第12代 第一次西園寺公望内閣
第12代 第1次西園寺公望内閣
在任期間 1906年1月7日~1908年7月14日(920日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑫ 西園寺公望(元文部大臣)
外務大臣 ⑱ 加藤高明(元外務大臣)
⑲ 西園寺公望 (臨時兼務)
⑳ 林董
内務大臣 22 原敬(元逓信大臣)
大蔵大臣 ⑭ 阪谷芳郎
⑮ 松田正久(元文部大臣)(兼務)
陸軍大臣 ⑯ 寺内正毅(前陸軍大臣)再任
海軍大臣 ⑭ 斎藤実
司法大臣 ⑰ 松田正久
⑱ 千家尊福
文部大臣 ⑳ 西園寺公望(臨時兼務)
21 牧野伸顕
農商務大臣 23 松岡康毅
逓信大臣 ⑲ 山縣伊三郎
⑳ 原敬(兼務)
21 堀田正養
内閣書記官長 ⑬ 石渡敏一
⑭ 南弘
◇参考文献
ウィキペディア『第1次西園寺内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸HP『第1次西園寺内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/12.html
歴代政府内閣に関するデータベース『第一次西園寺内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/12-Saionzi-vol1.htm
主な出来事
1906年 1月 ・第1次西園寺内閣発足。
・日本社会党結成(堺利彦ら)日本初の合法的社会主義政党。非合法では、 1901年に社会民主党がある。
・乃木希典第三軍司令官、東京に凱旋
・札幌・日本・大坂のビール三社が合併を発表
・伊東祐亨、野津道貫大将へ日露戦争の功により元帥号を下賜
2月 ・文芸協会設立(島村抱月ら)
・福島県平町の大火
・日本・ハワイ間修交通商条約公布
3月 ・ 伊藤博文が韓国統監府の初代統監に就任
・第一回陸軍記念日
・白洋舍創業
・帝国図書館開館(上野に移転)
・大日本麦酒会社設立(札幌麦酒・日本麦酒・大阪麦酒が合併)
・鉄道国有法公布(4月施行)
・振替貯金制度実施
・非常特別税法改正
・堺利彦「社会主義研究」創刊
・東京市電値上反対運動激化、電車を焼打ち、軍隊出動
・台湾大地震、死者1110人余
4月 ・東海道本線で最急行を設定(急行料金を初めて徴収)
・廃兵院法公布
・華族女学校を学習院に併合する
・「日露戦役凱旋」記念切手発行
・日露戦役凱旋大観兵式、青山練兵場(現在の明治神宮外苑)で挙行
5月 ・新宿御苑開苑式
・横浜三渓園、市民に開放
・第一回全国小学教員大会
・満州軍参謀福島安正少将、ロシアの満州参謀次長オラノフスキーと会見(満州鉄 道授受開始)
・鉄道総哩数5000哩開通を記念し、盛大な祝賀会を名古屋市で挙行
・元老会議で満州問題協議
・幸徳秋水、「世界革命運動の潮流」を演説
6月 ・ロシアより北緯50度以南の樺太受領
・日米間海底電信布設竣工す
・南満州鉄道会社設立動令公布
・文相牧野伸顕、戦後の学生風紀に関し訓令を発す
・林権助を清国公使に任命
・京都帝国大学に文科大学開設
・エスペラント協会創立
・日米直通海底有線電話開通
7月 ・新潟県直江津の大火
・日本初の専用線電話が日本銀行と横浜正金銀行本店間に設置。
・南満州鉄道株式会社に参謀総長児玉源太郎を委員長とする設立委員会を設置
・児玉源太郎没
・逓信省において女子判任官任用の新例開かれる
8月
9月 ・ゴールデンバット販売開始
・新渡戸稲造が第一高等学校校長に就任
・関東庁開設(初代総督に大島義昌を任命、以後毎年この日を関東庁の始政記念日 とする)
・東京に廃兵院開設(初代院長に川崎虎三中佐を任命)
・三重県宇治山田に市制実施
・「革命評論」創刊
・南満州鉄道会社(満鉄)、株式募集開始
・南米最初の日本商店、サンパウロに開店(野間貞七郎経営の藤崎商会)
10月 ・初めて整形外科の一科を東京帝国大学医学部に開設する
・アメリカのサンフランシスコに、日本児童排訴問題おこる
・夏目漱石、第1回「木曜会」を開く
11月 ・日本鉄道国有化
・南満州鉄道設立
・日本・チリ間通商航海条約調印
・南満州鉄道株式会社設立(初代総裁は後藤新平)
・東京市会にて電車電車市営を可決
12月 ・ 旧函館中華会館が完成(但し翌年大火により消失、現在の建物は1910年に完 成)
・逓信省、年賀郵便の受付を初めて開始。
・徳川光圀以来続けられてきた『大日本史』の編纂完了が明治天皇に報告される。
・日本最初の地下鉄道計画書が東京に立てられる
・阪砲兵工廠の賃上げ運動を憲兵、警官弾圧
・東京赤坂に国語擁護会創立
・教育会議にて義務教育延長可決
1907年 1月 ・東京株式相場が暴落し、戦後恐慌が始まる。
・日刊「平民新聞」創刊
・ホッケー競技最初の記録
・乃木希典、学習院院長に就任
2月 ・足尾銅山で労働争議が起こる。
・日清紡績設立
・奥村組創業
・麒麟麦酒設立
・足尾鉱山で坑夫、職員と衝突。大暴動となる、軍隊出動
・三菱造船所、争議
・陸軍軍服、カーキ色となる
・廃兵院を東京渋谷に開設
・第二回日本社会党大会開かれ、議会政策派と直接行動派が対立
・警視庁、自動車取締規則を制定
・日本社会党、結社を禁止
3月 ・玉川電気鉄道が道玄坂上・三軒茶屋間に玉川線を開業(8月に玉川まで延伸)な お、現在で言うところの世田谷線にあたる。それ以外の区間は廃止。
・東京府勧業博覧会開催(上野公園)
・小学校令改正。義務教育が6年間となる。
・衆議院にて郡制廃止案可決
・夕張炭坑でスト、炭坑争議が頻発
・福田英子ら女子の政治結社・集会参加を治安警察法改正で請願
・第十三師団より第十八師団に至る六個師団を高田、宇都宮、豊橋、京都、岡山、 久留米の各地に増設の事確定する
・勧業博覧会、東京上野に開かれる
・文豪夏目漱石、教壇を去る
4月 ・南満州鉄道開業
・寿屋が赤玉ポートワイン(赤玉スイートワイン)を発売
・刑法公布(10月施行)
・栃木県に安蘇郡立佐野高等女学校(現・栃木県立佐野女子高等学校)開校
・絵葉書の表面に通信文を許す
・東京神田に在郷軍人団創立
・長崎高等商業学校開校(現在の長崎大学)
・樺太海豹島のオットセイ捕獲の禁止
・幌内炭坑暴動
5月 ・茨城県に江戸崎町他三ヶ村組合立農学校(現・茨城県立江戸崎総合高等学校)開 校。
・夏目漱石、入社の辞を「朝日新聞」に発表
・東京・青森間の鉄道開通(直通列車1日1回運転開始)
6月 ・日仏協約調印。清の独立・領土保全が約束され、両国の勢力範囲が確認される。
・第2回万国平和会議開催。大韓帝国がハーグに密使を送る(ハーグ密使事件)。
・東北帝国大学創立
・別子銅山の坑夫、暴動
・皇后、日比谷公園における日本赤十字社総会に臨み給う
・別子銅山、暴動
・ロシアと満州の鉄道接続につき協定
・豊原に樺太庁開庁される
・首相西園寺公望、東京駿河の自邸に文士招待会を催す(雨聲会と名づける)
7月 ・元老大臣会議、韓国問題を議す
・ハーグ平和会議蜜使事件で、対韓処理方針決定
・広島県矢野川氾濫し、被害甚大
・韓国皇帝譲位の詔勅を発し、各地で反日暴動起こる
・豊国炭坑ガス爆発、死者340人余
・第3次日韓協約締結。韓国政府に日本人が採用されることなどが取り決めされ る。
・日露通商条約及漁業協約調印
・第一回日露協約調印
8月 ・韓国軍隊が解散され、反日運動が激化する。
・日本の山梨県で明治40年の大水害が発生
・樺太における最初の電話、大泊に開通
・横綱常陸山一行、東京発渡米
・朝鮮江華島事件(直ぐに鎮圧)
・函館の大火
・立教大学創立
9月 ・ 三越大阪店に百貨店初の美術部「新美術部」が創設される。
・電機学校(東京電機大学の前身)創立
・田山花袋、小説『蒲団』発行(自然派小説これより流行)
・北海道旭川・釧路間の鉄道開通
・東京・北海道間の電話開通す
・樺太の日露境界割定発表される
・札幌農科大学開校式挙行
・神戸築港の起工式
・陸軍、六ヶ師団増設(十三個師団から十九個師団に)
・専売局官制公布
・チリに公使館開設
10月 ・ハーグ陸戦協定(陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約)締結。ダムダム弾の使用が禁止 される。(日本は1911年批准)
・箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)開業。
・小山内薫が「新思潮」を創刊。
・京城高等商業学校が東洋協会専門学校(現拓殖大学)京城分校として創立。
・大阪兵器廠爆発事故(死傷者約100名)
・皇太子嘉仁親王、韓国行啓
・第一回文部省美術展覧会(文展)を上野公園で開催
・ハワイのセントルイス球団、初の外国野球団として来日(初の日米対抗野球試 合)
11月 ・日本統治下の台湾で北埔事件おこる。
・アメリカ合衆国が日本人労働者移民の渡航制限を要請する。
・秋山真之、慶應野球部に「褌論」を贈る
・名古屋において開港式挙行
・最初のコロタイプ印刷、東京の村山旬吉発明(特許とする)
12月 ・第24議会招集
・目黒競馬場開設
・九段に品川弥二郎銅像除幕式
・東京市の電車市有協定成立する
・警視庁令にて最初の自動車取締規則出る(速力が規定される)
1908年 1月 ・日本画の橋本雅邦、74歳で没。日本美術院の創設者
・阪谷蔵相、山県逓相鉄道予算問題で辞任
・政府は増税諸法案を提出
・外務省、ハワイ移民を停止
2月 ・移民に関する日米紳士協約締結(日本は米国への新規移民を禁止することを約 束)
・御木本幸吉、真珠素質被着法の特許を得る
・スケート競技初めて開かれる
・全国商業会議所連合会、増税反対
3月 ・北海道釧路地方で暴風雪(家屋倒壊により釧路町で19人、昆布森村で18人圧 死)
・東京大久保で出歯亀事件が発生
・黒板勝美「国史の研究」
・歩兵第一連隊で兵卒が集団脱営
・時事新報社募集の美人写真第一位に、末弘ヒロ子が選出される(ヘラルドトリ ビューン社企画)
・加藤清正に従三位を追贈
・「東京社会新聞」創刊
・増税法公布
・煤煙事件(森田草平、平塚らいてう心中未遂事件)
4月 ・第1回ブラジル移民を乗せた笠戸丸が神戸港を出港(6月に到着)
・文明協会創立(会長大隈重信)
・水利組合法公布
5月 ・第10回衆議院議員総選挙
・新聞紙条例を廃し、新聞紙法公布
6月 ・日新火災海上保険設立
・赤旗事件(大杉栄、荒畑寒村ら14名を検挙)
・国際無線電信条約公布
7月 ・銚子無線電信局(後の銚子無線電報サービスセンタ)開局
・皇后、東京盲あ学校へ行啓
・慶應義塾大学野球部、ハワイに初遠征
・第1次西園寺内閣総辞職。
◇参考文献
ウィキペディア『1906年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1906%E5%B9%B4
ウィキペディア『1907年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1907%E5%B9%B4
ウィキペディア『1908年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1908%E5%B9%B4
坂の上の雲マニアックス『1906年(明治39年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1906.html
坂の上の雲マニアックス『1907年(明治40年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1907.html
坂の上の雲マニアックス『1908年(明治41年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1908.html
概要
桂園時代2番目の内閣は、第1次西園寺内閣です。第1次西園寺内閣は、薩長閥以外の者が首相となった内閣でもあります。第1次大隈内閣もそうでしたが、今回首相になったのは、西園寺公望です。西園寺といえば公家の1人でもあります。公家から首相になるのは、西園寺、近衛文麿ぐらいです。あと、あえて言えば、皇族から東久邇(宮)成彦がいます。
内閣ももう伊藤から数えて12番目となりますね。
さて、今回も内閣の閣僚から見ていきましょう。
西園寺公望内閣総理大臣。第2次内閣にします。
加藤高明外務大臣。のちに内閣総理大臣になります。この人の時から政党内閣が続くこととなりますが、加藤高明内閣は普通選挙法を制定すると同時にあの悪名高き治安維持法を制定させた内閣にもなります。詳しくは加藤高明内閣の時に。
林董外務大臣。加藤の後任の外務大臣として就任します。
林は、1850年に下総佐倉藩の医者の子として産まれます。その後、英語などを学んだ後に幕府の留学生としてイギリスに留学しますが、それからまもなく幕府は大政奉還で崩壊し帰国。帰国後は、榎本武揚ら旧幕府軍に身を投じ、佐藤東三郎と名乗ります。箱館戦争で敗北した後に囚われますが、釈放され兄松本良順の紹介で陸奥宗光と知り合い、1871年の陸奥の神奈川県知事赴任に伴い横浜へ戻り県庁へ出仕、続いて外務省に転勤して岩倉使節団に加わり、再度の外遊へ赴きます。外遊中に工部卿(当時は工部大輔)の伊藤博文と出会い、工部省に異動。藤の下で働き工部大学校設立に従事、以後工部省に移り工部省権大書記官まで進み宮内省書記官長も兼任します。1885年に内閣制度が創設されると工部省は廃止されたため、新設の逓信省に異動となります。大書記官、駅逓局長、内信局長を歴任後、香川県知事、兵庫県知事になります。
1891年に外務次官に任じられ外務省に戻ります。榎本、陸奥など林と縁がある歴代の外務大臣を補佐し、この第1次西園寺内閣で外務大臣として初入閣します。この後に成立する第2次西園寺内閣では逓信大臣(一時外務大臣兼任)に就任し、第2次西園寺内閣の総辞職と同時に政界引退をします。
また、日本人フリーメイソンの1人としても有名です。
原敬内務大臣。のちに総理大臣になります。原内閣で説明します。
阪谷芳郎大蔵大臣。大蔵省官僚です。入閣したのは、第1次西園寺内閣のみですが、この内閣のあとは貴族院男爵議員として政界に在籍します。
寺内正毅陸軍大臣。第1次桂内閣からの再任となります。前内閣からの再任は寺内1人となっています。寺内ものちに内閣総理大臣となります。
斎藤実海軍大臣。初入閣です。斎藤ものちに内閣総理大臣となります。この内閣は結構内閣総理大臣にのちになる人が多いですね。
この後もう一度総理になる西園寺を含めて総理大臣になる順に、西園寺(第14代)、寺内(第18代)、原(第19代)、加藤(第24代)、斎藤(第30代)
松田正久司法大臣。大蔵大臣も兼任しています。立憲政友会の党員でもあります。この内閣では、西園寺が政友会の総裁でありますが、山縣など政党嫌いの連中から内閣を守るために政友会から入閣したのは、原と松田に留まっています。
松田は、文部大臣や大蔵大臣を歴任しているため今回は3度目の入閣となります。第4次伊藤内閣において松田の説明をしているため今回は説明なしで行きます。
千家尊福司法大臣。松田の後任の司法大臣です。
出雲大社の宮司を務める出雲国造家に生まれています。出雲大社関係の人物ともありかなりの大物です。東京府知事、静岡県知事、埼玉県知事を歴任して司法大臣に就任します。
牧野伸顕文部大臣。大正時代の大物政治家となります。今後の内閣においても出てくるので、この人の偉大さについてそこで語ろうと思います。しかし、この人は閣僚というよりも何かと国際会議の全権などそう言った仕事が多いです。
松岡康毅農商務大臣。司法関係の仕事を歴任しています。具体的には、検事総長、行政裁判所長官などです。官僚系ですね。また、日本法律学校(現在の日本大学)の設立委員に加わっています。
山縣伊三郎逓信大臣。山縣有朋の姉の子である、山縣有朋の養子です。パッとした実績がないのであまり語れませんが、山縣の親族ということだけが目立ちますね。
堀田正養逓信大臣。山縣の後継の逓信大臣です。堀田は、近江宮川藩の第9代藩主(最後)であります。堀田といえば、江戸時代に5代将軍徳川綱吉のもとで大老にまで上り詰めた堀田正俊や、幕末老中となった堀田正睦らを輩出した一族です。これらは、佐倉藩を領地としていた分家の方で、宮川藩の方が本家です。
明治維新後は、廃藩置県までは宮川藩知事その後は、東京府議会議員、貴族院議員などを歴任し逓信大臣となります。
石渡敏一内閣書記官長。特に調べても何も出てこなかったです。意外と情報がない人でした。
南弘内閣書記官長。戦後まで行きます。二・二六事件後に逓信大臣になったりしています。富山の人です。
第1次西園寺内閣の在任期間中に起こった大きな出来事はさほどありません。あえて、挙げるとしたら1908年6月に起こった赤旗事件、それに伴うと、1906年の日本社会党結党が大事なことになります。明治時代に産業革命を迎えた日本は、資本家と労働者の格差がとても目立つようになります。中にはストライキも目立つようになりました。そんな中で労働者は権利を求めて社会主義運動を起こすようになりました。それによってできたのが1906年に結党された社会民主党です。社会民主党は、、片山潜、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水、河上清、西川光二郎の6名で創設されました。なお、片山は共産党、安倍は昭和時代に二大政党であった立憲政友会、立憲民政党に続く第三極であった社会大衆党の委員長を務めています。幸徳は、この後に起こる大逆事件でのキーパーソンとなります。社会民主党は結党した当日に即日禁止を命じられます。ただし、これにはいろいろとあるため即日結社禁止とはあまり言わないで置くことにしますが、そのようなエピソードもあると覚えておいてください。
1906年に結党された日本社会党は、社会民主党は異なり即日禁止とはなりませんでした。これは、西園寺が社会主義者に対してある程度寛容であったためです。しかし、結党翌年に党内においてゼネラル・ストライキによる直接行動派と、労働者の主張を議会で訴える議会政策派との間の対立が激しくなり山縣がこれを見て取締りの強化を訴えて結社禁止となります。結局のところ、こういった活動のほとんどが山縣が潰しているんですね。山縣さんはサイテーですね。まあ、社会主義者では私はないので山縣がどうしようが知りませんが、近代日本史において山縣は本当に裏で暗躍していると思います。
そして、赤旗事件です。社会主義者は逮捕されていました。そのため、釈放されるときに石川三四郎は社会主義者通しの対立をどうにかしたいと考えており、みんなで釈放される人の歓迎会を廣校と考えました。そして、実際にそれを行います。しかし、事件はそこで起こりました。何が起こったかというと、、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎ら硬派の一団は、突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた旗を翻し、革命歌を歌い始めました。石川はこれを制止しようとしたが、硬派は従わず、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出しました。歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊は、街頭に現れた硬派の面々を認めるや駆け寄って赤旗を奪おうとし、これを拒んだ彼らともみ合い、そして最終的には何人かが捕まる騒動となりました。
これが、赤旗事件です。
これ以後も社会主義に対しては激しい弾圧が続くこととなります。
今回はこのあたりで。次回は第2次桂内閣について見ていこうと思います。
◇参考文献
ウィキペディア『林董』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E8%91%A3
ウィキペディア『阪谷芳郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E8%B0%B7%E8%8A%B3%E9%83%8E
ウィキペディア『千家尊福』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%AE%B6%E5%B0%8A%E7%A6%8F
ウィキペディア『社会民主党(日本 1901年)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%85%9A_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC_1901%E5%B9%B4%29
ウィキペディア『日本社会党(1906年)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%85%9A_%281906%E5%B9%B4%29
ウィキペディア『赤旗事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%97%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
ウィキペディア『松岡康毅』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B2%A1%E5%BA%B7%E6%AF%85
ウィキペディア『山縣伊三郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E4%BC%8A%E4%B8%89%E9%83%8E
ウィキペディア『堀田正養』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E9%A4%8A
『7人の有名な日本人フリーメイソン』http://web.archive.org/web/20090607101047/http://www.freemasonryinjapan.com/J-famous.htm