欠損
や、いや、なんだかお皿が割れるときの音って色々欠損しているなぁって、遠眼鏡をかけたままずっと思ってて、思いません?砕けるより割れるということの、如何ともし難い欠損具合が私の喉奥でがぁっと詰まっていて、ひとたび声を出そうとすれば唾液に濡れたその大事な喉笛という部を切り裂こうとしてくる、だからこうして筆談している私のまんま目の前で、姉は平気な顔をして問いかけている。
「ね、知ってる?家の脇に流れてる川、しょっちゅうクラゲが降りてくる川あるじゃん」
<クラゲ?>と私はノートに書き込む。ノートには一面、私の発言で埋まっていて、でも姉の言葉はないから私だけ真っ黒な活字だな、この筆談という事実自体結構危険だな、と思う。言い逃れしてみたかったのに。
「クラゲ。白く濁ったものが水面を流れていて、あれクラゲじゃないの、とうとう川に生息するタイプの新種が生まれたの、って前二人で盛り上がったじゃん、土手から身を乗り出して目をこらすその三秒、その三秒のうちに頭の中では私たちが水族館で見たクラゲの数々とコンビニでよく見るロゴの入ったビニールの袋とが重なっていって、違うなあれ、クラゲじゃないな、と、なるけれどあの三秒が結構大事って話をしたじゃん、だからあのクラゲが降りてくる川」
ああ、そういうクラゲ、と思いながら<そうだったね>と相槌。
「あの川って日本で一番汚い川らしい。商店街の外側にある、なんていうんだっけ、あの四角くて全部おんなじ顔の家。あ、そう、タテウリ住宅。あれができて、工場もできて、橋を渡ったところの商店街もだんだん屋根の色が薄くなってて、そのせいで川が汚いんだって。コンビニが全部悪いんだって」
<ニュースの話?>
「そう、これが今朝のニュースの話。」
姉はやけにしんみりした顔でいった。なんか最近よく見るなこの顔、量産型女の子、泣き散らかす女の子、よく人のせいにする学校の嫌な女の子、お姉ちゃんドラマの女の子みたいだね、とノートに書こうとしてやめた。でもお姉ちゃんまで書いてしまったから言い逃れできなくて、ああやっぱりこれは不平等なんではないの、ふっとたち消える姉の言葉の数々のかけらを思い浮かべながら、<お姉ちゃん、ねぇ、川を見に行こうよ>それを書き終えてノートを閉じる。姉は玄関に向かう私を駆け足で追いかけてきた。少しの優越に浸りながら服を羽織って扉を開き、家の脇にある犬小屋を見た。犬小屋は空だった。空は青かった。
「だからさ、今朝のニュースの続きなんだけど」姉は歩きながら喋った。喋るのが止められないの、喋れてしまう私と喋れないあなたのせいで、と彼女が言っていたことを思い出す。
「家っていうのはふつう川から少し離して作られるし脇に小さな用水路を作って船が通れるようにすると商売もできるから全部解決ですっていう感じで全国のどこの都市も完成されてるのね、でもどうしてかこの川は私たちを離してはくれずしかも何かをくれるわけでもない、何もない、遠くに流れたまま流されっぱなしの何かを引き継いで自然は美しいって感じの顔をしてるだけなのに」
玄関の左右には同じような顔をした家が並んでいて、玄関のくっついた四角形も同じような顔をしてそこに建っていた。声をあげて捻り潰したくなって、でも喉が裂けてしまうのでやめた。私はたぶん、姉よりずっと考えているはずなのに、いや、だからこそ、姉より喋るということができなくなってしまっていて、砕けるというより割れること。砕けたと言えるほどに小さく小さく私が理解できらた飲み込めるのにと都合よく考えてしまっている。
「そのままで、私たちはどうしてこんな場所の家で、白い壁と黒い屋根と市販の人形の群れの内側で、裂傷のような狭い扉を潜り続けて、毎日学校にいる。疑問はないよね。持とうとしてなかったから」
私たちのそばを小学生の男女が走り抜け、彼らはきっと私たちが見えているのに見えていない、関係ないから瞳孔を開かない、少し先で立ち止まるとゆびきりげんまんを始めた。将来結婚しようと話し合っていた。市販の人形の脆く崩れそうな小指を想起してしまって、その誤解がガラスみたいに、辛い。
「毎日の学校から自宅に帰ってそこでも人形を食べるようにカステラを食べる。カステラ美味しいよね。甘いし。でも川は流れて、自然みたいな顔をしていて、私たちも人間の一部みたいな顔をしているのに私はいつまでも私なんだよね結局、私は私なの。人間じゃないの。私なの。もう誰って感じ?逃げたがってるのかもわかんないしグチャグチャしながら、ああ、水浴びしたいな。
ま、でも、家に帰らなきゃ」
姉はだんだん微笑んでくる、姉の口調が段々と普通になり始めて私は安心する、彼女の第二関節が俺た人差し指はまっすぐな曲線として自宅を指さした。いつ、家に着いたっけ。姉といると瞬間移動の連続だし、さっきまで小学生だったのに今は高校生の見た目になっている。綺麗な黒髪にメガネをかけた彼女の後ろ姿で、私は髪を握りしめた。ブリーチをかけすぎた金髪はひどく傷んでいる。
姉が家に近寄る。犬小屋の場所にはこんもりとした小さな山が代わりに立っており、姉の手は土で濡れていた、湿った地球。水のように湿った土。足元をみる。私の靴には長靴が履かされており、私の周りだけ豪雨が降り続いたあとの校庭のような地面の塊があった。雨が降っている泥だらけの校庭は、服が汚れるし、第一に風邪を引いてしまうから絶対に遊んではいけないんですけど。校長先生に怒られない?これ。高校生にもなって外遊び。
「私たちは雨の公園で遊んでいるはずで、でも学校はいっつも行く場所だから、まぁここにくるのは仕方ないかも、かも、かもの話を今してる」
姉がしゃがんで足元の泥に肉薄し、右手を素早く差し出すと人差し指に泥をすくった。舐めた。赤い舌が姉の青い唇から出し入れされる。汚いよ。風邪引くよ。どちらを先に心配すればいいのかわからなかった。
「でも、風邪を引くよりずっと大事な話として、あなた、前水浴びしたよね。それ覚えてる?」
姉はしんみりと言って、曲がった指先がまた私の頬を引っ掻く。
「そこであなたは妊娠して、しかも、それを産もうとしてるよね」
川には魚が泳いでいる。ゴミが流されている。九割のゴミに隠されて一割の魚は埋まって水が干からびて早々に窒息死している。
初潮を迎えていない子宮、姉は私の近くにいて、お腹をさすった。姉の雰囲気はもう成人女性ほどだろうか髪はボサつきお情けの化粧は義務のように顔にへばりついていた。義務みたいに、姉の手を上から押さえてみると、彼女は手を翻し私の指に絡ませた。伸びた爪の先が痛かった。社会人にもなって改まって手を繋ぐのなんだかあれだな、とずっと思っていたのになんだか懐かしくなって、ああ、これは、お姉ちゃん。お姉ちゃん。と、今まで読んだことのない名前が浮かんでは消えていく、消えるたびに風船みたいな大きな音を立てる、破裂音が全部あなたの名前みたいに聞こえて、私はずっと名前を知っていた。
川に流されてしまってから、お腹の子が、どしん、と蹴り続けています。




