鍵屋の辻の決闘
どうも、ドラキュラです!!
夏風邪を拗らせてしまいましたが、変な気分になり時代劇小説と言えそうな物を書き上げてしまいました。(汗)
と言っても、これは言わば史実であり序章みたいな物です。
まだ投稿していない方が本編なんですが、この短編を通して読者の方々には先ず新しい小説のキャラの先祖が何をしたのか、どんなキャラだったのかを少し覚えてもらいたい意味合いで投稿します。
そこ等辺を何とぞご了承くださりつつ読んで頂ければ幸いです。
時は“寛永11年11月7日(1634年12月26日)”・・・・・・・・
江戸に幕府が築かれて、将軍は3代目に当たる徳川家光が統治していた時代に然る仇討ちが敢行されようとしていた。
場所は「隠れ国」という異名を持つ伊賀国(現在の三重県西部に当たる場所)上野城下の外れである。
その上野城下の外れは一本道が崖に突き当たるようにして丁字路になっており、その丁字路の一つ角には鍵屋が在り、その反対の角には萬屋(よろずやと言い、日用品を売る店)があった。
萬屋では4人の男達が静かに黙々と食事をしているが・・・・・格好が勇ましい。
座っていても巨漢---6尺(180cm)余りと分かる壮年の男は額に鉢金を当て、着物の上からは鋼鉄製の楔帷子を纏っていた。
しかも、腰には2尺7寸5分(83cm)の大刀と、2尺1寸3分(64cm)の片手打ちと思われる大脇差を差していて如何にも、と思わせる。
服装は動き易い事を旨としてか、地下足袋に股引を穿いており襷掛けした上から黒い羽織を纏っていた。
男の名は「荒木又右衛門」と言い、元大和郡山藩の剣術師範役をしていた身である。
その隣に居る男は緊張しており、それでいて些か頼りないが・・・・・今回は是が非でも戦ってもらわないとならない。
又右衛門の隣に居る男の名は「渡辺数馬」と言い、仇討ちを行う張本人であり又右衛門は義兄という立場から助太刀するに過ぎないのだ。
そして数馬の隣に居るのは門弟の「岩本孫右衛門」と「川合武右衛門」の計4名だったが、この4名で・・・・・・仇討ちを行う。
では、誰の仇討ちを行うのか?
その経緯は以下の通りになる。
今から約4年と11ヶ月前に遡ること“寛永7年(1630年)7月11日”の岡山藩の本城である岡山城において岡山藩藩主---「池田忠雄」の小姓である「渡辺源太夫」が同僚である「河合又五郎」によって斬殺されたのが事の発端だった。
経緯によれば美男子として忠雄公の寵愛を受けていた源太夫に又五郎が恋慕し、関係を迫るも敢えなく袖にされた事により逆上したらしい。
源太夫を殺害した又五郎は城を脱すると父と共に江戸に逃亡した。
逃げた先は旗本---「安藤次右衛門正珍」の所で、直ぐに忠雄公は江戸幕府を通して引き渡しを要求したが、次右衛門は他の旗本衆と結束して忠雄公の要求を拒絶。
これに忠雄公が激怒するのも無理はない。
何せ大名と旗本の仲は非常に悪く片や「三河以来の直参」にして、もう片やは「外様」という構図だ。
しかし、それだけではない。
事の発端である安藤家と池田家は今から約46年前---“天正12年(1584年)”に起きた「小牧・長久手の戦い」に遡る。
この戦いは徳川家康と豊臣秀吉の戦であるが、この戦いにおいて旗本の安藤家の当主だった「安藤直次」が池田親子を討った。
そして河合家は安藤対馬守家の小見川時代からの旧臣でありながら些細な事から同輩を斬り池田家に逃げ込んだ経緯がある。
ややこしい話だが、掻い摘んで説明すると河合家は安藤家に仕えていたが同輩を殺した上で池田家に逃走した上で、その池田家に仕えるも・・・・・今度は池田家へ問題を起こし再び安藤家に逃げた。
とまぁ、掻い摘んでも非常に・・・・・・ややこしい話だが、要は長い因縁が両家にはあった、と覚えてもらえると幸いである。
そして必死に探した末に・・・・・・・やっと見つけたのだ。
これは「藤堂家」からの確かな情報だと言われているが、正確な情報は全く持って不明である。
同時に茶店の主人も今から仇討ちを行われるなど知らないが・・・・・又右衛門達の格好を見て、ただならぬ気配を感じたのか怯えていた。
「・・・・親父、熱燗の濁り酒を頼む」
ここで又右衛門が箸をおいて静かに口を開いたが、鉄みたいに硬くて主人は腰を抜かしそうになりながらも熱燗の濁り酒を用意した。
それを又右衛門は3人に渡し自分も取ると・・・・・・・
「今生の別れになるやもしれんが、何としてでも・・・・・・成し遂げようぞ」
と告げて一気に飲み干す。
他の3人も一気に飲み干した時・・・・・・馬の蹄が聞こえてきた。
「来たか・・・・親父、取っておけ」
男は黒の羽織を主人に渡し、酒代も出すと静かに茶店を後にする。
そして3人も続くが・・・・まるで、何者かを待ち伏せる如く隠れるのは何故だ?
と、思いきや酒代を払った又右衛門が戻って来て「すまんが、一文ほど多かった。返してくれ」と言ってきた。
「へ、へぇ・・・・・・」
主人は訳も分からず一文を返すと又右衛門は「確かに」と言い再び走ると先ほどの場所に戻って最終確認を行った。
「良いか?相手の人数は我等より7人多い。つまり11人だ」
数の上では明らかに不利だが・・・・・・・・・・・
「戦力にして軸となるのは2人だけだ」
元大和郡山藩剣術指南役を務めた「河合甚左衛門」と、元摂津尼崎藩槍術指南役だった「桜井半兵衛」である。
「この2人は私が倒す。数馬。そなたは亡き殿の遺言を晴らす為にも・・・・・・・又五郎だけを狙え」
孫右衛門と武右衛門は半兵衛が得物である十文字槍を槍持ちに持たせたままにしろ、と又右衛門は命じた。
それに3人は頷くと・・・・・・静かに刀に手を掛けて息さえ殺して待ち続ける。
どれくらい時間が経過したのかは分からないが、数馬からすれば永遠とも言える長い長い時間であり、その時間が・・・・・ずっと続けば良いとさえ思った。
何せ数馬は剣の腕が最低と言う他なく、この上意討ちとも取れる仇討ちをやるのさえ恐怖心で一杯だった。
しかし、上意を果たさねば亡き主君の霊は浮かばれないし、自分だって野垂れ死にしか道は無い。
だからこそ姉の夫---即ち義兄に又右衛門に助けを乞うたわけだが・・・・あくまで彼は助太刀であり、宿敵である又五郎を倒すのは自分でなければいけない。
そこが非常に困難であると思いながらも覚悟を決めた時である。
パカ・・・・パカ・・・・・パカ・・・・・・・
馬の蹄の音が聞こえてきた。
「・・・・・・」
ここで又右衛門はギュッ、と両手を握り締めて息を軽く吸い、門弟たちも倣うように行うので数馬も真似る。
すると多少の気分が晴れた所で馬の蹄音が徐々に近づいて来て「いよいよ」と言った時だった。
又右衛門が腰から2尺7寸5分(83cm)の刃長を誇る伊賀守金道が鍛えた業物を引き抜き躍り出る。
「河合又五郎!元備前岡山藩が藩士の渡辺数馬が宿縁により汝の首級を申し受ける!!」
と、又右衛門が叫ぶ事で数馬も一足遅れて出て来たが威風堂々とする義兄に対して自分あ如何にも戦国の世を知らず、そして戦国の臭いも忘れ去った、と言えるような軟弱そうな男かと思ってしまった。
しかし、ここまで来たのだから最早・・・・・逃げる訳にはいかない!!
「河合又五郎!汝の御首は亡き主君である池田忠雄公の墓前に葬る!潔く尋常な勝負をせい!!」
「おお!推参なり!又右衛門、覚悟せい!!」
馬上に跨った一人の男が大刀を抜刀するなり腹を蹴り又右衛門に襲い掛かった。
その男の名は又五郎の護衛である河合甚左衛門だった。
お互いに剣術指南役として高い腕を持っている2人だが、馬上から攻撃する甚左衛門の方が有利であるが果たして・・・・・・・・・・・・
「とぁっ!!」
甚左衛門は馬上から大刀を一刀両断する如く又右衛門に閃かせるが、それを寸での所で又右衛門は右半身で躱す。
そして互いに通り過ぎる刹那に・・・・・・甚左衛門が大きく身体を仰向けにして馬上より転落した。
見れば甚左衛門の左脚は大きく斬られて、夥しい鮮血が迸っているではないか!?
しかし、又右衛門は素早く馬の腹を潜り甚左衛門に近付くと金道を大上段に構えて一気に振り下ろした。
「ぬぅっ!?」
咄嗟に甚左衛門は愛刀で受け止めてみせる辺りは流石だが・・・・まさか、愛刀を折ったばかりか楔帷子まで纏めて“圧し切る”ような荒業には勝てなかったようだ。
首を楔帷子にめり込ませる形で左袈裟掛けに斬られた甚左衛門は言葉も言えずに血を滝の如く噴出させると仰向けに倒れた。
『これで1人倒したぞ!!』
又右衛門は炎の如く昂ぶる身体を震わせつつも眼は冷静に第二の敵に向けていた。
その人物とは又五郎を護衛する者の1人---桜井半兵衛である。
孫右衛門と武右衛門の2人が半兵衛と槍持ちに斬り掛かり、槍持ちと半兵衛を引き離さんとしていた。
このままなら・・・・・・・・・!!
又右衛門は巨体に似合わない俊足で駆けるが、武右衛門の身体が大きく傾くのを見とめた。
「武右衛門!!」
「槍だ!槍を早く!!」
馬から降りた半兵衛が血を吸った大刀を片手に槍持ちを急かしつつ、孫右衛門に斬り掛かった。
「くそっ!よくも武右衛門を!!」
孫右衛門は敵とばかりに半兵衛に挑むが、槍が得物とは言え流石に半兵衛が相手では不利だった。
そして槍持ちも馬から降りて槍を渡そうとしている。
「させんぞ!!」
又右衛門は鞘の内側にある溝から小柄を抜くと走りながら直打した。
ここで少し話から外れるが、手裏剣等の最高射程距離は如何に改良しても精々が現代で言えば15m前後らしい。
小柄は手裏剣ではなく雑用に使う小刀だから手裏剣みたいに打つ事を想定した物ではない訳だ。
故に飛距離は10m前後と思われるが、又右衛門だって端から承知している。
要は相手を怯ませる事できれば良かったのだ。
功を奏したのか、槍持ちは小柄に怯んだ。
一気に又右衛門は距離を縮めると孫右衛門と入れ替わるように半兵衛と刀を交えたが・・・・・・・
「くっ・・・・・・・・!!」
本来なら槍が得物である半兵衛は又右衛門に押された。
槍持ちは主人の為にと急ぎ行こうとするが、それを孫右衛門に邪魔されて成す術が無い。
同時に残る護衛の者達も甚左衛門と言う主力の1人が斬殺された事もあってか、及び腰で半兵衛を助ける者は居ない。
「くそっ!!」
半兵衛は大刀で又右衛門の胴を払おうとしたが、それを寸での所で又右衛門は避けて逆袈裟に斬り上げた。
「ごっはぁ・・・・・・!?」
逆袈裟に斬り上げられて半兵衛は大刀を放り投げて仰向けに倒れ込むも、まだ息はあったが最早・・・・虫の息である。
「貴様っ!よくも半兵衛様を!!」
ここで又五郎に仕えていた小物が激昂し木刀を抜くと同時に又右衛門の腰を打った。
「ぬっ・・・・・・」
思わぬ反撃に又右衛門は怯むも次は冷静で振り下ろされた木刀を捌こうと試みるが、ここで思わぬ事をしてしまった。
汗ばんだ手によりボロボロだった柄が滑り・・・・・棟(むねと言い、刃の反対側)で受け止めてしまったのである。
ポッキリ・・・・・・・・・
新刀の中でも業物と評される金道が簡単に折れてしまったのだ!!
しかし、刀とは棟の方が弱いと言う。
故に・・・・・・これは折れて当然と言えたが、誠に不覚と言う他あるまい。
「ちっ・・・・・・」
又右衛門は金道を捨てると腰に差した2尺1寸3分の宇多国家の片手打ちを抜くや小物を切り捨てた。
そして残る者達に迫ろうとしたが、その者達は甚左衛門と半兵衛という主力を失った事もあってか・・・・・・蜘蛛の子を散らすように逃げてしまい、又五郎だけが取り残される形になった。
『憐れな物だな・・・・・所詮は旗本という名に胡坐を掻く下種の集まりか』
又右衛門は旗本衆に軽蔑の念を抱きつつも・・・・・・後は数馬の番だとばかりに義弟である数馬の背中を押した。
「ま、又五郎!いざ尋常に勝負!!」
「お、おおう!!」
ここまで、と覚悟したのか又五郎も抜刀し数馬と刃を交えた。
その様子を又右衛門と孫右衛門の2人は黙ってみていたが、傍らには事切れている武右衛門が居る。
「武右衛門・・・・よく見ておけ。冥途へ果てる前に数馬が亡き主君の怨みを晴らす所を」
「・・・・・・・・」
当然の事だが、又右衛門の言葉に武右衛門は冷たくなっており答えない。
それでも又右衛門は言いたかったのだろう・・・・・この仇討ちの為に死んだ者に対する手向けとして・・・・・・・・・・
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
どれくらいが経過したのだろうか?
又右衛門が甚左衛門と半兵衛の2人を倒すのに一刻(約30分)掛かったのに対し、数馬と又五郎の勝負は・・・・・・二時(一時が2時間の為、計4時間)経っても終わらない。
ただ、お互いに刀を交えた事もあってか・・・・・傷だらけで汗ばんでいる。
しかし、後一歩---いや、止めの一撃が足りない。
両人揃って剣術に疎かった事もあるが、見ている方から言わせれば・・・・じれったい。
「又右衛門様・・・・・恐れながら貴方様がやる訳にはいかないのですか?」
孫右衛門が低い声で又右衛門に言うが・・・又右衛門は首を横に振った。
「駄目だ。これは数馬が成し遂げなければ意味が無い。我等は助太刀という立場だ」
故に数馬が又五郎に最後の一撃を与えなければ・・・・・・仇討ちは成功したと言えないのだ。
「・・・・・・はっ」
孫右衛門は一応の納得を示すように相槌を打つが、心中は余りにも長すぎる勝負に苛立ちを隠せなかった。
自分達が旅をした年月に比べれば短いが・・・・・ここまで目の前で何時になったら決着が着くのか分からない勝負は見ていて辛い。
じれったい・・・・・早く決着を着けろ、と孫右衛門が思った時である。
「数馬!亡き主君の怨みを晴らさんか!!」
又右衛門が腹から声を出して数馬を震えさせる。
なるほど・・・・直接の手は出せないが、ここ等辺は良いのだろう。
義兄の又右衛門に激励されて数馬は刃毀れした大刀を垂直にすると渾身の力を込めて身体ごと又五郎に突っ込んだ。
いわゆるヤクザ突きだが、捨て身の一撃に又五郎は避ける事も出来ず脇腹を刺されて倒れ込む。
「・・・・・・・」
ここで又右衛門が前に出ると数馬を退かし息も絶え絶え・・・・・虫の息である又五郎に止めの一撃を与えた事で又五郎は絶命した。
「見事だ、数馬」
我らの悲願、ここに成就した!!
高々に宣言する又右衛門に数馬と孫右衛門は涙を流して主命を果たせたと喜び、遠くから見守っていた藤堂藩の者達も労うように眼を細めた。
かくして長きに渡る大名と旗本の確執は大名側の勝利という形で幕を下ろした。
この決闘において又右衛門側の被害は武右衛門1人が死亡、数馬と孫右衛門の2人が重傷、そして又右伊右衛門は軽傷という形に済んだ。
しかし、又五郎側の被害は五郎、甚左衛門、半兵衛を含めた4人が死亡、2人が負傷、5人は無傷で脱走であった。
見事に仇討ちを成したが、これにより旗本の怨みを完全に買った事に又右衛門達はなったが、直ぐに藤堂藩が彼等を護衛した後に4年間預かりの上で鳥取藩に引き取られた事で事なきを得た。
ところが寛永15年(1638年)8月13日に鳥取に到着してから僅か17日後に鳥取藩は又右衛門と数馬の死去を発表し世間を驚かせた。
余りにも突然の死去という事も在り旗本の毒殺説、または仇討ちを終えた事での過労死、務めを終えた後に脱藩を悔いての切腹、そして鳥取藩での権力争いの謀殺等と幾つもの仮説が生まれた。
鳥取藩の侍医の小泉友賢が著作の「因幡民談記」においても又右衛門の死は僅か三行だけ記され後は空欄となっており真相は謎のままだが、後世でも再び起こる決闘については以下のように書き足されていたらしい。
『荒木又右衛門・・・・・まさか、先祖に続いて子孫まで同じ場において仇討ちを成し遂げようとは誠に摩訶不思議なり』
鍵屋の辻の決闘 完
実際、又右衛門の死は今でも謎ですが、鳥取入りしてから5年後に死んだという話もあり、または交渉が打ち切られて故郷に帰ったとも言われております。
ただし、それは当事者のみが知り得る歴史の特権で我々は想像しか出来ないのが歯痒い所でありますが、ね。