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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
明治時代
12/58

第10代 第四次伊藤博文内閣

 第10代第四次伊藤博文内閣

 在任期間 1900年10月19日~1901年5月10日(204日)


 国務大臣

内閣総理大臣 ⑩ 伊藤博文(元内閣総理大臣)立憲政友会

         西園寺公望(元文部大臣)立憲政友会 臨時兼任

外務大臣   ⑮ 加藤高明 外務省

内務大臣   ⑲ 末松謙澄(元逓信大臣) 立憲政友会

大蔵大臣   ⑫ 渡辺国武(元大蔵大臣)立憲政友会

         西園寺公望  臨時兼任

陸軍大臣  ⑫  桂太郎(前陸軍大臣)再任

       ⑬  児玉源太郎(台湾総督)兼任

海軍大臣   ⑫ 山本権兵衛(前海軍大臣)再任

司法大臣   ⑭ 金子堅太郎(元農商務大臣)立憲政友会

文部大臣   ⑲ 松田正久(元大蔵大臣)立憲政友会

農商務大臣  ⑳ 林有造(元農商務大臣)立憲政友会

逓信大臣    ⑭ 星亨(元衆議院議長) 立憲政友会

       ⑮  原敬 立憲政友会

班列       西園寺公望

内閣書記官長 ⑪ 鮫島武之助(元内閣書記官長)


 ※今回より藩閥内閣の色が薄くなってきたことも考慮し、出身地の説明をなくしました。

 ◆参考

 ウィキペディア『第4次伊藤内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC4%E6%AC%A1%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%86%85%E9%96%A3

 首相官邸『第4次伊藤内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/10.html


 主な出来事

 1900年10月 第4次伊藤内閣成立

          日本を初め在北京公使は北清事変講和会議を開く(第一回対清要求を議す)

      11月 三笠 (戦艦)進水式

          東京帝国大学運動会、ヤード制廃しメートル制に

          観菊御宴開かれる。

          静岡市の旧徳川邸を葵ホテルに改築と新聞に発表される

      12月 東京女医学校(後の東京女子医科大学)創立

          暖房車初めて東海道線に装備。

          年賀郵便特別取扱開設(これより例年恒例となる)

          星亨逓信相辞職(東京市会汚職事件、後任原敬)

          桂太郎陸相辞職(後任児玉源太郎)

          第15議会招集。

          福澤諭吉の提案で、翌年の幕明けにかけて慶應義塾生らと「19世紀・20世紀送          迎会」を開催。

 1901年 1月 正岡子規「墨汁一滴」、連載開始。

          言文一致会第1回公演演説会

          福沢諭吉死去(享年68歳)

       2月 国家主義団体・黒龍会が内田良平らによって創立される。

          官営八幡製鉄所操業開始。

          奥村五百子らにより愛国婦人会が結成される。

          正岡子規、初めて会席料理を食する。

          国史上の大文献集成「大日本史料」、東京帝国大学より刊行される。

       3月 北海道法公布

          愛国婦人会創立

          貴族院に勅語、16日、一旦否決した増税案可決。

          司法官棒案が貴族院で否決され判検事ら続々辞職。

       4月 二六新報社、向島にて第一回日本労働者大懇親会を開催

          第七十九銀行など支払停止で、大阪に金融恐慌、全国に波及

          栃木県に栃木県第四中学校(現・栃木県立佐野高等学校)が開校。

          成瀬仁蔵により、日本女子大学校(現:日本女子大学)が創立。

          幸徳秋水「二十世紀之怪物 帝国主義」。序文は内村鑑三。

          裕仁親王誕生(昭和天皇)、当時皇太子だった大正天皇の第1皇子

       5月 第4次伊藤内閣総辞職

          井上馨に組閣命令(5月23日辞退)→この間西園寺が内閣総理大臣臨時代理


 ◆参考

 ウィキペディア『1900年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1900%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1901年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1901%E5%B9%B4

 坂の上マニアックス『1900年』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1900.html

 坂の上マニアックス『1901年』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1901.html


 概要

 今回は第4次伊藤博文内閣について見ていくことにします。第4次伊藤内閣は伊藤自身最後の組閣であります。この後、伊藤は内閣総理大臣になることはなく、韓国統監府の長官などを歴任し、1909年10月に現在の中国黒竜江省哈爾浜市南崗区のハルビン駅で朝鮮人民族運動家安重根によって暗殺されます。この伊藤廣美味暗殺事件については未だに真相が明らかになっていないので、いつの日か明かされてもらいたいです。ちなみに現在は安重根の単独犯説、伊藤は韓国の植民地化に反体制ていたためそれを妬んだものによる黒幕説などがあります。私としては後者を押していきたいものです。

 

 では、伊藤の話を簡単にまとめたところで今回もまずは閣僚の顔ぶれから見ていきます。いや、その前に今回の内閣について話していきます。上の閣僚について見た人はあれ? と思うかもしれません。実は、今回の第4次伊藤内閣は事実上の政党内閣と言われます。伊藤自身が作った立憲政友会の党員の多くが入閣をしているからです。では、そういったことを考慮したうえで見ていきましょう。

 まずは、再任から。陸軍大臣の桂太郎と海軍大臣の山本権兵衛の2人の軍部大臣が再任となっています。特に桂については第3次伊藤内閣から第1次大隈内閣、第2次山縣内閣そして、今回と4内閣にわたって陸軍大臣を務めあげています。ちなみにこの2人はのちに内閣総理大臣になります。それ以外に内閣総理大臣にのちになる人物は、班列の西園寺公望、外務大臣の加藤高明、途中入閣の逓信大臣原敬です。この3人のうち加藤と原はどちらも大正時代の政党内閣を象徴する総理大臣です。この2人については総理に就任した際に紹介していこうと思います。

 

 内務大臣の末松謙澄。末松は、歴代の伊藤政権において登場してきていました。第3次伊藤内閣では逓信大臣、第2次伊藤内閣では法制局長官、第1次伊藤内閣では直接的登場はしていませんが伊藤と関係があり劇改革に取り組んでいます。もともと末松は歴史家やジャーナリストであり単なる政治家というわけではありません。そのためいろいろなことを成し遂げています。具体的には、中断していた毛利氏歴史編纂事業が明治維新全体の歴史を纏めた一級資料『防長回天史』として初版脱稿したりローマ法の研究をまとめた大正2年(1913年)に『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法提要』、大正4年(1915年)に『ガーイウス羅馬法解説』『ウルピアーヌス羅馬法範』を翻訳・刊行したりしてます。

 大蔵大臣の渡辺国武。第2次伊藤内閣でも大蔵大臣を務めておりこれで3回目の大蔵大臣就任です。(これは第2次伊藤内閣で辞任後、再び再入閣しているため)彼がこの内閣の総辞職の原因を作りますが、それは最後に少し。

 

 司法大臣の金子堅太郎。第3次伊藤内閣において農商務大臣として入閣しているため今回が2回目の入閣に当たります。伊藤の盟友として第3次伊藤内閣では日米の仲介に尽力を尽くしたということを書いたような気がします(自分できちんと確認していないため間違ってるかもしれません)。なので、今回は金子についても別段語る予定はありません。

 

 文部大臣の松田正久。松田は今回が2回目の入閣です。1回目は第1次大隈内閣です。では、松田についての経歴を簡単に紹介していくことにしましょう。まず、1845年に、小城藩士(現在の佐賀県小城市)の二男として産まれます。その後、13歳の時に同じ小城藩士松田勇七の養子となります。明治維新のあとは昌平坂学問所、その廃止後は西周からフランス語を学び、陸軍省入り、フランスへの留学を果たしています。フランス留学中に自由主義について学び、帰国後は陸軍省を辞して佐賀において自由民権運動に参加する。1879年には長崎県会議員に、のち同会議長に就任。自由党、九州改進党(改進党とついているが実際は自由党系列)に入党し、さらに西園寺とともに『東洋自由新聞』を創刊した。政府内では松田の才能を惜む意見もあり、自由民権運動が衰退した1887年、司法大臣山田顕義の要請を受けて司法省の検事となり、翌年には鹿児島高等中学造士館の教頭に就任しました。

 その後1890年の第1回衆議院議員総選挙では佐賀1区から出馬して当選を果たす。所属は立憲自由党であった。。翌年、衆議院予算委員長として第1次松方内閣提出の予算案を廃案に追い込むが、第2回総選挙では、内務大臣品川弥二郎による選挙干渉事件により落選してしまう。その後は第6回衆議院議員総選挙まで議席を獲得することができなかった。しかし、この間に党内の政策・事務に専念し、伊藤博文と自由党との関係回復に努めた。フランス留学の際に知り合いとなった西園寺の仲介によって伊藤の面識を得、次第にその信任を得るにいたった。憲政党による隈板内閣が成立すると、大蔵大臣として入閣し、直後の第6回総選挙で議席を回復した。同党分裂によって内閣はわずか4ヶ月で崩壊するが、のち旧自由党系の憲政党に属し、星亨とともに伊藤の首領とする新党結成運動に奔走しました。伊藤が総裁となった立憲政友会では総務委員として党組織の編成にあたりました。この成果により今内閣では文部大臣として入閣しました。

 ちなみにこの内閣より先に起きることとして、立憲政友会第2代総裁の西園寺に代わり立憲政友会の党務を担当し、第1次山本内閣で司法大臣として入閣することになります。


 農商務大臣の林有造。自由党出身者であり自由民権運動の流れを汲んでいる人です。一応、第1次大隈内閣において逓信大臣に任じられてます。1908年に政界を引退し、晩年には予土水産株式会社という企業を作っています。


 逓信大臣の星亨。自由党出身者で自由民権運動の流れを汲んでいる人です。1887年に発布された保安条例によって東京を追放されるほど藩閥政府から危険視されていた人物としても有名です。その後、入獄も経験しています。1892年に行われた第2回衆議院議員総選挙で自らが第2代衆議院議長となることを公約に立候補し、栃木県1区から当選します。しかし、よく1893年に相馬事件の収賄疑惑によって議長不信任案が可決されます。。しかし、議長を不信任となったにも関わらず、議長席への着席に固執したため、衆議院から除名された。しかし、次回の第3回衆議院議員総選挙で再当選し、政界に復帰する。ここで出てくる相馬事件とは、


  旧中村藩(現・福島県)主 相馬誠胤は、24歳で緊張病型分裂病とおもわれる精神変調にかかり、自宅に監禁されたり東京府癲狂院に入院したりし、1892年(明治25)白宅で糖尿病で死去した。 1883年ごろから、錦織剛清ら旧藩士の一部は、殿様の病気とは御家の財産をのっとろうとする陰謀だとして訴えを起こしていた。 1887年(明治20)には、錦織は東京府癩狂院から相馬を脱走させた(巻頭図iii頁)。 相馬の死後1年して錦織は、殿様の死は毒殺だと告訴し、相馬家側の何人かと主治医中井常次郎(前東京府癲狂院長)とが拘留された。 中井は"毒医"として有名になった。 また家令であった志賀直道(作家・志賀直哉の祖父)も、陰謀の中心人物として拘留された。 墓を掘り返し死体を調べたが、毒殺の証拠はなくて中井らは免訴となり、錦織が誣告(虚偽申告)で有罪となった。 錦織に組みしていた後藤新平は、1893年(明治26)当時内務省衛生局長であったが、この事件に連座して局長を止めることになり、無罪となったのちは政治家に転進した。 万朝報はじめ当時の新聞はほとんどが錦織を支持していた。 この事件は外国にも、日本では精神病患者は無保護の状態にあるとして報道された。

                          公益社団法人日本精神神経学会HPより抜粋


 この内容がいわゆる相馬事件です。私自身も相馬事件については今回初めて知ったため詳しく紹介することができないので抜粋させてもらうことにしました。当時、精神病についての診療は未発展にあり、その精度から疑われたという見方もあります。どちらにせよ、この事件に星は連座してしまい衆議院議長を辞任に追い込まれる羽目となります。

 その後は、選挙で再当選し、藩閥政府批判者として同じ非藩閥の陸奥宗光から可愛がられて外交関係の仕事を歴任し、憲政会内閣である第1次大隈内閣において外務大臣として入閣する予定であったが、大隈首相自らがその案を却下し、憲政会分裂の原因の1つを作っています。

 また、星はよく金権政治の権化とも言われます。が、実際のところ積極的財政というポジションが原因であったと考えられます。ただ、星はのちの日本型金権政治を作り出した張本人とも今でも言われているようです。

 こうした黒いうわさから汚職が発生し、星は逓信大臣を辞任します。


 後任になったのは、原敬。のちの政党政治時代を象徴する内閣総理大臣です。原のことは、のちのちに語ります。


 では、第4次伊藤内閣のことについて。

 この内閣は事実上の政党内閣と言いましたが、この内閣の登場に一番反発した人物が山縣です。頭が相変わらず固いのか、山縣は政党嫌いです。陸軍と貴族院を使って立憲政友会を攻撃します。これは、明治天皇による詔勅でようやく収まります。が、政友会の実力者星が汚職で辞任し、政友会内の対立も見られるようになります。そこに、政友会内部では鉄道の新規着工を要求する予算を求める声が上がり、それを新しい逓信大臣であった原敬が必死に押止めていたが、そんな折に渡辺大蔵大臣が「公債に依存した事業の全停止」を提案しました。当時、鉄道敷設法によって鉄道建設は鉄道公債の発行によって全て賄うこととされており、この提案は新規どころか既存の鉄道工事も全て停止すると言っているのにも等しかった。これに激怒した原や他の閣僚達の抗議を受けた渡辺が孤立するに至って伊藤は単独で首相を辞任し、1901年5月10日から班列であった西園寺枢密院議長が臨時首相を務めることになりました。単独辞任であるため、次のだ1次桂内閣成立までに既存の閣僚は留任しています。

 そして、次の内閣選考中に組閣流産も起きています。井上馨にです。彼は、大蔵大臣に渋沢栄一を採用しようとしましたが、本人に却下されてしまったためにあえなく内閣組閣を諦めます。本来であれば陸相と海相が決まらなくて組閣できないケースであるのですが、これは珍しいですね。


 この内閣下で起きた出来事は短かったためあまりありません。今回はこの辺で。からはいよいよ桂園時代が始まります。その最初、第1次桂太郎内閣について見ていきましょう。

 

 

 ◆参考

 ウィキペディア『桂太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E

 ウィキペディア『ハルビン駅』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%B3%E9%A7%85

 ウィキペディア『末松謙澄』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%9D%BE%E8%AC%99%E6%BE%84

 ウィキペディア『渡辺国武』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%9B%BD%E6%AD%A6

 ウィキペディア『金子堅太郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%A0%85%E5%A4%AA%E9%83%8E

 ウィキペディア『松田正久』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E6%AD%A3%E4%B9%85

 ウィキペディア『九州改進党』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%94%B9%E9%80%B2%E5%85%9A

 ウィキペディア『第1回衆議院議員総選挙』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99

 ウィキペディア『星亨』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E4%BA%A8

 ウィキペディア『第2回衆議院議員総選挙』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99

 ウィキペディア『相馬事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 理解する世界史『1909年 伊藤博文がハルビンで暗殺される』http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1909a.htm

 『西日本シティ銀行』http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/kitakyushu/009/01.html

 コトバンク『九州改進党』https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%94%B9%E9%80%B2%E5%85%9A-1524120

 公益社団法人日本精神神経学会『[資料]相馬事件について』https://www.jspn.or.jp/modules/forpublic/index.php?content_id=19

次回はかなり長くする予定なので更新はだいぶ先になりそうです。

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