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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
明治時代
16/58

第14代 第二次西園寺公望内閣

 ついに明治時代が終わります!

 第14代 第二次西園寺公望内閣

 在任1911年8月30日~1912年12月21日(480日)


国務大臣

 

内閣総理大臣 ⑭ 西園寺公望(元内閣総理大臣)侯爵

外務大臣   23 内田康哉  子爵

内務大臣   24 原敬

大蔵大臣   ⑰ 山本達雄

陸軍大臣   ⑱ 石本新六  男爵・陸軍大将

       ⑲ 上原勇作  男爵・陸軍大将

海軍大臣   ⑯ 斎藤実(前海軍大臣)再任   男爵・海軍大将

司法大臣   ⑳ 松田正久

文部大臣   23 長谷場純孝

農商務大臣  26 牧野伸顕  男爵

逓信大臣  23 林董  伯爵 

内閣書記官長 ⑯ 南弘


 ◇参考

 ウィキペディア『第2次西園寺内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%86%85%E9%96%A3

 歴代内閣に関するデータベース『第二次西園寺内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/14-Saionzi-vol2.htm

 首相官邸HP『第2次西園寺内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/14.html

 『第2次西園寺内閣 - 明治時代の内閣閣僚データベース』http://meiji.sakanouenokumo.jp/naikaku/


 主な出来事

 1911年 8月 ・第2次西園寺内閣発足。

       9月 ・文芸誌「青鞜」創刊(平塚らいてうら)

      10月 

      11月 ・小村寿太郎前外務大臣結核により死去。

      12月 ・第28議会招集

 1912年 1月 ・夏目漱石『彼岸過迄』連載開始

          ・山陰本線、餘部鉄橋完成(兵庫県)。3月より香住 - 浜坂間開業と同時に営業             運転。

          ・万国阿片条約調印

          ・白瀬隊が南極点到達を断念

       2月

       3月 ・山陰本線、香住 - 浜坂間開業により京都 - 出雲今市(現:出雲市)間全通。

          ・美濃部達吉『憲法講話』。これを上杉慎吉が批判して、美濃部と上杉で論争が勃            発。

          ・尾崎行雄東京市長がワシントン市に三千本の桜の樹を贈る

          ・西徳二郎元外務大臣死去。

       4月 ・ 夕張炭鉱で爆発事故(死者276名)

          ・石本新六元陸軍大臣死去。

       5月 ・第11回衆議院議員総選挙

       6月 ・日蓮宗富士派が日蓮正宗と改称

          ・日本鋼管設立

       7月 ・通天閣(初代)完成

          ・第3回日露協約調印(特殊権益地域を内蒙古まで拡大)

          ・隅田川に架かる(旧)新大橋が現在の場所に鉄橋として完成。

          ・宮内省が明治天皇御不例を発表

          ・明治天皇崩御

          ・元号が明治から大正へと改元。

          ・大正天皇即位。即位の礼は1915年に実施。

       8月 ・友愛会結成(鈴木文治ら)

          ・日本で最初のタクシー会社設立

          ・吉澤商會(後の日活)が『オリンピック大競技会第一報』を封切(浅草電気             館)。日本初のオリンピック公開映像。

          ・第29臨時議会召集

       9月 ・日本活動写真会社設立

          ・明治天皇大喪(青山練兵場)

         ・乃木希典が夫人とともに自宅で殉死

          ・早川電気(後のシャープ)設立(早川徳次)

          ・才賀電気商会が破綻。岐阜電鉄、十六銀行などが影響を受ける。

          ・暴風雨により、愛知県内で134名の死者を出すなど、日本各地に甚大な人的・            物的被害が出る。

      10月 ・警視庁により、ジゴマの日本での上映が禁止された。

      11月 ・第二次西園寺公望内閣、2個師団増設案を閣議で否決

      12月 ・警視庁が日本で初めて警察犬を採用。[1]

          ・上原勇作陸相が増師問題で帷幄上奏権を使い辞職

          ・第2次西園寺内閣総辞職


 ◇参考

 ウィキペディア『1911年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1911%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1912年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1912%E5%B9%B4

 『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1911年(明治44年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1911.html

 『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1912年(明治45年)』


 概要

 ついに明治時代がこの内閣で終わります。1912年7月30日に明治天皇が崩御され、同日より大正元年になります。それに伴って元号をまたぐ初めての内閣となりました。一応、成立の方は明治時代であるのでこの内閣までを明治時代として説明することにします。

 さて、ここで明治時代というものが何であったかをまとめておきたいと思います。明治というのは、日本の近代化というのが一番注目されます。確かにというよりもその表現はもっとも正しいものではないでしょうか。ただ、あえて私なりの考えを言うとすれば明治というのは条約改正の時代と言いたいです。幕末に江戸幕府は日米修好通商条約という名の不平等条約を結ばれました。さらに、安政の五か国条約として5つの国とも不平等の内容の条約を結ばされました。明治時代はこの不平等条約を改正するというのが大きな目標でした。

 これが私が主張する明治時代です 

 この内閣の成立経緯について語りましょう。 第二次西園寺内閣成立の理由は、まさに「衆目一致するところ」と情意投合のためであった。すでに維新の元老たちは政権を担当するの意志なく、人々はこぞって桂太郎と西園寺公望の二人をただ二人の首班候補としてみていた。一時、台湾総督寺内正毅や海軍の大御所・山本権兵衛の名前がでても、実現の可能性はありませんでした。これらは両者の基盤が桂と西園寺以上の者でなかったのもかなりでかいです。

 そして情意投合である。桂はその第二次内閣の時に政友会の支援を欲して、次期首班に政友会を推し、自分も再び政権を握ることはしない、という盟約を政友会の実力者・原敬と結んだ。これが情意投合である。かくして桂は約束通り総辞職し、その後継として政友会総裁・西園寺公望を再び奏薦しました。

 さて、そろそろ恒例の閣僚について見ていくとしましょう。

 

 西園寺公望内閣総理大臣。

 今まで説明を逃れていたので今回はやります。

 西園寺は、清華家せいがけという公家の格式の中でも摂政を輩出できる最上位の摂家に続いた格式の家で藤原氏の末裔徳大寺家の二男として産まれます。2歳になると同じ清華家の西園寺家へと養子に出されます。幕末は若かったため討幕運動には加わることはなかった。その後、明治維新に際して参与として政府入りする。

 1868年に新潟府知事に就任。その後、フランス語を勉強しヨーロッパへと留学する。フランス留学が終えると公職に就くことがなかったため親友の松田正久(西園寺内閣において大蔵大臣に就任する人物)に誘われて東洋自由新聞の社長になる。この新聞においてフランス流の政治形態よりもイギリス流の立憲君主制がよいと主張したため政府から反感を食らい、明治天皇自らが勅命を出して社長を辞めろと言ってきたためやむなく社長を辞任する。

 社長辞任後、参事院議官補に任じられ政界入りする。伊藤と一緒に憲法政策のために留学するなど伊藤の腹心として活動することとなる。

 1894年に第2次伊藤内閣で文部大臣として初入閣、外務大臣を兼務。第3次伊藤内閣でも文部大臣にするが虫垂炎の後遺症を発病したことで辞任する。

 1900年の立憲政友会の立ち上げに参加。最高幹部である総務委員の一人となる。

 第4次伊藤内閣では無初任大臣、枢密院議長、および伊藤が不在の時の総理大臣代理を務める。1903年に伊藤の後継として第2代立憲政友会総裁に就任。

 1906年から第12代内閣総理大臣。立憲政友会が母体でありながら政友会からは2名しか入閣させなかった。総理在任中に雨声会という文士を集めた会を開いている。1908年には元老と対立し内閣総辞職する。総理辞任後、西園寺は立憲政友会の総裁業務をあまりしなくなり、原敬が実質的に政友会の最高実力者となる。なお、原は1913年に第3代立憲政友会総裁に就任。1911年に第2次桂内閣が総辞職したことで後任の総理に就任(第2次西園寺内閣)。しかし、財政上の問題から二個師団増設に反対したことで陸軍と対立し総辞職する。

 この後、1913年に元老に正式になる。これ以降元老は増やされることのなかった。松方正義が1924年に亡くなると最後の元老となる。元老として政党政治を陰ながら支え、大正時代における憲政の常道が成り立ったのは西園寺がいたからである。

 総理辞任後、第1次世界大戦の講和条約を採決するパリ講和会議に日本側の首席全権として参加するも特に活動はなかった。

 晩年は軍国主義に対抗するも、すでに権力はなく1940年に死去する。なお、近衛文麿に対してはかなりの反感を持っていた。


 内田康哉外務大臣。この人は初入閣ですね。しかし、この人意外とすごいんですよ。なんて言ったって明治時代、大正時代、そして昭和時代の戦前の時代すべてにおいて外務大臣を経験しています。この人だけのオンリーワン。まあ、明治と大正はこの内閣で制覇何ですけど……。詳しい説明は昭和に回します。めんどうくさいわけでは決してな──


 さて、次。

 原敬内務大臣。原内閣の時に説明します。決して面倒くさいわけではRy


 山本達雄大蔵大臣。この人もいろんな内閣で入閣しているあと回しにしよう。だから、決して面倒くさいRy


 石本新六陸軍大臣。

 姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男として生まれました。1869年、開成所姫路藩貢進生として上京し、大学南校で学ぶ。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校に入学。西南戦争に従軍し、1877年に、工兵少尉に任官。その後、陸士(旧1期)を卒業した。

フランスに留学し、フォンテンブロー砲工校を卒業し、卒業の翌年に帰国。欧州差遣イタリア、参謀本部第3局第2課員、参謀本部第2局員、陸軍省軍務局工兵事務課長、工兵課長、築城本部長、兼陸軍砲工学校長を経て、陸軍少将に進級した。陸軍総務長官を経て、日露戦争時は陸軍次官(法務局長兼任)として寺内正毅陸軍大臣を支えました。第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任し、陸軍師団増設問題が懸案となり、2個師団増設要求をするが閣議で拒否され、在任中に死去しました。1907年には、男爵の爵位を授爵し華族となった。


 上原勇作陸軍大臣。そう、こいつが犯人です。

 上のは気にしないでください言ってみたかっただけです。そろそろこの歴代内閣考察も慣れてきたのでふざけていいころかなと思いまして……ねえ?

 さて、真面目モードになるとして上原が犯人なのは後半の内容で分かります。

 上原は少しマイナーかもしれませんが、実は、陸軍大臣、教育総監、参謀総長、元帥の「陸軍三長官」を歴任したのは帝国陸軍史上、上原と杉山元の2名のみであります。陸軍官僚としてはとても有能な方なのです。司教するのが1933年。まだまだ先の話ですね。内閣入閣までは日露戦争に参謀として参加するなど軍人色の強い人です。なので、このあたりでこの人を切り上げましょう。

 


 斎藤実海軍大臣。斎藤内閣においてします。


 松田正久司法大臣。第4次伊藤内閣ですでに説明をなしているので今回もしません。第1次西園寺内閣においては大蔵大臣でしたね。


 長谷場純孝はせがわ すみたか文部大臣。初入閣。そして、この内閣だけ。

 薩摩出身。父は鹿児島藩の郷士。1872年、警視庁の羅卒(巡査)となり、少警部に進む。1877年、故郷へ戻って私学校に入り、西南戦争には西郷隆盛方として参加し、捕虜となる。のちに、特赦により出獄。出獄後より国会開設運動に携わり、鹿児島県会議員、鹿児島の4郡の郡長となる。1890年の第1回衆議院議員総選挙で鹿児島県から当選し、以降11回連続当選。のち立憲政友会設立に関わる。1908年から1911年にかけて1度目の衆議院議長(第14代衆議院議長)を務めます。第2次西園寺内閣で文部大臣を務めるが、翌年病にかかり辞任し、1914年には2度目の衆議院議長(第17代衆議院議長)に就任し、シーメンス事件での混乱の中、議会の運営に当たるが、就任わずか9日で動脈瘤破裂のために急死してしまいます。


 牧野伸顕農商務大臣。説明を後回しにします。


 林董逓信大臣。第1次西園寺内閣において説明したのであえて説明はしません。


 南弘内閣書記官長。第1次内閣でも内閣書記官長に就任しています。

 富山県の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。岩間家は3代にわたり県会議員を輩出した名望家で、広大な屋敷地や山林を所有していました。その後、富山の旧家出身で第2代富山県議会議長を務めた南兵吉の養子となり、その長女・操と結婚した際、「弘」と改名した。

 官僚としては、内閣書記官を皮切りに主として内務省畑の諸職を歴任した第1次西園寺内閣で内閣書記官長を務めたのち、1912年には貴族院議員に勅撰され、その後、翌年には福岡県知事、文部次官に、1932年には第15代台湾総督に任ぜられました。総督就任2ヶ月後の5月、五・一五事件の直後成立した斎藤実内閣の逓信大臣に任じられ、富山県出身者としては初の大臣となりました。

 逓信大臣退任後、国語審議会会長、枢密顧問官を歴任。国語審議会会長としては、それまでの国語が文語体やいわゆる旧仮名づかいを中心とし、漢字が多用されていたことなど学習が困難であるという認識から、その簡素化に尽力したみたいです。また枢密顧問官としては、大日本帝国憲法下における天皇の最高諮問機関である枢密院の議事において、当時勢力を伸ばし始めていたいわゆる軍国主義に対して批判的な発言をしたため、軍部にけむたがれたといわれている。終戦後もその任を務めていましたが、会議中に炭火による一酸化炭素中毒で亡くなりました。

 学問をよくし、特に漢詩の素養は高く、青園と号して「青園詩草」という漢詩集を残した。1937年い、内務省から保健・衛生部門等を独立させた新たな省を設立することとなり、その省名を検討していた際、中国の古典「書経」の「正徳利用厚生惟和」の一節から引用した「厚生省」の名を推薦して採用されており、「厚生省の名付け親」とも呼ばれている(同省は翌年発足)。現在は厚生労働省として厚生の文字は残っています。


 最後に、この内閣の総辞職の原因について語りましょう。これが実は次の内閣への伏線となります。第2次西園寺内閣の時代、日本は日露戦争の際に作った借金がとても重くのしかかっていました。こうした中で財政的にはかなりきつきつ状況であり大変苦しい時代でした。そんな中、陸軍が二個師団増設を内閣に要請します。しかしながら、先ほど説明したとおり財政的に厳しい状況であるので増やす予算などどこにもありません。西園寺はこの提案を拒否します。

 上原勇作陸軍大臣はこれを見るや、帷幄上奏いあくじょうそうを利用して辞任します。帷幄上奏とは、軍部の人間が天皇に直接軍事的なことに関して事項を上奏するものです。ドイツ帝国を参考に作られたようです。しかし、大日本帝国の場合は陸軍大臣と海軍大臣にまでもこの権利を認めていました。そのため、陸軍大臣、海軍大臣は天皇に総理大臣を通さず直接意見を言えるようになっていたのです。さらに、軍部大臣現役武官制というものがありました。これは、軍部大臣は現役の大将ならびに中将しかなれないというものです。このため、軍部が大臣を出さないと内閣は倒閣します。それに初めての例です。上原の後任の陸軍大臣を陸軍が出さなかったため第2次西園寺内閣は幕を閉じることとなりました。


 今回はここまで。次回は第3次桂内閣ですが、その前に明治時代を少し振り返ってみたいと思います。

 


 ◇参考

 歴代内閣に関するデータベース『第二次西園寺内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/14-Saionzi-vol2.htm

 ウィキペディア『雨声会』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E5%A3%B0%E4%BC%9A

 ウィキペディア『西園寺公望』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B

 ウィキペディア『上原勇作』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8E%9F%E5%8B%87%E4%BD%9C

 ウィキペディア『石本新六』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%9C%AC%E6%96%B0%E5%85%AD

 ウィキペディア『長谷場純孝』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%B4%E7%B4%94%E5%AD%9D

 ウィキペディア『南弘』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%BC%98

 ウィキペディア『帷幄上奏』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B7%E5%B9%84%E4%B8%8A%E5%A5%8F


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