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歴代内閣考察  作者: 騎士星水波
明治時代
11/58

第9代 第二次山縣有朋内閣

あけましておめでとうございます。新年初投稿は歴代内閣考察から行きたいと思います。

 第9代 第二次山縣有朋内閣

 在任期間 1898年11月8日~1890年10月19日(711日)


 国務大臣

 内閣総理大臣 ⑨ 山縣有朋(長州藩・元内閣総理大臣)

 外務大臣 ⑭ 青木周蔵(長州藩・元外務大臣)

 内務大臣 ⑱ 西郷従道(薩摩藩・元海軍大臣)

 大蔵大臣 ⑪ 松方正義(薩摩藩・元内閣総理大臣)

 陸軍大臣 ⑪ 桂太郎(長州藩) 子爵 陸軍大将

 海軍大臣  ⑪ 山本権兵衛(薩摩藩)貴族院 国民協会会頭 伯爵 海軍大将 陸軍中将

 司法大臣   ⑬ 清浦奎吾(肥後国・元司法大臣)

 文部大臣   ⑱ 樺山資紀(薩摩藩・元海軍大臣)

 農商務大臣   ⑱ 曾禰荒助(長州藩・元司法大臣)

 逓信大臣 ⑬ 芳川顕正(徳島藩・元内務大臣)

 内閣書記官長 ⑩ 安広伴一郎(福岡藩)

 

 ◆参考

 ウィキペディア『第2次山縣内閣』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E5%86%85%E9%96%A3

 『首相官邸第2次山縣内閣』http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/09.html

 『第二次山縣内閣』http://www.geocities.co.jp/since7903/Meizi-naikaku/09-Yamagata-vol2.htm


 主な出来事

 1898年11月 第2次山縣内閣成立

          東京市役所の開庁式挙行される

          衆議院、地租増徴・地価修正法案を可決

          徳富蘆花の『不如帰』、連載始まる

      12月 地租増徴反対同盟結成

          西郷隆盛銅像除幕式(上野公園)

 1899年 1月 乃木希典、琴平宮の鎮座する雪深い象頭山上で新年宴会を催す

          勝海舟、死去(77歳)  

       2月 東京・大阪間に電話開通

          中学校令改正、実業学校令公布

          高等女学校令公布

          不動産登記法公布

       3月 著作権法公布

          正岡子規、根岸短歌会を始める

          北海道旧土人保護法公布

          現存している日本最古の星空の乾板写真。とも座の方角を撮影したもの

          文官任用令改正(政党の猟官を阻止)

       4月 横浜港を2月18日に出港した日本人790人が佐倉丸でペルー・アンコン港(カ          ヤオ港)に上陸(「ペルー日本友好の日」)

           東京に音楽、外国語学校開校

          八幡製鉄、大冶鉄鉱輸入契約締結

          日本、ベルヌ条約に加盟する

       5月 京都武徳殿、新築落成

          第1回万国平和会議ハーグで開催

          陸海軍大臣現役武官制確立

       6月 農合法公布

          阪神電気鉄道の前身、摂津電気鉄道株式会社が設立される

          台北の台湾銀行開業する

          東京の歌舞伎座で、国産第一号の活動写真『芸者の手踊り』が上映される

       7月 ビヤホール初めてあらわれる

          日本電気(通称NEC)が設立される

          新たに22港を貿易港として開港

          (清水、武豊、下関、四日市、門司、博多、口津、三角、巌原、佐須奈、鹿児島、           那覇、浜田、境、宮津、敦賀、七尾、伏木、小樽、釧路、室蘭、唐津の諸港)

          布引丸事件(フィリピン独立革命のための物資を積んだ船が東シナ海で沈没する)

          軍機保護法公布

          治外法権撤廃に依り、諸外国人の内地雑居許される

          日英通商航海条約をはじめ、以後成立の改正条約実施の第一日、横浜で米船員の殺          人事件

          要塞地帯法公布

          第1回ハーグ平和会議が終了し、ハーグ陸戦条約が締結される

       8月 私立学校令

          悪疫防止に海港検疫法実施

          森永太一郎によって森永西洋菓子製造所(森永製菓の前身)が創業

          富山市の大火(約5000戸焼失)

          横浜開港以来の大火(約3200戸焼失)

          台風により別子大水害が発生。土石流により513名以上が死亡

       9月 函館の大火(約2000戸焼失)

          最初の内外人合同劇開演(伊井容峰一派とイギリス俳優ゴーフら合同)

      10月 木下尚江・河野広中・片山潜ら、「普通選挙期成同盟会」結成

          条約改正実施祝賀式典、宮中豊明殿で挙行(大臣以下100官を招待)

      11月 赤坂離宮の観菊御宴

          憲政党、山県首相に提携をもとむ

          第14議会召集

          東京商業会議所の新築竣工する

      12月 福井銀行設立

          年賀郵便特別扱い始まる

          東京市の水道工事完成

          淀橋にて東京水道工事落成式

          政府発行の従来の紙幣を廃し、国立銀行発行の新紙幣に代える

 1900年 1月 長距離電信電話開始

          東京市がペスト予防のため鼠の買上げを開始(1匹あたり5銭)

          凸版印刷創業

          光明寺村女工焼死事件発生

          玉置半右衛門を中心とした八丈島からの開拓団により、大東諸島の開拓が開始され          る

          社会主義協会発足(社会主義研究会を改名)

       2月 足尾銅山鉱毒事件の被害者農民らが東京へ陳情へゆく途中で警官隊と衝突(川俣事          件)

       3月 未成年者喫煙禁止法公布(4月1日施行)

          治安警察法公布(3月30日施行)

          日本興業銀行法公布

          衆議院議員選挙法改正(選挙権が直接国税15円以上から10円以上に引き下げ)

       4月 東海道線列車に乗客専務車掌を乗務させる(乗務車掌の始まり)

          山陽鉄道が一等寝台車を導入(初の寝台車)

        井上円了「漢字不可廃論」発行

          福井の大火(約1700戸焼失)

          『軍艦マーチ』演奏される

       5月 東京電気鉄道(後の都電)設立

          皇太子嘉仁(後の大正天皇)が九条節子と結婚

         鉄道唱歌発行(東海道篇)

          陸軍省・海軍省官制改正(軍部大臣現役武官制)

          京都法政学校(後の立命館大学)創立(中川小十郎)

          日本初の電気自動車お目見え

          12歳以上の男女の混浴を禁止する布達が内務省より出される

          軍艦の造船を外国に注文せず、初めて千早艦横須賀にて進水

          義和団暴徒に対し、北京の各国公使対策協議決し出兵を宣言

          義和団事件に「笠置」艦派遣

          義和団に備え、各国兵北京に入る

       6月 行政執行法公布される

          内務省、清涼飲料水営業取締規則公布(ラムネ・リモナーデ・ソーダ水等)

          北京において日本公使館員杉山書記、義和団匪のため殺害される

          閣議、義和団鎮圧のため陸軍派遣を決定

          北清事変に連合艦隊、大沽砲台を占領(海軍中佐服部雄吉戦死)

          義和団の乱: 清が日本など8か国に宣戦布告

          北清事変応援のため、福島安正少将、混成旅団三大隊を率いて宇品を出発

          台湾協会学校(後の拓殖大学)創立(桂太郎)

       7月 日英仏などの連合軍、天津総攻撃

          清の孫文、日本に亡命

       8月 『萬朝報』紙上で、高徳秋水、非戦論を展開

          日本軍通州を占領

          義和団の乱: 連合軍が北京総攻撃開始(翌日陥落)

          東京府下の水害(浸水家屋約19万戸)

          幸徳秋水「自由党を祭る文」発表(萬朝報)

       9月 夏目漱石が大日本帝国文部省留学生として英国に留学

          日本初の自動公衆電話が東京の新橋駅と上野駅、熊本市内に設置

          女子英学塾(後の津田塾大学)開校(津田梅子)

          立憲政友会結成(初代総裁伊藤博文)

          岡山第六高等学校(岡山大学)の開校式

      10月  第2次山縣内閣総辞職  


 ◆参考

 ウィキペディア『1898年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1898%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1899年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1899%E5%B9%B4

 ウィキペディア『1900年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1900%E5%B9%B4

 坂の上の雲マニアックス明治時代の年表『1898年(明治31年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1898.html

 坂の上の雲マニアックス明治時代の年表『1899年(明治32年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1899.html

 坂の上の雲マニアックス明治時代の年表『1900年(明治33年)』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1900.html


 概要

 第2次山縣有朋内閣は、1898年に成立した内閣です。今回はこの内閣について考察をしていきたいと思います。まず、この内閣ですが2014年に少し話題になりました。みなさんは覚えていますか? この第2次山縣内閣は歴代内閣の中で同一国務大臣による内閣の在職日数で歴代最長なのです。2014年に第2次安倍内閣が2012年12月26日の発足から2014年9月3日まで617日を達成し戦後最長となりました。その際にこの戦後最長という文字が違和感を感じますが、戦前を含んだ際にはこの第2次山縣内閣がダントツの1位として711日という記録を持っています。この内閣は発足から総辞職までずっと同じ閣僚で内閣が続きます。

 ということで、まずは閣僚について見ていくことにしましょう。まずは、第1次の時にしっかりと語らなかった山縣有朋本人の説明から行くとしましょう。山縣は天保9年(1838年)に長州藩の中間身分の子として産まれています。その後成長していくと歴史上に名高い松下村塾に入塾することになります。この松下村塾は幕末においてとても重要な私塾です。日本史のキーパーソン。明治維新へと移行する際においてこれほど重要といえる存在はありません。この松下村塾については私が説明しなくともこの歴代内閣考察を読んでくださる皆さんならわかっていると思います。しかし、わからない人が読んでいるということも無きにしも非ずなので一応説明をしておきます。

 松下村塾は、1842年(天保13年)に吉田松陰の叔父にあたる玉木文之進が長州藩(萩藩)に創立しています。入学できた生徒は、士分であろうとも町民であろうとも身分に関係なく入ることができた。これは、当時長州藩には明倫館という藩校がありました。藩校とは、江戸時代に諸藩が自身の藩士の子息を育成するために建てた学校のことです。しかし、これは名前の通り士分しか入学することができませんでした。

 松下村塾の著名な門下生は、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、寺島忠三郎、高杉晋作などです。それに末弟子の伊藤博文、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、松本鼎、岡部富太郎、正木退蔵、前原一誠や飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎、時山直八、駒井政五郎、中村精男、玉木彦助、飯田正伯、杉山松助、久保清太郎、生田良佐、境二郎、宍戸璣(山県半蔵)などが加わると結構な数がいます。もちろんこの中には山縣もいます。そして、この松下村塾の門下生はみな明治時代に活躍するような人たちです。久坂や高杉は幕末に死んでしまいますが、伊藤、品川、山田、野村は閣僚を明治時代に経験します。前原一誠は萩の乱で有名です。

 そんな松下村塾に入った山縣ですが、師の吉田松陰が安政の大獄で刑死してしまいます。これは入塾してから数か月ぐらいのことでなかったかと言われています。その後、同じ松下村塾の門下生であった高杉晋作の創立した奇兵隊に入隊します。その後奇兵隊にて躍進し戊辰戦争で勝ち明治の世を迎えることになります。明治維新後は各国の軍事制度を視察します。そして、徴兵令を定めるなど軍事関係において十分に力を発揮します。実は、明治以前において軍事関係での第一人者は大村益次郎という人がいたのですが、彼は暗殺されてしまいます。それを補うように前面に出てきたのが山縣有朋だったのです。ちなみに大村も長州藩出身です。その後、1872年に山城屋事件で陸軍大輔を辞任するもすぐに陸軍卿として復職する。参謀本部の設置や軍人勅諭の制定に尽力する。西南戦争では官軍の事実上の総司令を務めあげる。1883年には内務卿に就任。1885年の内閣制度の施行により初代内務大臣に就任。市制・町村制・府県制・郡制を制定した。1889年には第3代内閣総理大臣に就任、第1次山縣内閣を組閣する。総理辞任後は元老になる。日清戦争でも高齢ながら現地で指揮を執る。そして、この第2次山縣内閣を組閣する。

 ここまでが、山縣の第2次内閣までの足跡です。では、次は山縣の今後について見ていきます。

 山縣はこの内閣を総辞職した後は二度と内閣を組閣するようなことはありませんでした。しかしながら、元老という地位にはい続けたため裏から日本の政治を操りました。特に陸軍の大御所として桂太郎、寺内正毅といったのちに内閣総理大臣になる陸軍出身者の後見人を自称しました。これは陸軍・内務省・宮内省・枢密院等にまたがる「山縣系官僚閥」と呼ばれる派閥の人間です。この派閥にはほかには、第23代内閣総理大臣の清浦奎吾や平田東助も含まれます。

 しかし、晩年は政党政治嫌いが原因かつ宮中某重大事件というのちの昭和天皇の妃となる香淳皇后との結婚を色覚異常を理由に取り消そうとした問題で完全に民衆からの心も離れ、政治的立場を失います。死んだ際には国葬を行われますが、そこに参加したのは政府関係者だけであり、戦後総理になりこの時はジャーナリストであった石橋湛山に「死もまた社会奉仕」とまで書かれたほどだそうです。


 他の閣僚について見ていきます。外務大臣には、青木周蔵が再び就任しています。また、内閣総理大臣経験者である松方正義、のちに内閣総理大臣になる者として山本権兵衛と清浦圭吾、桂太郎がそれぞれ海軍大臣、司法大臣、陸軍大臣になっています。地味ながら芳川顕正がまたもや内閣に閣僚として入閣しています。今回入閣した閣僚の中で初入閣なのは内閣書記官長の安広伴一郎ぐらいでしょうか。せっかくなので、彼のことについて見ていきます。

 安広やすひろ伴一郎ばんいちろうは、1859年に福岡藩士の子どもとして生まれます。1875年に上京して慶応義塾に入ってから留学して香港中央書院に入学し卒業します。帰国後、山縣と知り合い、ケンブリッジ大学に遊学して法学士の学位を得ています。その後、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部および岡山大学医学部)の教員を務めた後に明治23年(1890年)内閣書記官。内務省、文部省、逓信省を経て内閣書記官長になります。貴族院議員を務め1916年には枢密院顧問に就任します。


 さて、次はこの内閣であったことを見ていきたいと思います。

 外交的に見ればこの内閣の時に中国において義和団事件(義和団の乱)が起きました。当時中国は清王朝でした。この清はイギリスにアヘン戦争、アロー戦争で負け、フランスには清仏戦争で負け、日本には日清戦争で負けと列強に負け続けて半植民地状態となっていました。それでも大国だと思われていたのですが、日清戦争に負けたことが一番多く響きもう清には力がないということをバレテしまいました。なお、それまでは眠れる獅子と言われていました。その清において義和団という秘密結社があったのですが、これが排外主義を唱えていました。そして、扶清滅洋を掲げて反乱を起こしました。それに清国政府も便乗して反乱がおき、日本、フランス、ドイツ、アメリカ、イギリス、オーストリア=ハンガリー、ロシア、イタリアの8か国が兵を派遣して鎮圧をします。これが義和団の乱と呼ばれるものです。


 内政を見ましょう。この内閣では治安警察法が制定されています。この法律はのちの治安維持法へと通じるものですが、治安維持法が制定されても廃止されずに敗戦まで法律としての効力を持ち続けます。いわゆる、保安条例、新聞紙讒謗律などに続く民衆を抑制する法の1つです。


 今回はこのあたりとさせていただきます。次は第4次伊藤博文内閣について考察していきます。伊藤が内閣総理大臣を務めるのも次の内閣で最後となりますね。では、次の話で。


 ◆参考

 ウィキペディア『安広伴一郎』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%BA%83%E4%BC%B4%E4%B8%80%E9%83%8E

 コトバンク『安広伴一郎』https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E5%BA%83%E4%BC%B4%E4%B8%80%E9%83%8E-21984

 ウィキペディア『山縣有朋』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B

 ウィキペディア『山城屋事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%B1%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ウィキペディア『宮中某重大事件』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E4%B8%AD%E6%9F%90%E9%87%8D%E5%A4%A7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 『宮中某重大事件 / クリック 20世紀』http://www.c20.jp/1920/11kyucy.html

 ウィキペディア『第三高等学校 (旧制)』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%28%E6%97%A7%E5%88%B6%29

 ウィキペディア『義和団の乱』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E5%92%8C%E5%9B%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1

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