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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
明治時代
15/58

第13代 第二次桂太郎内閣

第13代 第二次桂太郎内閣

 在任期間 1908年7月14日~1911年8月30日(1143日)


 国務大臣

内閣総理大臣 ⑬ 桂太郎 陸軍大将

外務大臣   21 寺内正毅(臨時兼任)陸軍大将

       22 小村寿太郎

内務大臣   23 平田東助

大蔵大臣   ⑯ 桂太郎(兼任)

陸軍大臣   ⑰ 寺内正毅

海軍大臣   ⑮ 斎藤実 海軍中将

司法大臣   ⑲ 岡部長職

文部大臣   22 小松原英太郎

農商務大臣  25 大浦兼武

逓信大臣   22 後藤新平

内閣書記官長 ⑮ 柴田家門


 ◇参考

 首相官邸『第2次桂内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/13.html

 ウィキペディア『第2次桂内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E6%A1%82%E5%86%85%E9%96%A3

 歴代政府・内閣に関するデータベース『第二次桂内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/13-Katsura-vol2.htm


 主な出来事

 1908年 7月 ・第2次桂内閣成立

          ・ 池田菊苗の「グルタミン酸を主要成分とせる調味料製造法」(味の素)が特許登           録

       8月 ・東洋拓殖会社法公布

       9月 ・新潟市の大火

      10月 ・日本統治下の台湾で縦貫線基隆・高雄間が全線開通

          ・榎本武揚元逓信大臣死去(10月26日)

      11月 ・ 第1回日米野球

          ・高平・ルート協定締結(日米両国の太平洋での現状維持や清の領土保全・機会均           等)

          ・波多野精一「基督教の起源」

          ・弘前十三師団を高田に移す

          ・東京日比谷図書館開館式

          ・神道天理教の独立を許可する

      12月 ・第25議会招集

 1909年 1月 ・アメリカに排日問題再び起こる

          ・李王世子殿下、学習院中学部に入学

          ・電車賃値上反対東京市民大会

          ・日露間に満鉄連絡条約成立

       2月 ・小村寿太郎外相の外交方針演説、満韓移民集中論として衆議院で問題となる

       3月 ・森永チョコレート発売

          ・「平民評論」発行

          ・日本製糖汚職事件(日糖事件)が発覚し、代議士多数拘引される

          ・大阪毎日新聞社主催の神戸―大阪間マラソン競争

       4月 ・東京に発明博覧会開催

          ・樺太の大泊港開港される

          ・日糖疑獄事件により、衆議院議員多数検挙される

          ・貴族院令改正公布

          ・新生児の種痘義務化の種痘法公布

       5月 ・新聞紙法公布施行(新聞紙条例失効)

          ・味の素発売(鈴木製薬所)

          ・「自由思想」創刊

       6月 ・両国国技館落成

          ・リボンシトロン発売(大日本麦酒)

          ・京成電気軌道設立

          ・渋沢栄一、70歳に達し、財界引退を声明.第一銀行・東京貯蓄銀行を除く61の            会社役員を辞任。

          ・仕立屋銀次検挙

       7月 ・ 代々木練兵場設置(青山練兵場が移転)

          ・韓国併合の方針を閣議決定

          ・大阪市北区で大火(キタの大火)

          ・樞府議長伊藤博文、韓国へ赴く

          ・日韓新協約成立、韓国の司法及び警察事務を日本に委託せらる

          ・高崎第15連隊、野外演習中に日射病患者70余名を出す(内6名が死亡)

          ・ウエストン(日本アルプス名付親)来日

          ・臨時軍用気球研究会創設(最初の航空施設)

       8月 ・姉川地震(江濃地震)

          ・軍用気球会長に陸軍中将長岡外史、任命される

       9月 ・満州及び間島に関する日清協約調印

      10月 ・モホロビチッチ不連続面が発見される

          ・三井合名会社設立

          ・夏目漱石、朝日新聞に『満韓ところどころ』を連載

          ・伊藤博文が哈爾浜駅で安重根に暗殺される(伊藤博文暗殺事件)

          ・韓国銀行(後の朝鮮銀行)設立

      11月 ・伊藤博文国葬(日比谷公園)

          ・自由劇場(小山内薫ら)第1回公演(有楽座)

          ・東京本所に無料宿泊所解説

          ・山県有朋、枢密院議長に任命

          ・門司・鹿児島間、九州鉄道全通

          ・旅順表忠塔の除幕式挙行

      12月 ・大韓帝国の政治結社一進会が韓日合邦を要求する声明書を発する。

          ・第26議会招集

          ・チリ公使館開庁

          ・上野でグライダーの初滑走

          ・東京山の手鉄道、電化開通する

          ・米国、満州鉄道中立化案提議

          ・賀川豊彦、貧民窟で活動開始

          ・北里柴三郎博士、医学士の功に依り、ノルウェー皇帝より勲章を授与される

 1910年 1月 ・種痘法施行

          ・日露両国は米国提案の南満州鉄道中立化案を拒否

          ・逗子開成中学の生徒ら12名が乗ったボートが遭難し全員死亡(真白き富士の            根)

       2月 ・伊藤博文暗殺犯(安重根)に死刑判決(処刑3月26日)

          ・学生相撲大会の始(早大慶大の相撲選手が羽田グランドにて星取勝負)

          ・日清間に郵便条約成立する

          ・最初の飛行場を所沢に選定

       3月 ・中央倶楽部結成

          ・箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)が梅田〜宝塚間・石橋〜箕面間で開業

          ・立憲国民党結成(憲政本党・又新会・無名会などが合同)

          ・銚子沖で暴風雨のため漁船133隻が遭難し、2000人余が溺死

       4月 ・新潟医学専門学校開校される

          ・文芸誌「白樺」創刊(武者小路実篤・志賀直哉ら)

          ・京阪本線の大阪天満橋〜京都五条間が開業

          ・帝国海軍第六号潜水艇が山口県新湊沖にて潜航演習中に沈没(佐久間勉以下14           名全員死亡)

          ・静岡瓦斯設立

          ・海軍大臣斎藤実、参内して陛下に拝謁(第六号潜水艇引揚の顛末及び乗組員の殉           職に就いて奏上)

       5月 ・文芸誌「三田文学」創刊(永井荷風)

          ・青森市で大火(全市焼失)

          ・日英博覧会開催(10月まで)

          ・地球がハレー彗星の尾の中を通過

          ・大逆事件: 宮下太吉・新村忠雄ら検挙

          ・寺内正毅陸相が韓国統監を兼任

          ・東京競馬倶楽部設立

          ・東京の広瀬中佐銅像除幕式

       6月 ・大逆事件: 幸徳秋水・管野スガら検挙

          ・宇高連絡船開業

          ・柳田國男「遠野物語」

          ・有楽町駅開業

       7月 ・第二次日露協約調印

          ・尋常小学読本唱歌発行

          ・樺太神社創立、官幣大社列格

       8月 ・福井城址にあった農業試験場にて1905年に全滅したとされているニホンオオ           カミが撲殺されたという記録がある。(詳しくはニホンオオカミを参照)

          ・韓国併合: 日韓併合条約調印

          ・韓国併合: 朝鮮総督府設置(韓国統監府改組)

       9月 ・千里眼公開実験(福来友吉・御船千鶴子ら)

          ・呉服橋駅(東京駅の仮駅)開業

          ・曾禰荒助元司法大臣死去。

          ・新潟県高田に市制実施

      10月 ・裁判所が開設

          ・朝鮮貴族に爵位を授けられる

          ・朝鮮総督府寺内正毅、臨時恩賜金を各道に配与する

          ・京城に日鮮人大懇親会開催

      11月 ・帝国在郷軍人会発足(会長寺内正毅)

          ・江ノ島電鉄線藤沢駅・鎌倉(小町)駅間全線開通

          ・不二家開業

          ・日比谷にて南極探検隊送別会

          ・白瀬矗らが南極探険に出発

          ・東京九段偕行社に帝国在郷軍人会発会式

          ・鉄道回遊券初めて発行

      12月 ・大逆事件: 大審院第1回公判(非公開)

          ・鈴木梅太郎が世界初のビタミンであるアベリ酸の発見を発表

          ・徳川好敏大尉(アンリ・ファルマン複葉機)日野熊蔵大尉(グラーデ単葉機)日           本初の動力飛行

          ・第27議会召集

          ・富士山に最初のスキー(横浜在住のオランダ人クラッセルによる)

          ・堺利彦「売文社」開業

 1911年 1月 ・テオドール・エードラー・フォン・レルヒが、新潟県高田(現在の上越市高田)           陸軍歩兵連隊の青年将校に、日本で初めてスキーの指導を行なったとされる。

          ・大逆事件の裁判で幸徳秋水ら被告全24人に、大審院が死刑判決を下す(その            後、12人が無期懲役に減刑)。

          ・読売新聞が社説で国定教科書における南北朝並立の記述を批判、いずれの皇統が           正当かをめぐり帝国議会での論争に発展。(南北朝正閏問題)

          ・大逆事件で幸徳秋水ら11人の死刑執行(後日、女性の管野スガも死刑執行)。

          ・西田幾多郎『善の研究』

          ・フリードリヒ・ニーチェ「ツアラツウストラ」 (「ツァラトゥストラはかく語り           き」) 日本語訳。

          ・桂太郎と西園寺公望の会談により、政府・政友会の提携成立。

       2月 ・ 日米通商航海条約が調印され、日本の関税自主権が回復される。小村寿太郎外相           により。

          ・夏目漱石、博士号を辞退する。

          ・徳富蘆花の「謀叛論」問題となる

          ・帝国劇場、東京丸の内に竣工

          ・貧民済生に関する勅語

       3月 ・帝国劇場開場(日本初の洋式劇場)。

          ・日本で普通選挙法が衆議院で可決される。

          ・東京中央停車場起工

          ・帝国劇場の初日

          ・南北正閏論問題おこる

          ・小松原英太郎文部大臣、国史の改訂を訓令する(南北正閏論問題の処理)

          ・朝鮮銀行法・工場法公布

       4月 ・第1回帝国菓子飴大品評会(後の全国菓子大博覧会)開催(東京赤坂)

          ・大分県大分町に市制実施される

          ・東京の日本橋竣工開通式

          ・朝鮮において最初の愛林デー

          ・最初の飛行場所沢の開場式(徳川、日野両大尉によって挙行)

          ・市制・町村制改正公布

          ・吉原炎上

          ・朝鮮総督府、土地収用令を制定

          ・日本最初の航空写真

       5月 ・堀田正養元逓信大臣死去。

          ・谷干城元農商務大臣死去。

          ・山形市の大火(約1000戸焼失)

          ・大阪府、日本初の消防自動車購入

          ・スウェーデンと通商航海条約調印

          ・恩賜財団済生会、東京に創立

       6月 ・喜界島地震発生、12名が犠牲となる

          ・有朋堂文庫刊行はじまる

          ・皇后、日比谷公園における日本赤十字社総会に臨み給う

          ・青森県下に稀有の降雹ひょうあり(約90センチ積む)

          ・国史教科書調査委員会により、南朝を吉野朝と改めるべきことに決議

          ・イギリス皇帝ジョージ五世の戴冠式に東伏見宮同妃両殿下御参列

       7月 ・第3次日英同盟協約締結

          ・帝国学士院において理学博士木村栄に恩賜賞を授ける(緯度観測上の功績、最初           の恩賜賞)

          ・電車市有反対市民大会

          ・東京市会電車事業市有を決議

          ・日本体育協会創立

          ・第1回模型飛行機大会

          ・朝鮮銀行法公布

          ・関東地方に台風襲来

       8月  ・稗田山崩れが発生。長野県小谷村の稗田山が大崩壊。日本における20世紀最大級            の土砂災害となる。

          ・東京朝日新聞が「野球と其害毒」連載を開始、9月22日まで22回に渡って野球に対           するネガティブ・キャンペーンを展開する。

          ・第2次桂内閣総辞職



 ◇参考

 ウィキペディア『1908年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1908%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1909年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1909%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1910年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1910%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1911年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1911%E5%B9%B4

 『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1908年(明治41年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1908.html

 『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1909年(明治42年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1909.html

 『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1910年(明治43年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1910.html

 『「坂の上の雲」マニアックス明治時代年表1911年(明治44年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1911.html


 概要

 さて、今回の内閣は第2次桂太郎内閣です。桂太郎による二度目の内閣の組閣ですね。在任期間は約3年とこれまた長命の内閣になりました。この内閣の間に起こった出来事としてはやはり朝鮮の植民地化を進めるためにちょくちょく朝鮮に対して介入をしていることが目立っています。

 では、そんな第2次桂内閣について見ていこうと思います。

 まずは、恒例の閣僚から。


 桂太郎内閣総理大臣兼大蔵大臣。省略。


 寺内正毅外務大臣兼陸軍大臣。省略。のちに総理大臣になります。


 小村寿太郎外務大臣。さて、小村は2度目の入閣です。1回目は第1次桂内閣でした。第1次桂内閣は小村自身が結んだポーツマス条約に反対する民衆による反乱となった日比谷焼打ち事件で総辞職をします。小村自身もこの条約を結んだ人間としていつ右翼の人間に殺されてもおかしくない状況でした。桂は小村の能力をとても買っていたので、小村を殺したくはありませんでした。そこで、内閣総辞職と同時に小村を駐英大使としてイギリスへと送ります。それから、2年が経ち再び桂は内閣を組閣することになりました。桂は小村に再び外務大臣の就任をお願いします。小村はこれを受け入れます。実は、小村はこの時すでにある病気にかかっていました。この病気が原因で小村はのちに死ぬこととなります。その病気というのが、結核です。小村は結核でもう残りが少ないことを知ったうえで外務大臣に就任しました。そして、見事この内閣において幕末以降日本が目標としていた不平等条約の内容である関税自主権を完全に回復し、一流国を入りをするのです。

 第2次桂内閣の総辞職してから3か月後に結核によって亡くなりました。なお、明治時代を代表する2人の外務大臣小村ともう1人陸奥宗光も結核によって亡くなるという何とも不思議な関係性があります。

 蛇足的な情報になりますが、小村と言えば結構な貧乏でも知られています。逸話としては友人から高めの腕時計が送られようとしたときにこう言って断ったようです。もらってもどこで見ているかわからないが借金取りにすぐ獲られてしまう。そんな逸話があるほど生活に窮し、借金に追われる日々だったみたいです。明治の偉大な外務大臣の意外な姿ですね。


 平田東助内務大臣。第1次桂内閣農商務大臣です。その時、今回に説明をすると言ったので、平田について見ていこうと思います。

 平田は1849年に米沢藩の藩医の子として産まれます。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の一員として戦うも敗北します。その後は、慶応義塾に入り岩倉使節団に参加しています。

 帰国後は、内務省、大蔵などの官僚として活躍。主に法律関係で名を上げました。帝国議会設立後は、貴族院議員になった。枢密院書記官長もこの時兼ねる。また、山縣系の派閥に入る。

 山縣系ということもあり山縣の部下でもある桂が総理になると大臣になります。

 なお、これ以降の内閣での話となりますが、平田は元老に次ぐ存在と呼ばれるまで政治的な力を持つようになります。また、桂園時代において総理大臣候補としての名前があがったりしています。


 斎藤実海軍大臣。省略。のちに総理大臣になります。


 岡部長職おかべ ながもと司法大臣。初入閣です。公職としては第15代東京府知事(1897-1898)を経験しています。外務官僚出身です。また、貴族院議員の中心として政治的にも活動していた人物です。


 小松原英太郎文部大臣(一時農商務大臣代理)。新聞記者出身ということで文部行政に文部大臣として取り組むこととなりました。図書館設立ニ関スル訓令、高等中学校令、図書館管理法などは小松原の業績です。


 大浦兼武農商務大臣。第1次桂内閣逓信大臣です。第1次桂内閣の時に第2次大隈内閣で説明するとのことを私が言いましたのでその時に説明を投げます。


 後藤新平逓信大臣。結構有名どころの人です。この後、第3次桂内閣でも逓信大臣、寺内内閣で外務大臣、寺内内閣、第2次山本内閣で内務大臣を歴任します。このどこかの内閣で詳しい説明でもするとしましょう。


 柴田家門内閣書記官長。第1次桂内閣でも言いましたが、この人の情報はあまりありません。とりあえず、説明なしの方向で行きます。


 さて、主な出来事の中からも何個か紹介していこうと思います。中には私自身も今回調べるまで知らなかったというものもあり、この歴代内閣考察をやっていて大きな収穫にもなり私自身の勉強にも本当になっています。この作品を書くことはどうやらインプットしたものをアウトプットしているといういいものになっているんですね。みなさんもどうでしょうか?

 さて、それはいいとして主な出来事から今回紹介していきたいと思うのは、やはり韓国併合となります。

 韓国併合が行われたのは1910年8月29日のことです。これから1945年の日本の敗戦まで挑戦は日本領として植民地となります。現在の日韓関係の悪化の原因ともいうべき出来事です。私自身韓国併合はやらなくてよかったことじゃないかと思っています。この出来事がいろいろとややこしくしているので。

 まあ、私の政治的な立ち位置などこの際どうでもいいことです。右の人には右の考えが、左の人には左の考えが、真ん中の人には真ん中の考えがあります。人に意見を押し付けることはあまりしたくないので、なるべく左右に立って意見で述べていこうと思います。

 韓国併合は1910年になっていきなり出てきたものではありません。日本が時間をかけて徐々に徐々に挑戦を狙っていました。まず、最初に1875年の江華島事件から始まります。江華島事件は当時の朝鮮の政権である李氏朝鮮が鎖国政策をしていたため日本は日本がアメリカからペリーによって開国されたように開国しようとかっ策して行った政策です。

 朝鮮の江華島沖で日本の軍艦雲揚号が砲撃された事件というのが簡単にこの事件の内容です。子事件の結果日本は翌1876年に挑戦に対してかつて日本自身が味わったのと同じように日平等条約である日朝修好条規を結びます。

 その後、朝鮮では日本かそれとも清につくかで国内がもめます。そうした中で、日本などが案役とした政変が何個か起きます。1882年壬午軍乱、1884年甲申事変です。この2つを通して日本よりもロシアに近づいた方がいいのではないかと考えた人がいました。それが大院君であり閔妃びんひです。

 大院君は、李氏朝鮮最後の国王である第26代国王高宗(在位1863-1897)にして大韓帝国初代皇帝(在位1897-1907)の父である朝鮮において影響力のある王族かつ政治家でした。

 閔妃は、女性王族です。高宗の妻であります。権力争いをしていたため李氏朝鮮の滅亡を早めたという説も存在しています。最初は、清次に日本と最後にロシアと次々と頼りにする外国を変えていった人物です。まったく、とんだビッ〇じゃないですか。ダメですね。悪口は。まあ、確かに当時の朝鮮の状況からしてどこかに頼りたくなるのはわかります。しかし、外国に弱みを見せてしまい挑戦を滅ぼしてしまったという側面もあります。

 ちなみに閔妃は最後は何と……日本によって暗殺されます。斬られたあとに燃やされます。何という最後でしょう。これを1895年に起こった乙未事変いつびじへんまたは、閔妃虐殺事件と言います。後者はそのまんまです。

 さて、話を戻して1894年には甲午農民戦争(東学党の乱)がおきます。この甲午の民戦争がきっかけで日清戦争に発展します。

 1904年に日露戦争で日本は朝鮮に関する権益を手に入れます。日韓議定書で日本は軍事上必要な土地を収用できるとします。第1次日韓協約で朝鮮の財政・外交顧問は外国人を登用として実質朝鮮政府の力をなくしてしまいます。1905年に入り、日本とアメリカとの間で朝鮮権益を認めさせる桂・タフト協定が結ばれ、第2次日英同盟協約、ポーツマス条約など列強各国と朝鮮権益を認めさせることにこの時期成功しています。第2次日韓協約(韓国保護条約)で、韓国の外交権をついに奪い韓国統監府を設立します。

 1906年に統監府の初代統監に伊藤博文が就任します。

 1907年にハーグ密使事件が起きます。この事件は大韓帝国が当時オランダのハーグで行われていた第2回万国平和会議に密使を送ったという事件です。送った目的は外交権の回復を列強に訴えることでした。しかし、各国政府は日本との条約があるため大韓帝国の要請を無視します。日本側はこの会議の特命全権大使であった都筑馨六つづき けいろくが対応に当たりました。この事件を受け高宗は皇帝の座を譲位し、純宗が第2代大韓帝国皇帝(在位1907-1910)に就任します。この後、第3次日韓協約が結ばれついに朝鮮は内政権まで奪われます。この時韓国軍の解散に反対した一部の兵士が反乱を起こしています。義兵運動と呼ばれました。

 そして、1909年の閣議で朝鮮併合が決まり、よく1910年に朝鮮は併合されるのでした。日本は30年以上にわたって朝鮮を狙っていたことが読み取れます。


 さて、今回はこのあたりで。次回は明治時代最後の内閣にあたる第2次西園寺公望内閣について考察していきたいと思います。

 本当は条約改正についてやろうと思っていましたが、韓国併合だけで自分がおなかいっぱいでした。


 ◇参考

 ウィキペディア『小村寿太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E5%A3%BD%E5%A4%AA%E9%83%8E

 『小村寿太郎|歴史人物いちらん|社会の部屋|学習教材の部屋 - Biglobe』http://www7a.biglobe.ne.jp/~gakusyuu/rekisizinbutu/komurazyutarou.htm

 ウィキペディア『平田東助』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9

 ウィキペディア『岡部長職』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E8%81%B7

 ウィキペディア『小松原英太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%8E%9F%E8%8B%B1%E5%A4%AA%E9%83%8E

 『大阪日日新聞 なにわ人物伝 -光彩を放つ- 大浦兼武』http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/naniwa080315.html

 ウィキペディア『柴田家門』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%AE%B6%E9%96%80

 ウィキペディア『韓国併合』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88

 『最新日本史図録』第一学習社

 ウィキペディア『江華島事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ウィキペディア『閔妃』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%94%E5%A6%83

 ウィキペディア『大院君』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%A3%E5%A4%A7%E9%99%A2%E5%90%9B

 ウィキペディア『乙未事変』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%9C%AA%E4%BA%8B%E5%A4%89

 ウィキペディア『ハーグ密使事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E5%AF%86%E4%BD%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ウィキペディア『都筑馨六』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E7%AD%91%E9%A6%A8%E5%85%AD


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