第11代 第一次桂太郎内閣
私が今まで書いてきたものの中でもっとも1話あたりの文字数が多くなった回です。
第11代 第一次桂太郎内閣
在任期間 1901年6月2日~1906年1月7日(1681日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑪ 桂太郎
外務大臣 ⑯ 曾禰荒助(臨時兼務)
⑰ 小村壽太郎
内務大臣 ⑳ 内海忠勝
21 児玉源太郎
大蔵大臣 ⑬ 曾禰荒助(元司法大臣)
陸軍大臣 ⑭ 児玉源太郎(前陸軍大臣) 再任 兼務
⑮ 寺内正毅
海軍大臣 ⑬ 山本権兵衛(前海軍大臣)再任
司法大臣 ⑮ 清浦奎吾(元司法大臣)
⑯ 波多野敬直
文部大臣 ⑰ 菊池大麓
⑱ 児玉源太郎(兼務)
⑲ 久保田譲
農商務大臣 21 平田東助
22 清浦奎吾 兼務
逓信大臣 ⑯ 芳川顕正(元内務大臣)
⑰ 曾禰荒助(兼務)
⑱ 大浦兼武
内閣書記官長 ⑫ 柴田家門
◆参考
ウィキペディア『第11代桂内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E6%A1%82%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸『第1次桂内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/11.html
歴代政府・内閣に関するデータベース『第一次桂内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/11-Katsura-vol1.htm
主な出来事
1901年 6月 星亨が伊庭想太郎に暗殺される。
登張竹風、論文「フリイドリッヒ・ニーチェを論ず」(「帝国文学」)。日本に於 けるフリードリヒ・ニーチェの紹介が盛んになる。
山川健次郎、東京大学長に任命
7月 電報通信社(後の電通)設立(光永星郎)
ペリー上陸記念碑建立(久里浜)
印刷局にて紙幣3万円盗難
牛馬の虐使を禁止
8月
9月 清が北京議定書調印
10月 舞鶴鎮守府開庁
呉に市制実施される
日英同盟交渉開始
田中正造が足尾銅山鉱毒事件で衆議院議員を辞職。
鹿児島第七高等学校造士館開校
「二六新報」岩谷天狗攻撃のキャンペーンを始める
11月 波多野精一「西洋哲学史要」
12月 元老会議、日英同盟修正案可決
伊藤博文が日露協商交渉開始。
第16議会招集
田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴。
伊藤博文が日露協商交渉打切りを通告。
食堂車が東海道線急行列車に登場
1902年 1月 日本初の山岳測候所「山階宮筑波山測候所」が気象観測を開始。
北海道旭川市で気温-41.0度を記録(日本の最低気温記録)
八甲田雪中行軍遭難事件
第1次日英同盟調印・発効
2月 愛国婦人会、最初の軍人遺族弔慰(八甲田山雪中行軍に斃れた遺族を弔慰)
桂首相、日英同盟条約締結の報告演説を貴族院にて行う
花井卓蔵・河野広中ら、最初の普通選挙法案を衆議院に提出(否決)
東京瓦斯新会社、ガス炊飯かまどの専売特許を取得
3月 戦艦三笠竣工
国語調査委員会官制公布
日本興業銀行設立
商工会議所法公布
愛国婦人会第一回総会、東京偕交社で開催
福井市で大火
4月 骨牌税法公布(7月1日施行)
宮崎民蔵、「土地復権同志会」創立
奥村五百子、愛国婦人会設立後間もなく、京都を始め各地の遊説に出発
日本初の女子野球大会開催
国民同盟解散
5月 正岡子規、「病牀六尺」連載開始
日本で電柱広告が許可。
イギリスへ注文した戦艦「三笠」竣工して、横須賀に到着する
馬関を下関と改称
6月 渋沢栄一、外遊中アメリカ大統領とホワイト・ハウスに会見(大統領、日本の発展 を賞賛)
逓信省が初めて官製絵はがきを発売(万国郵便連合条約加入25年記念)。
7月 標準語選定発表される
中央本線の笹子トンネル貫通。
呉造兵廠の職工5000人がスト、鎮圧に軍隊が出動
この日発行の雑誌『文藝倶楽部』に初めて原色版印刷の口絵掲載される
特設電話初めて実施(電話加入者の設備費負担制に依る)
8月 伊豆鳥島が大噴火。島民125人全員死亡。
第7回衆議院議員総選挙(初の任期満了に伴う衆議院議員総選挙)
小石川砲兵工廠スト
9月 江之島電氣鐵道(後の江ノ島電鉄)開業(藤沢・片瀬間)。
第一生命保険設立。
足尾台風来襲。相模湾で高潮(小田原大海嘯)が発生。
正岡子規死去。
10月 早稲田大学開校式(初の私立大学)
東京・日本橋に三井本館が完成。鉄骨構造建築の先駆
11月 川上音二郎夫妻、俳優として初めて勲章を授与される。
東大生・藤井実、陸上100メートルに10秒24の世界新記録
12月 国勢調査に関する法律公布(国勢調査を10年に一度実施)
第17議会招集
哲学館に付与されていた卒業生に対する教員免許の無試験交付特権が剥奪される (哲学館事件)
教科書疑獄事件で200名以上が摘発される。
年齢計算ニ関スル法律施行(数え年の代りに満年齢の使用を規定)
丸善が大英百科事典の予約販売を募集
衆議院解散
政友会、憲政本党、地租増徴継続反対を決議
政府、衆議院へ海軍拡張案提議
1903年 1月 夏目漱石が、文部省留学生としての英国留学から帰国。
大谷光瑞率いる大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んだ霊鷲 山を発見。
2月 翻訳劇沙翁の「オセロ」、川上音二郎一座により明治座で初演
中央本線笹子トンネル開通
五世尾上菊五郎死去
3月 第8回衆議院議員総選挙
大阪天王寺公園で第5回内国勧業博覧会開催
専門学校令制定公布する
「職工事情」刊
日本初のビアガーデン隅田吾妻橋に開設
農商務省「職工事情」を刊行
4月 東京に山手線(池袋―田端間)が開通
日本最初の商用車現る
出雲日御碕灯台点燈
日本鉄道豊島線(池袋 - 田端間)開通(現山手線)
日本で小学校令が改正され国定教科書制度が取り入れられる。前年の教科書疑獄事 件が遠因。
5月 第18特別議会招集
第一高等学校生徒・藤村操が華厳滝で自殺。社会に大きな影響を与える。
高木貞治、論文「有理虚数体におけるアーベル数体について」(「東京帝国大学紀 要 理科」)。
一高生・藤村操が『巌頭の感』を遺し、日光の華厳の滝に投身自殺 。夏目漱石の教 え子。
日本初のゴルフクラブ、神戸ゴルフ倶楽部開場
大日本地震史料編纂事業成る
6月 日比谷公園が開園する。
東京帝国大学教授戸水寛人ら七博士、政府へ対露強硬の建議書提出。
内村鑑三が「聖書之研究」と「萬朝報」で、日露戦争絶対反対、平和主義を主張。
参謀総長大山巌、朝鮮問題解決に関する意見書を内閣に提出 。
7月 西園寺公望が第2代立憲政友会総裁に就任
近衛篤麿・頭山満ら対外硬同志会組織
8月 東京に対露同志会結成
明治法律学校を明治大学と改称
和仏法律学校を法政大学と改称
9月 日本初の市電である大阪市の大阪市電が開業。
京都市で二井商会が日本初の営業バスを開業(バスの日)
10月 小村寿太郎らによって日露交渉が開始される。
堺利彦ら神田青年館で非戦演説会
参謀本部の有栖川宮銅像除幕式
内村鑑三、幸徳秋水ら、「退社の辞」を「萬朝報」に発表し開戦論に転じた朝報社 を退社 。
東海丸の遭難
11月 幸徳秋水らが平民社を設立。「平民新聞」を創刊。
第1回早慶戦
バス運転始まる
12月 第19議会招集
政友会と憲政本党の提携声明
奉答文事件
衆議院解散(奉答文事件が原因)
連合艦隊編制、司令長官は東郷平八郎
戦時大本営条例改正など開戦体制のための四緊急勅令を公布
1904年 1月 大阪朝日新聞で天声人語連載開始
朝永三十郎編纂「哲学辞典」。
丘浅次郎「進化論講話」。進化論の解説書が多数登場する。
第1回社会主義婦人講演会
2月 日露戦争: 御前会議で対露交渉の断絶と軍事行動の開始を決定
日露戦争: 栗野慎一郎駐露公使が日露交渉の打切りをロシアに通告
日露戦争: 日本海軍が旅順港外のロシア艦隊を攻撃。事実上の日露戦争開戦。仁川 沖海戦
日露戦争: 日本とロシアが相互に宣戦布告
日韓議定書調印
日露戦争: 第1次旅順港閉塞作戦実施
日露戦争: 金子堅太郎が対米工作のため渡米
日露戦争: 高橋是清が戦費調達のため渡米
東京市外電車、車内禁煙となる
岡倉天心・横山大観ら渡米する
宮中に大本営設置
戦時第一回国庫債発行
陸軍予備少尉堀部直人自殺
大坂府立図書館開館
3月 第9回衆議院議員総選挙
日露戦争: 第2次旅順港閉塞作戦実施。広瀬武夫中佐戦死。
大阪の文楽座人形浄瑠璃に初めて新劇を試み、日露戦争劇を脚色上演
平民新聞社は社説にて「与露社会党書」を掲載
4月 非常特別税法と煙草専売法が公布
5月 日露戦争: 第3次旅順港閉塞作戦実施
第20特別議会招集
6月 芝浦製作所(後の東芝)設立
7月 横浜正金銀行本店竣工
8月 日露戦争: 蔚山沖海戦
日露戦争: 第1次旅順総攻撃開始
日露戦争: 宗谷沖海戦
第1次日韓協約調印
日露戦争: バルチック艦隊の太平洋派遣が決定
9月 与謝野晶子「君死に給ふこと勿れ」掲載(『明星』)
屯田兵廃止
小泉八雲死去。
10月 日露戦争: バルチック艦隊がリバウ軍港を出港
露戦争: ドッガーバンク事件: 日本に向けて北海を航行中だったバルチック艦隊が イギリスのトロール船を日本の魚雷艇と誤認し砲撃 ←意外と大事な出来事
11月
12月 日露戦争: 旅順203高地で遺体回収のため休戦: 日露両兵士が野宴により交歓
日露戦争: 日本軍が旅順203高地を占領
三越呉服店設立(12月20日開業)
第21議会招集 (初めて衆議院の議員席を党派別に分ける)
日露戦争: バルチック艦隊(本隊)がマダガスカルに入港
1905年 1月 日露戦争:旅順開城
夏目漱石が『ホトトギス』1月号で、処女作『吾輩は猫である』を連載開始
奈良県鷲家口でニホンオオカミの捕獲。確かな最後の発見であり、ニホンオオカミ 絶滅の年とされる。(1910年にも捕獲の記録があるが標本が現存していないた め認められてない)
日露戦争:黒溝台会戦
隠岐島と鬱陵島の間にある島を日本政府が閣議で竹島と命名し、島根県隠岐島司の 所管とした。
平民新聞廃刊
2月 仁丹発売(森下南陽堂)
3月 日露戦争:奉天会戦
日露戦争:バルチック艦隊がマダガスカルを出港
4月 阪神本線開業
漫画雑誌「東京パック」創刊
5月 日露戦争:日本海海戦
日本海海戦:イルティッシュ号投降事件
盛岡高等農林学校開校(現、岩手大学)
6月 塩の専売制度実施される
7月 日露戦争:樺太の戦い開始
桂・タフト協定が結ばれ、日本の韓国支配と米国のフィリピン支配を相互承認。
ベトナム維新会による東遊運動が始まる。日本へ留学生が派遣される
日露戦争:日本軍が樺太占領を終える
8月 日露戦争:日露講和会議開催
第2次日英同盟が調印
孫文が東京で中国同盟会を結成
9月 日露戦争:ポーツマス条約締結
日露戦争講和条約に反対する民衆による暴動が発生(日比谷焼打事件)
東京に戒厳令(11月まで)
中川小十郎により私立清和普通学校が開学
10月 平民社が解散
第2次日韓協約が締結され、日本が韓国の外交権を掌握
津田梅子らがYWCA(キリスト教女子青年会)を創立
11月 幸徳秋水が米国に出発
東京の戒厳令解除
12月 日本で最初の大使館がイギリスに設置(公使館が昇格)。初代駐英大使は林董
JXホールディングスの前身である日本鉱業設立。
第2次日韓協約に基づき韓国統監府を京城に設置。初代総監は伊藤博文
第22議会召集。
東郷平八郎、海軍軍令部長に任命
連合艦隊解散式(連合艦隊解散の辞)
山県有朋、枢密院議長に就任。
1906年 1月 第1次桂内閣総辞職
◆参考
ウィキペディア『1901年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1901%E5%B9%B4
ウィキペディア『1902年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1902%E5%B9%B4
ウィキペディア『1903年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1903%E5%B9%B4
ウィキペディア『1904年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1904%E5%B9%B4
ウィキペディア『1905年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1905%E5%B9%B4
ウィキペディア『1906年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1906%E5%B9%B4
『1902年(明治35年)|年表|おおばや史|大林組』https://www.obayashi.co.jp/history/year_1902
坂の上の雲マニアックス『1901年(明治34年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1901.html
坂の上の雲マニアックス『1902年(明治35年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1902.html
坂の上の雲マニアックス『1903年(明治36年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1903.html
坂の上の雲マニアックス『1904年(明治37年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1904.html
坂の上の雲マニアックス『1905年(明治38年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1905.html
坂の上の雲マニアックス『1906年(明治39年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1906.html
概要
今回紹介するのは第1次桂太郎内閣です。この内閣からいわゆる桂園時代が始まります。
桂園時代とは何か? まずはその説明から行きます。
桂園時代は、陸軍、山縣閥の桂太郎と立憲政友会第2代総裁として伊藤博文の後継となった政党勢力を代表する西園寺公望の両者が1901年から10年以上に及んで交代で内閣を組織した時代です。具体的には11代総理に桂、12代総理に西園寺、13代総理に桂、14代総理に西園寺、15代総理に桂とこのようになっています。この間、松方正義や山本権兵衛、平田東助などを首相に擁する動きはあったものの、両者以上の政権基盤を持たず、あるいはそれぞれの勢力内で桂や西園寺に取って代わる基盤を持たずに、いずれも断念に追い込まれたそうです。
また、この桂園時代は大日本帝国憲法下においてだけでなく、日本憲政史上最も政治が安定した時代といっても過言ではなく、この桂園時代の期間に行われた第10回衆議院議員総選挙並びに第11回衆議院議員総選挙はいずれも任期満了によるものでした。2回連続の任期満了は日本憲政下47回の衆議院議員総選挙を通してこの時期だけです。日本憲政史上唯一の出来事であることから政治が安定していることがわかります。ちなみに、任期満了の総選挙は戦前は、第7回衆議院議員総選挙(1902年・第1次桂)、第10回(1908年・第1次西園寺)、第11回(1912年・第2次西園寺)、第21回(1942年・東條)の4回、戦後は第34回(1976年・三木)のたった1回と戦前戦後合わせても5回しかありません。そのうちの3回が桂園時代にありますね。すごいことです。
1911年、当時の桂首相が政友会議員と会合した際に、「情意投合し、協同一致して、以て憲政の美果を収むる」と述べました。この時、桂が述べた情意投合という語は、官僚・軍部勢力と政友会が暗黙のうちに意思疎通を図って政権運営に協力していくという桂園時代の政治体制を意味する言葉として、当時広く用いられました。桂園時代は桂が貴族院、西園寺が衆議院をそれぞれ率いることでお互いがお互いを支え合った上で成り立っていましたが、それは第2次西園寺内閣の陸軍2個師団増設問題で終わります。この事件については第2次西園寺内閣で語ります。
では、そろそろ今回の閣僚について見ていきましょう。
内閣総理大臣の桂太郎については、第3次内閣で見ていきたいと思うので今回はなしにします。1つだけ言っておくと桂の愛称はニコポン宰相と言われています。その意味については第3次内閣で……
曾禰荒助大蔵大臣。初入閣は第3次伊藤博文内閣で司法大臣でありました。今回は大蔵大臣と第1次桂内閣組閣当時は臨時で外務大臣を兼任しています。さて、曾禰の大蔵大臣時代のことですが、彼は大変重要な仕事をしています。この内閣下で起きたこととして最後の方で語るつもりでありますが、第1次桂内閣の在任期間は1901年から1906年に及んでいます。この時期にあった重要なことといえばそうです、1904年に開戦の日露戦争ですね。しかし、実は日露戦争は1904年の前から始まっていたのです。まあ、このあたりの話は最後の方でまとめてするとして、この日露戦争に曾禰がどのように関わったのかを述べていこうと思います。
日露戦争は日本と大国ロシアとの戦争だということは名前から聞いた通りわかると思いますが、戦争をするにはものすごく莫大な量のお金が必要です。日露戦争の戦費は一般的には約18億円と言われております。この18億円という数字ですが、今と昔ではお金の価値がだいぶ違いますのでかなり多額のお金だということがわかります。これは当時の日本のGDPが30億円であっため対GDP比にすると約0.6倍になります。また、この当時の日本の1年間の国家予算は2億6000万円ほどです。ものすごく予算オーバーしています。こんなお金日本にあるはずもありません。さらに、日露戦争の開戦は1904年です。明治時代(大正時代も含む)の日本は10年ごとに対外戦争を経験しています。1894年には日清戦争、1904年にこの日露戦争、そして1914年には第一次世界大戦です。とりわけ、日露戦争の時に日本は、日清戦争でだいぶお金を使ってしまい、日清戦争で勝ち取った賠償金2億両は来る日露戦争に向けての軍備拡張と八幡製鉄所の拡張などに使ってしまいます。なお、この2億両は現在の日本円に直すと約3億円になります。そんなこともあり、日本は金がありませんでした。そこで、戦費の調達に行ったことが外貨の獲得です。その額は、約1億5000万円。現在の日本円で約5700億円という莫大な額です。これだけの額のお金を海外から借りなければなりませんでした。そのお金を借りる仕事をしていたのが、大蔵省や日本銀行でした。曾禰も大蔵大臣として協力しています。また、この時に日本銀行副総裁であった高橋是清も精力的にお金集めに奔走しました。高橋は今後内閣総理大臣になる人物なのでいずれ紹介します。
小村寿太郎外務大臣。曾禰の臨時兼任のあとに外務大臣専任として就任します。さて、小村ですが皆さんこの人のことは知っている人も多いのではないでしょうか? 小学校の社会科の授業からずっと登場している超有名人といってもいいでしょう。日本の明治期を代表する偉大なる外務大臣2人のうちの1人であり(もう1人は陸奥宗光)条約改正交渉を担当した外務大臣の1人です(条約改正交渉に参加した外務卿、外務大臣は寺島宗則、井上馨、大隈重信、青木周蔵、陸奥宗光、小村寿太郎です)。
小村が改正したのは、関税自主権の回復ですが、それを成し遂げるのはこの後に成立する第2次桂内閣です。この内閣ではまだ条約改正交渉をしている段階です。ああ、そういえばこの条約が何なのかまだ言っていませんでしたね。一応、大丈夫だと思いますが念のために言っておきます。この条約というのは幕末に日本がアメリカから不平等条約として結ばされた日米通商修好条約ならびに、ほかの外国(イギリス、フランス、ロシア、オランダ)と結んだいわゆる安政の五か国条約と言われる条約のことです。
では、この内閣で具体的にどのようなことをしたのかというと、結構重要な役割を果たしています。まず、第1次桂内閣発足当初の日本は日英同盟論と対ロ協商論の2つがありました。後者は伊藤博文や井上馨といった大物政治家が主張していました。これは、ロシアとは敵対せずに協商条約を結ぶことで関係を強化していこうという考え方でした。一方の前者を強く推したのは小村でした。小村の主張は桂を動かし1902年に日英同盟が締結されます(第1次日英同盟)。ちなみに、とてもつもなくどうでもいいことなんですが、当時イギリスは『栄光ある孤立』という政策を行っていました。かっこいい名前ですが、簡単に言ってしまえばイギリスはずっとボッチでいることを国是としてきたわけです。しかし、時代の変化でさすがにずっとボッチでいるわけにはいかなくなってしまった。そこで、イギリスが選んだ相手が日本だったのです。イギリスの初めての同盟国が日本というのは何ともうれしいですね。
さて、話は本題に戻りましょう。小村が行った業績についてです。小村の何と言っても第1次内閣最大の功績はポーツマス条約の締結です。ポーツマス条約は日露戦争の講和条約のことです。ただ、ポーツマス条約では日本は賠償金を獲得できなかったために売国奴扱いされて帰国します。このポーツマス条約締結に関して不満だった民衆によって行われた日比谷焼打ち事件が第1次桂内閣の総辞職の原因となりますが、それは最後の方で。
内海忠勝内務大臣。前職は会計検査院長。会計検査院についての説明はおそらく二度とする機会はないと思いますのでちょっと余分かもしれませんがしておこうと思います。
会計検査院は内閣から独立した行政機関という立ち位置にあります。これは大変珍しいです。行政危険というのは行政府の下につくものです。日本の行政機関といえば内閣になりますからそこから独立している意味は何なのでしょうか。
会計検査院のHP上には下記の説明がなされています。
会計検査院は、国の収入支出の決算、政府関係機関・独立行政法人等の会計、国が補助金等の財政援助を与えているものの会計などの検査を行う憲法上の独立した機関です。
国の活動は、予算の執行を通じて行われます。
予算は、内閣によって編成され、国会で審議して成立したのち、各府省等によって執行されます。
そして、その執行の結果について、決算が作成され、国会で審査が行われます。
予算が適切かつ有効に執行されたかどうかをチェックすることと、その結果が次の予算の編成や執行に反映されることが、国の行財政活動を健全に維持していく上できわめて重要です。
そこで、憲法は、「国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。」と定めています。
また、会計検査院は、このほか、国有財産、国の債権・債務、「国が出資している法人」や「国が補助金等の財政援助を与えている地方公共団体」などの会計を検査しています。
会計検査院HP『会計検査院の地位』より抜粋
つまりは、内閣・裁判所・国会という行政・司法・立法のすべての機関を監視する機関であるということです。それゆえに、会計検査院は内閣から独立しているのですね。
さて、どうして会計検査院の話を始めたのでしょうか。それはそうですね。内海内務大臣の話からでしたね。では、そろそろ彼の話に入りましょう。
彼についてウィキペディア以外の多くのサイトを見ましたが、あまり情報がありませんでした。しかも、ウィキにもあまり情報がなかったので、どこまで信憑性があるのか疑わしいので彼についての紹介をしようかどうか迷いました。とりあえず、経歴だけは嘘ではないようなので経歴だけ語っておくことにします。
長崎県令、三重県令、兵庫県知事、長野県知事(第2代)、神奈川県知事(第3代)、大阪府知事(第8代)、京都府知事(第8代)など各府県の知事を歴任している人物のようです。内務官僚出身者ということがここからは読めます。ただ、これ以上深い話はできそうにないので別の人の話へと移りましょう。
児玉源太郎陸軍大臣のちに内務大臣に異動。なお、閣僚一覧のところに兼任とあったがこれは、当時台湾は日本領でありその統治にあたった台湾総督府の長である台湾総督を兼任していたことを示しています。
さて、児玉の話に入りましょう。児玉は山口県出身です。長州藩の支藩である徳山藩の中級武士の子として産まれますが、まもなく父と5歳で死別し、姉である久子の婿の兒玉次郎彦によって養育されます。しかし、次郎彦は児玉が13歳の時に佐幕派に暗殺されます。こうした少年期を経て明治時代になると戦争に参加するようになります。箱館戦争(当時はまだ函館はこの漢字であった)を経て陸軍に参加します。佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争という旧士族の反乱を鎮圧した後は、台湾総督に就任します。この時に、後藤新平の才能を見出したとして重要な役職に就けたりしています。
そして、いよいよこの内閣の時代に話になります。日露戦争の際に内務大臣であった児玉は1903年に対露戦計画を立案していた陸軍参謀本部次長の田村怡与造が急死したため、参謀総長・大山巌から特に請われ、降格人事でありながら内務大臣を辞して参謀本部次長に就任します。この時、台湾総督は引き続き兼任していました。なお、第二次世界大戦で日本が敗北するまで継続した日本陸軍において降格人事を受け入れたのは児玉ただ1人だそうです。降格人事を受け入れてまでも日本が戦争に勝つことに協力した児玉は本当にすごい人物ですね。満州軍総参謀長として満州攻撃に参加し、戦後は南満州鉄道創立委員長になりますが、10日後に病死します。
山本権兵衛海軍大臣。再任です。第2次山縣内閣から引き続きの海軍大臣です。なお、山本はのちに2回内閣総理大臣になるのでその時に説明させてもらいます。
清浦圭吾司法大臣。彼ものちに総理大臣になります。その時に説明を回しましょう。決してめんどくさいというわけではありませんよ。
波多野敬直司法大臣。官僚出身者です。司法省官僚なので、司法大臣を務めるのは納得しますね。
菊池大麓文部大臣。初入閣です。今まで名前が出てこなかった新しい人ですね。でも、実はこの人は、もともとは数学者、教育者なんです。
蕃書調所(東京大学の前身)で学んだ後に2度イギリスに留学しています。しかも、2度目の留学ではあのケンブリッジ大学で数学と物理学を学び学位を取得してます。恐るべし菊池……。その後は、東京大学理学部教授として日本の近代数学の発展に貢献しています。東京大学総長、学習院院長、京都帝国大学総長、理化学研究所初代所長等を歴任し、1902年には男爵を授爵された。福澤諭吉とは知己の仲で、1874年には福澤に招聘されて明六社に参加、福澤がその後に設立した交詢社にも発足時常議員としてもその名を連ねている。1889年には帝国学士院の前身・東京学士会院会員に選任されています。
また、1890年にそれまでの功績が認められて貴族院勅撰議員になります。1912年には枢密院顧問にもなります。それまでは、貴族院議員として国政に参加しています。第2次松方内閣、第3次伊藤内閣で文部次官に就任、浜尾新・西園寺公望・外山正一の3大臣を補佐し、そしてこの内閣で文部大臣として就任しています。その後は、最初に言ったとおり、枢密院顧問をし政界を引退します。
久保田譲文部大臣。初入閣です。なお、久保田は第1次桂内閣でしか大臣を務めていません。また、文部省官僚です。さすが、桂内閣には官僚系が多いことが出身の派閥から読み取れます。日露戦争を契機に戸水寛人ら東京帝国大学の教授らが、対露強硬外交を唱え、さらに日露講和条約締結に際し、反対運動に参加しました。久保田は政府の命を受けてまず、戸水寛人と帝大総長の山川健次郎を休職処分としたが、大学自治を掲げて京都帝大の教授らも抗議して辞表を提出したため、戸水事件を誘発した責任で引責辞任に追い詰められ辞任しました。
平田東助農商務大臣。彼は、高校日本史においては登場しない人物です。しかし、実は結構力の圧人物なんです。元老というものが明治時代から大正時代(ただし、昭和時代まで生きている元老もいる)にかけてありました。まだ、元老についての説明をしていなかったような気がしますのでやろうかなと考えましたが、実はこの後に登場する第3次桂内閣において元老はとても重要なキーワードとなります。その際に説明することにします。平田についても第2次桂内閣において内務大臣として入閣しています。その時に説明をさせていただきます。
芳川顕正逓信大臣。また、お前か! ということで第1次桂内閣でも入閣です。この人何回も閣僚やっていますね。もう説明はいらないと思います。
大浦兼武逓信大臣。第2次大隈内閣でも入閣しています。その際に説明をすることにしましょう。
柴田家門内閣書記官長。初入閣ですね。でも、この人もあんまり情報がないんです。わかっていることは、この後に第3次桂内閣の文部大臣に就任することぐらいでしょうか。
さて、ようやく第1次桂内閣の閣僚の説明を終えました。
では、次は第1次桂内閣についてです。実は第1次桂内閣は歴代内閣の中である記録を持っています。それは、1内閣における在任期間の最長記録です。1681日です。現在の内閣は衆議院解散によって一度総辞職しなければいけないので最高で4年しか第○次内閣は継続しません。そのため、1901年から1906年までのおよそ5年続いた第1次桂内閣のこの記録を超すことはもうできません。
第1次桂内閣の総辞職の原因は、日露戦争の講和条約であるポーツマス条約にあります。ポーツマス条約で日本はロシアから賠償金を取ることができませんでした。そのため、民衆からものすごく講和反対運動が起きます。条約を結んだ小村は帰国した時に売国奴として貶されます。なお、小村はもともと行く時の帰ってきたら絶対自分は貶されるだろうと知っていたようです。そのため、政府のだれもが講和会議には行きたくなかったという話も残っています。
そして、民衆が講和反対の集会を日比谷公園で行います。この集会で民衆が暴徒化し、そして戒厳令も発令するほどの事態になりました。この事件の責任を負って第1次桂内閣は1681日という約5年に及んだ政権の幕を下ろすこととなりました。
さて、次回は第1次西園寺公望内閣の紹介と行きます。なるべく、早く出すように努力をしますのでよろしくお願いします。
◆参考
ウィキペディア『桂園時代』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%9C%92%E6%99%82%E4%BB%A3
ウィキペディア『衆議院議員総選挙』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99#.E8.A1.86.E8.AD.B0.E9.99.A2.E8.AD.B0.E5.93.A1.E7.B7.8F.E9.81.B8.E6.8C.99.E3.81.AE.E4.B8.80.E8.A6.A7
ウィキペディア『曾禰荒助』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BE%E7%A6%B0%E8%8D%92%E5%8A%A9
ウィキペディア『小村壽太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E5%A3%BD%E5%A4%AA%E9%83%8E
ウィキペディア『ポーツマス条約』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
ウィキペディア『内海忠勝』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%B5%B7%E5%BF%A0%E5%8B%9D
ウィキペディア『兒玉次郎彦』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%92%E7%8E%89%E6%AC%A1%E9%83%8E%E5%BD%A6
ウィキペディア『児玉源太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E6%BA%90%E5%A4%AA%E9%83%8E
ウィキペディア『菊池大麓』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%A4%A7%E9%BA%93
ウィキペディア『蕃書調所』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%83%E6%9B%B8%E8%AA%BF%E6%89%80
ウィキペディア『平田東助』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9
ウィキペディア『柴田家門』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E5%AE%B6%E9%96%80
ウィキペディア『波多野敬直』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%95%AC%E7%9B%B4
ウィキペディア『久保田譲』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E8%AD%B2
ウィキペディア『日比谷焼打ち事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6
『詳説日本史B』 石井進、五味文彦、笹山晴生ほか著 山川出版社
『戦争と経済の真実─戦争にはどのくらいの経費がかかるのか?』http://www.capital-tribune.com/archives/1
武将ジャパン『カネはないけど戦わなきゃならん日露戦争の宣戦布告』http://bushoojapan.com/tomorrow/2014/02/09/14055
会計検査院HP『会計検査院の地位』http://www.jbaudit.go.jp/jbaudit/position.html
武将ジャパン『日露戦争で活躍 謙虚だった天才・児玉源一郎の義』http://bushoojapan.com/tomorrow/2014/02/24/15088
『菊池大麓│近代日本人の肖像』http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/64.html