馬車馬令嬢の覚醒
「皆様、これまでご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした」
そう言って頭を下げた瞬間、何かスッと冷えた感覚があった。
不思議に思いそっと顔を上げると、困ったような怒ったような曖昧な表情の婚約者の家族たち、心配そうな表情で何か言いたげな使用人たち、そして――にらみつけてくる婚約者と目が合った。
「おい、今の内容を全て書き留めたな? 誰にでもすぐに見せられるよう、応接室の引き出しに保管しておけ」
婚約者であるヤーテが執事長へ指示する。
「これもお前のためなんだよ、アリンカ。ここで悔い改めることができてよかったな? 恥ずかしい思いをしただろうが、これからは反省して慎ましく過ごすといい」
「本当ね、ヤーテ」
そう言いながら歩いてきた女性が、ヤーテに寄り掛かった――愛人のロスカだ。
ヤーテは優しく微笑むと、そっとロスカの肩を抱き寄せた。
「皆よく聞いてくれ! アリンカは本当に仕事ができずお前たちに苦労をかけた。監督できていなかった俺の責任だ。そこで、今後の屋敷の管理はこのロスカに任せようと思っている」
使用人たちが騒めいた。
「もちろん正式な婚約者はアリンカだ。俺はこれからもアリンカを大事にするよ。ただお前たちもアリンカでは不安だろうから、今後はロスカの指示に従ってくれ。アリンカ、お前も分かったな? ロスカの指示は俺の指示だと思え。逆らわず、言われたことだけをやるんだ。無駄な口をきかず、余計なことをするなよ」
「かしこまりました。それでは私がこの場にいてはお邪魔でしょうから、本日はこのまま下がらせていただきます」
被せるように言って頭を下げ、返事を待たず早足に広間を出る。
そして、結婚に備えて与えられていた離れの自室へ戻り、大人しく――しているわけもなく、実家であるカメリ公爵家へ戻るべく荷造りを始めた。
「馬鹿らしい! あんな命令に従うわけないでしょう」
どうして今までヤーテを妄信していたのか。どうして愛していたのか。
「そもそも愛していたかしら? あら……私、いつの間にか何もかもどうでもよくなっているわ」
荷物を詰め終わり、トランクの蓋を閉めた。驚くほど荷物が少ない。
理不尽に頭を下げさせられたあの瞬間、もう全てがどうでもよくなった。散々ひどい扱いを受けてきたが、愛人に実権を握らせて、世間体のためにお飾りの正妻だけは確保しておこうだなんて。馬鹿にしすぎている。
あの冷えた感覚――
あの時、やっとアリンカの目は覚めたのかもしれない。
トランクを持って部屋を出たところで、侍女長が走ってきた。
「アリンカ様!」
「……ごめんなさいね。私はもうここにはいられないわ」
「分かっております、分かっておりますとも! こんなにひどいことはありません!」
侍女長はアリンカの手を握り、涙を浮かべた。
「アリンカ様にずっとお仕えしたかったです。ですが、ヤーテ様と添い遂げられる必要は微塵もございません。――ご実家へお戻りになるのですね? すぐに馬車を手配いたします。ヤーテ様に気が付かれないよう、もうしばらくお部屋の中でお待ちいただけますか」
侍女長や執事長も含め、よくしてくれた使用人たちも多かった。もちろん、甘い汁を吸いたいがために、ロスカにいい顔をしていた使用人もいたが。
用意してもらったお茶を飲みながらしばらく待つと、上機嫌のヤーテとロスカが町へ出かけて行った。きっとまたロスカのための高価なドレスでも買いに行くのだろう。この家に来てから、アリンカへは一度も贈り物などなかったけれど。
そうこうしているうちに、侍女長が呼びに来た。
「アリンカ様、お待たせいたしました。他のご家族は、本邸の方で執事長が相手をしております。今のうちに馬車へどうぞ。――どうか、お元気で」
カメリ公爵家へ着くと、玄関前で両親が待っていた。侍女長が知らせておいてくれたようだ。
「お父様、お母様、申し訳ございません」
「いいのよアリンカ、あたなは何も悪くないわ」
「そうだとも。我々がもっと早く気が付いていたら……お前をこんな目には遭わせずに済んだのに。すまない」
「お母様……お父様も……ありがとうございます」
両親の顔を見て安心したのか、アリンカは涙が止まらなくなった。
その日は夕食も食べず、そのまま朝まで泥のように眠り続けた。
意外なことに、そのまま1週間ほど穏やかな時間が過ぎた。
なんとヤーテとロスカはあのまま旅行へ出発し、ヤーテの家族たちは、アリンカが離れにいないことにも気が付いていなかった。普段から、離れに籠りきりで仕事をしていたためだろう。あの屋敷の人々は、アリンカがいつも通り仕事をしていると思い込んでいたのだ。
その間にカメリ公爵家では、スルンミ侯爵家有責での婚約破棄の用意を進め、手続きのため王宮へ報告を行った。そして上位貴族同士の婚約破棄のため、後日、王家同席の上で話を進めることとなった――のだが。
報告を行った翌日、突然、カメリ公爵家へ第二王子のジョエルが訪れたのだった。
「先触れも出さずにすまなかった。公爵も同席してくれて構わないので、アリンカ嬢と話をさせてもらえるかな」
「ジョエル殿下、本日は――」
「公爵、アリンカ嬢も……これは非公式な場だ。どうか昔のように気楽に話してほしい」
アリンカとジョエルは幼馴染だ。父の仕事に付いて王宮へ行くことの多かったアリンカは、ジョエルのよき遊び相手だった。王も父も、2人さえ良ければ婚約をと考えていたところへ、先にスルンミ侯爵家から、アリンカへ婚約の打診があった。
スルンミ侯爵家は反王家派と言われていた。王家派のカメリ公爵家とは敵対関係にあったが、後継者のヤーテがあまりにも頼りなく、家の存続のために優秀な妻を迎える必要があった。しかし当時、爵位の釣り合う家の中で、年頃の娘がいたのはカメリ公爵家のみだった。
王家派と反王家派、それぞれの筆頭貴族が繋がりを持つ、それも王家派のカメリ公爵家が強い立場という形で。それは王家にとっても大きなメリットだった。そのため、アリンカとジョエルの婚約話は立ち消え、アリンカはヤーテと婚約を結んだのだった。
「公爵、アリンカとヤーテの婚約が破棄されると聞いた」
「おっしゃる通りでございます。相手方との話し合いはこれからですが」
「アリンカはその……ヤーテのことはもう何とも思っていないのか」
「殿下、私は」
「アリンカ。昔のように話して」
「……ジョエル様、私はそもそもヤーテ様のことを好いていなかったのです。私は、私の能力が役に立っていると、あの家で、あの家の仕事において、私が必要とされていると思って、舞い上がっていただけなのです」
「敬語もいらない。昔のようにと言っているんだよ、アリンカ。……何があったのか話してくれる?」
「……私は、自分で言うのも何だけれど……その、これまですごく努力してきたと思うし、何かひとつ突出して優秀というわけではないけれど、割といろいろできる方ではある……と思うの」
「事実、君は全てにおいてかなり優秀だよ。何かに特別秀でている者ももちろん素晴らしいが、君は全てにおいて満遍なく、他の者よりずっと優秀なんだ。それは間違いないし、とてもすごいことだよ。努力してきた過程も含めて誇るべきことだ」
「ありがとう……でもヤーテ様は、それが気に入らなかったの」
ヤーテは、アリンカが褒められると必ず横やりを入れた。手柄は横取りし、調子に乗るなと言い続けた。
突出したものがないお前には、屋敷の女主人などできやしない、俺が矢面に立ってやっているから成り立っているのだ、と言う。
ヤーテを立ててやり、私の仕事はあなたを支えることですからと返せば、優秀な人間でないと人を支えることなどできないんだ、お前にはそんなこと無理だろう、と言う。
毎日毎日、わざわざアリンカを押し込めた離れにやってきては、文句を言い捨てていく。
毎日毎日、お前は陰気臭くて顔も良くない、ロスカを見習え、こんなに愛嬌があって可愛らしい、と愛人を連れてくる。
――お前は仕事ができない、ちょっと褒められたからと調子に乗るな、俺が指示を出すから言ったとおりにだけ動け。
――お前は器量が悪いから人前に出るな、俺に恥をかかせるな、社交にはロスカを連れて行く。
それなのに、アリンカの前には毎日大量の仕事が積まれる。
食事もそこそこに、朝から晩まで寝る間も惜しんで働く。
周囲の人々の中には、頭が悪く仕事ができないため、社交は愛人に任せ、その間に馬車馬のように働いている――馬車馬令嬢、などと揶揄する者も現れた。
少しずつ少しずつ、アリンカの自尊心は失われていった。
そしてあの日、突然、屋敷中の人間が広間に集められた。
これを全員の前で読み上げろ、そして頭を下げて詫びろと、ヤーテから紙を渡された。
『仕事が遅く、使用人の皆様にご迷惑をおかけした』
『夫に相手にされない寂しさを埋めるため、忙しい使用人の皆様の手を止めさせ、自分の話し相手をさせた』
アリンカは涙を堪えてそれを読み上げ、頭を下げ……
馬鹿らしくなり、何もかも捨てて帰ってきたのだ。
話を聞き終わったジョエルは唖然としている。
公爵は怒りで顔を真っ赤にしていた。
「――言いたいことは山ほどあるのだが、まずはアリンカ、本当に頑張ったね。よく帰ってきてくれた」
ジョエルの言葉に、アリンカは微笑み返した。
「ありがとう。思い出すと苦しくて……涙が出ることもあるけれど、今は清々しい気持ちよ。早く縁を切ってしまいたいわ!」
「だが、それだけの役割をアリンカが担っていたのなら、婚約を破棄するにしても、スルンミ侯爵家はかなり抵抗するのではないか」
「仕事内容は全て手順書を作成しているから、あれをきちんと読めば誰でもできるはずよ。そもそも本来は私の仕事ではないのだし……。でも念のため、資料を侯爵様へお渡しするよう、出てくる前にあちらの執事長に言ってきたわ」
「きっと読んでもいないから、今はまだ騒いでいないのだろうな……でも、愛人がいるのも、その愛人に屋敷の管理を任せると言ったのも、使用人たちが見ているんだよね?」
「そうね。全員を集めていたもの。厨房は夕食の仕込みの最中だったでしょうに、本当に全方向へ迷惑な人!」
「ぶふっ……ふふ、本当にヤーテのことはどうでもいいみたいだね」
「当り前じゃない。あんな人と結婚なんて絶対にお断りよ!」
「じゃあ、僕と結婚するのはどう?」
公爵が慌てて立ち上がった。
「殿下! 婚約破棄も済んでおりませんし、娘はまだ……」
「公爵の心配も分かるよ。ただ今日は、僕がそのつもりでいるのを、公爵とアリンカへ伝えに来たんだ。このことは父上――陛下も承知しているよ」
ジョエルは真っすぐアリンカを見た。
「……アリンカ、君とヤーテの婚約が決まった時に、僕は身を引くつもりだったんだ。でも、本当はずっと君を思っていた。どれだけでも待つから、どうか考えてみてほしい」
真っ赤になったアリンカは、こくこくと頷くだけで精一杯だった。こんなに真っすぐ好意を伝えられたのは初めてで。
その話はそこで終わり、ジョエルは公爵に見送られ王宮へ帰って行った。
(どうしましょう……ジョエルが優しい人なのは知っているわ、でも急すぎる!)
ここのところ、ふとした瞬間にスルンミ侯爵家での日々が頭に思い浮かんでは、ぎゅっと身体を縮めて苦しい気持ちに耐えていた。眠っても、あの家へ連れ戻される悪夢にうなされて飛び起きた。
でも今夜からは、別のことに悩まされて寝付けないかもしれない。
婚約破棄の手続きを行う日がやってきた。
今日でスルンミ侯爵家を出てから2週間が経った。数日前、王宮からスルンミ侯爵家へ婚約破棄についての書状が届き、あちらはそこで初めて、アリンカがいないことに気が付いたらしい。
同じ日に旅行から戻ったヤーテとロスカも大騒ぎし、カメリ公爵家へ突撃してきた。もちろん門を通ることすら許されず、今日に至る。
王宮の応接間に、王家と宰相、記録係の書記官、そしてカメリ公爵家とスルンミ侯爵家がそろった。
宰相がゆっくりと全員を見回して言った。
「それではこれより、カメリ公爵家とスルンミ侯爵家の婚約破棄について、手続きを進めるための事実確認を行います。概ね婚約破棄について承認する方向で調整が済んでおりますが、高位貴族同士の婚約のため、この場で双方の合意の上、陛下の承認を頂戴する形となります」
宰相がカメリ公爵を見た。
「それではまずカメリ公爵から、こちらの資料を読み、事実に相違がなければご署名をお願いいたします」
「お待ちください!」
大声を上げ、ヤーテが立ち上がった。
「ヤーテ! ……大変申し訳ございません! 発言の許可を頂けますか」
ヤーテを抑えながら、スルンミ侯爵が膝をつく。
王が小さく頷いたのを確認した宰相が、どうぞ、と手で合図をした。
「発言をお許しいただきありがとうございます。まず結論から申し上げますと、当家はこの婚約破棄を承諾いたしません。そもそも、アリンカ嬢は我々に何も言わず、突然家を出たのです。話し合いの場を設けようにも、カメリ公爵は一切応じず、こちらの言い分も聞かずでして……。これで王家の方々まで巻き込んで、突然婚約破棄と言われましても、あまりにも道理が通らないのではありませんか」
「父上の言う通りです! 突然アリンカが出て行って、どれだけ私が心配したか……。屋敷の仕事も滞っています。今戻れば咎めませんが、無理に婚約破棄するというのなら、慰謝料を請求いたします!」
鼻息荒く言い切ったヤーテに、スルンミ侯爵までギョッとした顔をした。
眉間を押さえてひとつ息を吐き、カメリ公爵が発言の許可を求めようとした。しかしそれを、アリンカが制した。
「陛下。私に発言の許可を頂けますか」
「アリンカ嬢、どうぞ」
宰相に促されアリンカが立ち上がり、真っすぐにスルンミ侯爵を見た。
「ひとつずつご説明と、反論をさせていただきます。まずスルンミ侯爵のおっしゃった『突然家を出た』、こちらについてですが、私は家を出る前に執事長と侍女長へ伝えております。また、執事長を通して、スルンミ侯爵へ屋敷の仕事に関する資料をお渡ししたはずです」
「それは……その、そんな内容だとは思わず」
「次に、『カメリ公爵家が話し合いに応じなかった』、こちらはそもそも、スルンミ侯爵家を出てから1週間以上音沙汰がなかったところへ、突然そちらのご子息が、先触れもなく連日押しかけられて来られました。これは話し合いを行うために来られたのではなく、わが家へ押し入ろうとしただけですわ。スルンミ侯爵家からの連絡や書状は一切受け取っておりません」
「うるさい! お前はいつも屁理屈ばかり捏ねやがって!」
アリンカは目を細めてヤーテを見た。
「続いて、ヤーテ様が私を心配していたとおっしゃったことですが……あり得ませんわ。私がスルンミ侯爵家を出たことに1週間も気が付かず、その間仲良く愛人の女性と旅行されていたのですって? そもそもそちらの家にいた間、あなたに愛をささやかれたこともなければ、食事を共にしたこともありませんでしたね。これで私の何を心配するとおっしゃるのです」
「陛下! この女は嘘をついています!」
「最後に、慰謝料を請求する……でしたかしら? おかしなことをおっしゃるのね。私はまだヤーテ様の婚約者という立場で、ヤーテ様も後継者とはいえまだ家督を継いでいらっしゃるわけではありません。屋敷の仕事はスルンミ侯爵がなさることで、屋敷の管理は侯爵夫人のお仕事ですわ。そもそもの前提として、私が行っていたことがおかしいのです。……あらいけない。これは秘密にしないといけなかったのかしら?」
スルンミ侯爵の顔が青くなった。
アリンカに仕事を押し付けるのが当たり前になって、そんな単純なことも忘れていたのだろうか。
「そういうわけですので、屋敷の仕事が滞ることについて私に責任はございません。それで慰謝料を請求だなんて、本当におかしなこと! ――慰謝料は、こちらが請求させていただきます。ヤーテ様の不貞と、スルンミ侯爵による私への虐待で、そちらの有責です!」
「アリンカ、貴様ぁっ!」
ヤーテがアリンカに飛びかかろうとし、ジョエルに取り押さえられた。
ヤーテが振り回した手がジョエルの顔に当たり、部屋の外から飛び込んできた騎士に捕らえられた。
「陛下! ジョエル殿下! 大変申し訳ございません! 息子は故意に殿下を傷付けようとしたわけではございません……どうかお許しください……」
「ジョエル、怪我はないか」
「問題ありません、父上。こんな軟弱な男に傷を負わせられるほど柔ではありませんので」
「ふむ。スルンミ侯爵、その様子を見る限り、アリンカ嬢の証言が正しいと見てよいな?」
「陛下……それは、その……」
「君の息子の周囲の人間から、『アリンカ嬢はスルンミ侯爵家の仕事に追われて馬車馬のように働いている』という証言も得ている。また社交の場に、アリンカ嬢ではない別の女性を伴っていることも確認済みだ。――宰相」
「は。ロスカ嬢とおっしゃるそうです。一応、男爵家のご令嬢ですね。周囲にスルンミ侯爵家での出来事をよく話していたようで――証拠としては十分ですね。裏付けが必要かと思いますので、これからスルンミ侯爵家へ使いを出し、使用人の話も聞いて参りましょう。よろしいですね、スルンミ侯爵」
「いや、その、……アリンカ嬢! すまなかった! 謝るよ、この通りだ。息子を好きなようにさせていて悪かった。厳しく言っておくから……また我が家へ戻ってきてくれるね? 愛しい娘よ」
アリンカは真顔で見つめ返した。
「スルンミ侯爵の娘になった覚えはございません。私がヤーテ様に侮辱された時も、仕事を押し付けられた時も、皆の前で頭を下げさせられた時も……見ているだけでしたね。確かにあなたから直接何かされたことはありません。でも助けられたこともありません。全て知っていて、ご自分のために見て見ぬふりをして、私を犠牲にしていましたね。自分は何も悪くない、ヤーテ様だけが悪いと思っていらっしゃるのなら大間違いです」
ジョエルが、アリンカをかばうように前に出た。
「父上、もうよろしいのでは? スルンミ侯爵家の使用人の証言は裏付けとして必要でしょうが、この場で婚約破棄の署名をさせて問題ないと思いますが」
「だろうな。カメリ公爵、スルンミ侯爵、それぞれの書類にこの場で署名したまえ」
宰相がスルンミ侯爵へも書類を渡す。
「スルンミ侯爵、余計な罪状と慰謝料の上乗せをされたくなければ、この場でご署名なさるのが賢明かと思いますよ」
スルンミ侯爵がうなだれ、渋々といった様子で署名をする。
さすがにヤーテも、王宮の騎士に捕らえられてからは大人しくなっている。
「――ではこれで、カメリ公爵家アリンカ様と、スルンミ侯爵家ヤーテ様の婚約は破棄されました。スルンミ侯爵家への処分と、慰謝料の詳細については、後日追ってご連絡いたします」
「私からもいいだろうか」
ジョエルがアリンカの前にひざまずいた。
「アリンカ嬢、婚約破棄の直後で混乱されているだろう――だがどうか、私の思いを受け取ってほしい。私と婚約してくれないか」
ジョエルがアリンカの手を取り、軽く口づけをして続ける。
「あなたほど可憐で、あなたほどひたむきに努力する人を見たことがない。私はその努力に必ず報いると誓う。一生をかけて大切にする」
ジョエルがカメリ公爵家を訪ねた日以降、毎日手紙と花が届けられていた。
アリンカへの気遣いにあふれた温かな言葉、ジョエルの心に触れたアリンカの返事は決まっていた。
「……ジョエル殿下……はい、私でよろしければ、どうぞよろしくお願いいたします」
ジョエルがアリンカを抱きしめた。
「ありがとう! 絶対に大切にする! 愛しているよアリンカ!」
王と宰相が拍手した。
応接間が温かい空気に包まれる中、再び騒ぎ始めたヤーテは猿轡をされて引きずり出され、残りのスルンミ侯爵家の面々は静かに退出して行った。
アリンカとヤーテの婚約破棄は、大きな話題となった。
ヤーテとロスカが吹聴していたアリンカの噂は嘘だったこと、どれほどアリンカが優秀であるか、またアリンカがジョエル第二王子と婚約したこと――。
スルンミ侯爵家は、婚前の婚約者に仕事を押し付けていたことで処分を受けた。家督はヤーテの弟のヴィネンが継ぎ、前侯爵夫婦は隠居した。またヤーテは勘当され、強制的にロスカの実家へ婿入りすることになり、スルンミ侯爵家の力は確実に落ちて行った。反王家派の動きも、目立たなくなって行くだろうと噂されている。
ある時、王宮で王子妃教育中のアリンカと、家督の引継ぎ手続きに来ていたヴィネンが鉢合わせた。
ヴィネンは家族内で立場が弱いこともあり、表立ってアリンカの味方はしなかったものの、元々同情的ではあった。
「アリンカおねえさ……いえ、アリンカ様、ご無沙汰しております。」
「ごきげんよう、ヴィネン様。本日もお仕事ですか」
「ええ。……正直なところ、ここまで大変だとは思っていませんでした。私からも改めてアリンカ様にお詫び申し上げます」
(なんだかんだ言って、この方も私のことを軽んじていたのね。それをここで口に出せてしまうあたり……これから苦労なさるといいわ)
アリンカは顔には出さなかったが、会釈だけで返事をし、踵を返して二度と振り返らなかった。
そして、スルンミ侯爵家では――
「これ、処分してよろしいですね?」
侍女長が手に持った書類を執事長へ見せた。
「もちろん。こんな不名誉なもの、アリンカ様のためにもこの世に残しておくわけにいかないからね」
あの日、アリンカが全員の前で頭を下げ、謝罪させられた内容を記した書類。
執事長が暖炉に火をくべ、侍女長が真っ二つに破って火の中へ放り込んだ。アリンカの不名誉は、名実ともに燃えて消えた。
「アリンカ……なんてきれいなんだ」
婚約から1年、今日はアリンカとジョエルの結婚式だ。
純白のドレスを身にまとったアリンカを、ジョエルはそっと抱き寄せた。
「ここまで来るのに何年かかっただろう……諦めないでよかった、この腕に堂々と君を抱ける日が来るなんて夢みたいだ」
「ジョエルったら……しっかりして、まだ結婚式も始まっていないのよ」
「そうだけど。では今日をしっかり乗り切るために、僕にプレゼントを頂けますか」
「プレゼント?」
「愛してるって言って」
アリンカは真っ赤になった。恥ずかしくて、これまで一度も口にできずに今日まで来てしまったのだ。
「アリンカ? いいでしょ? 結婚するんだよ」
「……もう、昔の甘えん坊ジョエルに戻ったみたいね」
「――僕は、ずっとアリンカを愛してるよ」
「……っ」
ジョエルがアリンカへ向き直り、両手を握る。
「お願い。聞きたい」
アリンカは、潤んだ目でジョエルを見つめ返した。
「……ジョエル、私もあなたを愛しているわ。この世で、あなただけに私の愛を捧げます」
「アリンカ……! 本当に愛してる! 一緒に幸せになろう」
2人の唇が、初めて重なった。
アリンカとジョエルの結婚式には、国中から多くの人々が駆け付けた。2人が王宮の窓から顔を出すと、集まった人々の大歓声に迎えられた。
国中の人々に祝福されたアリンカとジョエルは、後に新たな王になる王太子夫婦を支え、王国の発展に寄与した。
4人の子にも恵まれ、いつまでも仲睦まじく、幸せの象徴として後世にも語り継がれる夫婦となった。




