桂は、歴代内閣総理大臣で最も在任日数が長い人です。その期間は2886日です。

 桂は、人事を掌握しており、ニコポン宰相というあだ名がありました。理由は、桂がニコニコ笑って肩をポンと叩き、政治家や財界人を手懐けるのに巧みだったため新聞にそう書いたと言われています。


 加藤高明外務大臣。のちに総理大臣になるのでその時に。


 大浦兼武内務大臣。第2次大隈内閣の時に回します。


 若槻礼次郎大蔵大臣。のちに二度総理大臣になります。その時に。


 木越安綱陸軍大臣。第1次山縣内閣まで陸軍大臣を務めます。今回は、第1次桂内閣でまとめて説明しようと思います。

 帝国陸軍におけるドイツ化の功労者。西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し、軍功により男爵に叙爵されます。

 序列的には山縣有朋、桂太郎、寺内正毅に次ぐ4番目に位置づけられるまでに至るほどの実力がありました。上の3人はどれも総理大臣経験者なのでもしかしたら総理大臣になることができたのかもしれません。ただ、次の第1次山縣内閣で前回の第2次西園寺内閣で出てきた軍部大臣現役武官制の改正を陸軍の反対に逆らって賛成してしまったために陸軍内での立場を失います。軍部大臣現役武官制の説明は第2次西園寺内閣または、第1次山本内閣でします。


 斎藤実海軍大臣。のちに総理大臣になるのでその時に。


 松室致まつむろ いたす司法大臣。

 今回初入閣です。寺内内閣でも司法大臣として入閣しています。寺内内閣に説明を回します。


 柴田家門文部大臣。第1・2次桂内閣内閣書記官長。今回の桂内閣でも閣僚として入閣しています。教育界に大きな貢献をしたとのことが下記の萩市のHPにおいて書かれていましたが、詳しいことがあまり残っている人ではありません。


 仲小路廉なかしょうじ れん農商務大臣。

 周防国徳山藩生まれです。1887年に判事検事登用試験(高等文官試験司法科の前身)合格します。その後、東京控訴院検事兼司法省参事官などを経て、行政裁判所評定官を務めます。のち、逓信省大臣官房長、内務省土木局長、警保局長、逓信次官と渡り歩き、第3次桂内閣にて農商務大臣に就任。寺内内閣でも就任します。歴史哲学者の仲小路彰は次男だそうです。1911年より、勅選による貴族院議員に就任します。立憲同志会に参加。のちに枢密顧問官に就任し1924年に死去します。


 後藤新平逓信大臣。今後も入閣するのでその時に説明します。


 江木翼えぎ たすく内閣書記官長。今後も入閣するのでその時に回します。


 さて、そろそろ第3次桂内閣の時の出来事について説明をします。何といっても第3次桂内閣の時に第一次護憲運動がおこったというのが一番でかいですね。第一次護憲運動からの第3次桂内閣総辞職までの動きを大正政変と言います。説明がめんどくさいのですべてウィキを完コピした勢いですが、いろんな本やサイトを見ながらまとめさせていただこうと思います。

 大正政変は一般には第2次西園寺内閣の倒壊から第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までとされえています。これは、第2次西園寺内閣の総辞職が陸軍の力により行われたものであり、陸軍出身の桂によって行われたものであると民衆は思い民主化運動がおこったことが原因です。

 

 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた桂園時代と呼ばれる時代を気づいていました。しかし、第2次西園寺内閣が陸軍2個師団増設を拒否したことでこの情意投合の理念はなかったものとされました。

 後継首相は元老会議という会議で決められました。元老とは、明治維新に貢献したものが元老がとなったのです。最初は、元勲と呼ばれていました。この、元老は大日本帝国憲法(明治憲法)には規定されておらず憲法外の機関でした。その他の憲法外の有名な機関としては枢密院が挙げられます。さて、この元老にはどのような人がいたというと、以下の人たちです。

 伊藤博文(内閣総理大臣・長州藩)

 黒田清隆(内閣総理大臣・薩摩藩)

 山縣有朋(内閣総理大臣・長州藩)

 松方正義(内閣総理大臣・薩摩藩)

 井上馨(外務大臣・長州藩)

 西郷従道(海軍大臣・薩摩藩)

 大山巌(陸軍大臣・薩摩藩)

 桂太郎(内閣総理大臣・長州藩)

 西園寺公望(内閣総理大臣・公家)

 この人たちを見るとわかるのはすべて藩閥関係です。この藩閥政治家の再登場に民衆が怒ったのです。ちなみに、この時伊藤、黒田、西郷はすでに亡くなっているためいません。

 そして、この元老会議で後継首相に指名されたのが、半年前に内大臣兼侍従長になったばかりの桂太郎でした。しかし、これが『宮中・府中の別』を乱すものという非難が上がりました。この『宮中・府中の別』とは、明治憲法下の内閣制度では宮内省(宮内大臣)が内閣の外に設けられており宮中と府中(行政府)を別々にしていたことです。

 さらに、財政問題で2個師団ができなかったので桂が就任すると絶対に2個師団増設するだろうと考えた財政家、野党政治家が加わり第一護憲運動が始まります。

 12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、14日には交詢社有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会としました。19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、多くの聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。21日、西園寺内閣が正式に総辞職して第3次桂太郎内閣が発足しました。27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。

 1月になると、「憲政擁護」を叫ぶ大会が各地でひらかれ、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加した。21日、議会の開会予定をさらに15日間停会した桂内閣の処置により、かえって運動は加熱し、24日の東京での憲政擁護第2回大会はじめ、運動は全国的なひろがりをみせて一大国民運動となっていった。こうした動きに対し、桂首相は明治天皇の諒闇中(服喪期間)であるから政争を中止するように諭した大正天皇の詔勅(優詔)を受けてこれを乱発し、政府批判を封じました(優詔政策)。


この間、立憲政友会と立憲国民党の提携が成立し、とくに立憲政友会党員の尾崎行雄や立憲国民党党首の犬養毅が中心となって活躍した。2月5日、再開された議会で政友会や国民党などの野党は内閣不信任決議案を議会に提出し、ただちに停会となりました。

 このときの63年間衆議院議員を務め最長の議員歴を持つ尾崎行雄によって以下の演説をします。

 「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱へておりますが—(中略)—玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」

 これは、もっとも有名な尾崎行雄の桂首相弾劾演説のフレーズです。


 9日の憲政擁護第3回大会は2万の集会となり、さらに、10日には数万人の民衆が議会を包囲して野党を激励、民衆示威のなかで桂は帝国議会の開会をむかえました。これは、朝日新聞社から発行されている週刊マンガ日本史の尾崎行雄の巻で読みました。

 桂は議会解散を決意したが、解散は内乱誘発を招くとの大岡育造衆議院議長からの忠告により内閣総辞職を決意して、閣僚に辞表を書くよう指示し、再び停会を命じましたが、民衆は総辞職を決めたとは知らずに議会停会に憤激して警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃しました。つづいて同様の騒擾は大阪・神戸・広島・京都などの各市へも飛び火しました。

 20日に桂内閣は発足からわずか53日で総辞職、「五十日内閣」と呼ばれた。後継の首相には海軍大将で薩摩閥の山本権兵衛が就きました。ただ、後継首相任命までの間は政務を前内閣である桂が務めるため正確には62日です。


 こうして、第3次桂内閣は総辞職し、国民からの人気もなくなり桂は政治の表から去りました。しかし、同年10月に桂は亡くなりましたが、その葬儀には多くの人が来ていたようでその中には桂内閣を打倒した民衆もいたという話も残っていたことから徹底的に嫌われていた山縣とは違う人望ある人であったと桂をまとめることができます。


 さて、今回はこの辺で。次回は第1次山本内閣です。



 ◇参考

 ウィキペディア『桂太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E

 ウィキペディア『木越安綱』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E8%B6%8A%E5%AE%89%E7%B6%B1

 ウィキペディア『松室致』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%AE%A4%E8%87%B4

 ウィキペディア『柴田家門』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%AE%B6%E9%96%80

 『萩市公式ホームページ・柴田家門』http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/jinbutu/hito/shibata_kamon/index.htm

 ウィキペディア『仲小路廉』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%BB%89

 コトバンク『仲小路廉』https://kotobank.jp/word/%E4%BB%B2%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%BB%89-1096628

 ウィキペディア『元老』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81

 ウィキペディア『大正政変』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89

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