第8代 第一次大隈重信内閣
第8代 第一次大隈重信内閣
在任期間1898年6月30日~1898年11月8日(132日)
国務大臣
内閣総理大臣 ⑧ 大隈重信(肥前藩・元外務大臣)憲政党(旧進歩党系)伯爵
外務大臣 ⑬ 大隈重信
内務大臣 ⑰ 板垣退助(土佐藩・元内務大臣)憲政党(旧自由党系)伯爵
大蔵大臣 ⑩ 松田正久()衆議院 憲政党(旧自由党系)
陸軍大臣 ⑩ 桂太郎(長州藩)子爵 陸軍大将
海軍大臣 ⑩ 西郷従道(薩摩藩・元海軍大臣)貴族院 国民協会会頭 伯爵 海軍大将 陸軍中将
司法大臣 ⑫ 大東義徹 衆議院 憲政党(旧進歩党系)
文部大臣 ⑯ 尾崎行雄 衆議院 憲政党(旧進歩党系)
⑰ 犬養毅 衆議院 憲政党(旧進歩党系)
農商務大臣 ⑱ 大石正巳 憲政党(旧自由党系)
逓信大臣 ⑫ 林有造 衆議院 憲政党(旧自由党系)
内閣書記官長 ⑧ 鮫島武之助(薩摩藩
⑨ 武富時敏 衆議院 憲政党(旧進歩党系)
◇参考
ウィキペディア『第1次大隈内閣』 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E9%9A%88%E5%86%85%E9%96%A3
首相官邸『第1次大隈内閣』 http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/08.html
主な出来事
1898年 6月 第1次大隈内閣成立
7月 明治民法の家族法が施行され、日本の家族制度が夫婦別姓から夫婦同姓へはじめて 移行する
8月 第6回衆議院議員総選挙
日本初の国際水泳大会開催
尾崎文相の演説により共和演説事件がおこる
9月
10月 東京・京都・大阪の市制特例廃止。
日本美術院設立(岡倉天心ら)
社会主義研究会設立(村井・片山潜・安部磯雄・幸徳秋水)
尾崎文相辞任
板垣ら旧自由党系閣僚、辞表を提出
第1次大隈内閣総辞職(共和演説事件に端を発する閣内不一致)
◇参考
ウィキペディア『1898年』https://ja.wikipedia.org/wiki/1898%E5%B9%B4
『坂の上の雲マニアックス 明治時代年表 1898年』http://meiji.sakanouenokumo.jp/1898.html
◇概要
第1次大隈内閣の最大の特徴と言うのは日本初の政党内閣というところである。それは、当時制度上就任することができなかった陸軍、海軍両軍部大臣を除く閣僚が政党の者であるからだ。でも、ここで疑問に思う人もいるのではないだろうか。それは日本初の政党内閣というくだりだ。ご存知のように私達は小学校、中学校などの義務教育で日本史を学ぶ際に日本初の政党内閣は1919年に成立する原敬内閣と学んだはずだ。では、なぜそれよりも前に政党内閣があるのだろうか。その話はあと後にするが、まずは第1次大隈内閣を構成する政党についての紹介と行きたい。
この内閣が与党とするのは憲政党である。この党の名前については高校日本史選択者ならば知っているはずだ。日本史で登場するほど重要政党である。
憲政党の結党はさかのぼること……そこまでさかのぼることはない。実は憲政党は6月に結党しているのだ。6月と言うと第1次大隈内閣が発足する月だ。第1次大隈内閣は6月30日と6月の末日であるが、憲政党も6月22日と6月の終わり近く、憲政党の発足と第1次大隈内閣の発足の日にちはほとんど間隔がないのだ。では、なぜ憲政党ができたのかというと前内閣である第3次伊藤内閣、さらにはもう1つ前の第2次松方内閣直接的、間接的に原因がある。
まず、第2次松方内閣は地租増税の法案を通そうとした。これには、与党として第2次松方内閣を支えていた進歩党(大隈重信)の反発があり結果、進歩党は野党となり当時野党であった自由党(板垣退助)らとの連携を始める。第2次松方内閣はその後総辞職し、第3次伊藤内閣が成立する。第2次伊藤内閣では自由党が与党として内閣を支えていたが、伊藤は地租増税を進めたために自由党からも反発を食らってしまう。地租増税に反対する自由党と進歩党はここに合併して憲政党を結党する。
伊藤は、このことを受けて新政党(のちの立憲政友会)の結成を進めるために内閣総理大臣を辞職する。ここで、問題となるのは伊藤の次の内閣総理大臣にだれがなるかということであった。伊藤は次の総理には大隈か板垣がなるようにと言い残した。しかし、これに対して山縣が大反対した。山縣は政党嫌い、反政党の急先鋒でもあった。
伊藤は山縣の反対を押し切って大隈を次の総理にする。
こうして大命降下は大隈にされるが、それと同時に板垣にも大命降下がされる。こうして首班の大隈、板垣は衆議院議員ではなく、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)は当時軍部大臣現役武官制という制度のために陸海軍の中将以上でないと就任できなかった。ちなみに軍部大臣現役武官制が正式に明文化されるのは次の第2次山縣内閣である。しかしながた、それ以外の役職はすべて政党人が占めていたためある意味において日本初の政党内閣という言い方がなされる。
最初に言った原内閣は日本初の本格的政党内閣ということで、首班(内閣総理大臣)の原敬も衆議院議員であり議席を持っていたためにそう呼ばれる。
さて、第1次大隈内閣であるが132日という約4か月で内閣は倒れてしまう。どうしてこれほどの短命な内閣になってしまったのだろうか。
それには、憲政党の発足が浅かったというのが深くかかわっている。
皆さんは最近見たであろう民主党という巨大政党は政権交代をした後に小沢派と反小沢派によって内部分裂が起きそして、分裂2012年に行われた第46回衆議院議員総選挙によって大敗を決し政権から下野した。民主党の結党は1998年(実際は1996年)それから2009年の総選挙まで11年(13年)あったというのに党が分裂するのであるから政権発足前に成立した憲政党という巨大政党は内部隊列が激しくなります。
それは旧自由党と旧進歩党の間での閣僚ポストの奪い合いです。当時第6回衆議院議員総選挙が行われましたが旧自由党系が120議席、旧進歩党系が124議席となり計244議席。これは当時の衆議院の議席が300議席であったため81%を占めています。これは驚異的な数字です。
閣僚ポストでの問題は共和演説事件で一気に来ます。
共和演説事件というのは、尾崎行雄文部大臣が言った以下の発言が原因となって起こった事件です。
世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはできない。
これは、当時批判を受けました。どうしてかというと、天皇制の日本において大統領制の話をするとはどういうことだという言葉尻をとった批判です。
これにより尾崎は文部大臣を辞任に追われます。そして、尾崎の後任の文部大臣にだれを就任させるかで内紛が起きます。こうしたことや、行政の次官などの各役職に政党人が就いたことが行政を混乱させ結果として4か月で総辞職となるのです。
今回はここまで。
次回は第2次山縣内閣について見ていきます。