嘘吐き
ソレがものを言っているところを一度だって見た者はその場にいなかった。
そしてソレは喉を掻っ切られる最期の瞬間ですら、うめき声一つ立てはしなかったのだ。壊れた人形のように喉から血を垂れ流してソレは転がっていた。
可哀想にと誰かが呟いたが助けようとする者はいなかった。
私はソレの世話係だった。初めて出会ったとき、私は16で、ソレは私の背丈の半分しかないような幼子だった。私は王の所有する奴隷の一人だった。
私は賢い子供だった。いつだって忠実に働いた。
口をきかないのだと、同じ世話係の女が困ったように話していた。ソレは喋らない子供だった。生まれつきの不具である事は明白だった。知的に劣り、害意を向けられても理解出来ないソレの世話をまともにしようとする者はいなかった。ただ、奴隷であった私だけが忠実に仕事をこなした。共に過ごす時間が長引くにつれ、決してソレが頭の悪い子供であるわけではないと分かった。他の者のいる前では白痴のように振る舞うが、二人きりになるとソレは知的な振る舞いをした。
「私が言っていることの意味を貴方はきちんと理解出来ているでしょう?」ある日ふと尋ねると、ソレは頷いた。「文字を読めるようになりたくはありませんか? 決して他言は致しませんから」その行いが偽善や、罪悪感を消すために為したものだったのかは覚えていない。
ただ、その理性的な目が私にはこの世で最も美しいものに見えただけだ。
私だけが本当の彼を知っていた。
内心でソレと呼ぶ他に、奴隷である私が彼から名を聞き出す事などできなかった。小さな声でソレは発声の練習をした。幼い頃より声を発してこなかった彼の声帯はまともに動かすことが難しかった。周囲にバレないように、慎重に私達は振る舞った。
ソレが何者であるかなど、下賎の身である私には推測することすら烏滸がましかったが、ソレの血筋が貴い事を薄々気づいていた。
「私に情が湧いたのか? なぜお前は私を助ける?」
ソレの背はちょうど私と並ぶ程になっていた。周囲に人がいないのを確認してから彼は囁いた。
「情など私には恐れ多いもので御座います」
私は曖昧に笑った。憐れみであったと返すことの方がよほど無礼だろう。
ならば、なぜーー彼の告げようとした言葉は他の世話役の来訪で途切れた。また彼はぼんやりとした目つきで頭の病人のように抜けた笑みを浮かべた。
ある日私は彼に提案した。今日は他の世話役が来ないから、私と入れ替わらないかと。彼は渋ったが、最終的に承諾した。内心彼も喜んでいるようだった。
私は彼の身につけていた衣に腕を通し、安堵の笑みを浮かべた。私と彼は背丈も体格もよく似ていたし、彼は顔を殆ど知られていない。すぐにバレる事はないだろう。
その日私は彼に、初めて一つ嘘をついた。
騒々しい朝だった。彼が去って程なくしてソレをーーソレのふりをしている私を使用人が迎えに来た。なるべく顔を伏せて他の世話役の後に続き、彼を真似たふらふらとした足取りで部屋を出た。
そして、その役目が見知らぬ兵士に代わった時、やっと胸を撫で下ろした。夢見るように私は微笑んだ。
玉座の前に引き立たされ私は彼らしく無礼に振る舞った。王に頭を下げないばかりか、その顔をジロジロと窺った。彼とよく似た顔立ちをしていた。だが、王の顔は少しばかり俗っぽく気品のかけているように思える。取り押さえられそれでも私は笑みを貼り付けた。
声を出さなかった。額に触れる床が冷たかった。彼がこんな真似をせずに済んだことに喜んだ。
彼は存外プライドが高いから、酷く気分を害しただろう。
下賎の身が高貴な青年の身代わりになる。なんと誇らしいことだろう。
生まれて初めて、私は自分自身で選択した。
忙しく行き交う使用人達の間をすり抜け、ソレは意気揚々と歩いていた。
これまで生きてきた半分以上の時を、閉じ込められて育ったソレにとって、数年ぶりの自由だった。ソレはきょろきょろと周りを見渡しながら、無意識に隣を見て止まった。そうだ、世話役の彼は自分の代わりに今あの場所にいるのだった。喜びに満ちていた気分が少し萎む。一人抜け出す機会をあれ程望んでいたのに、数年来の隣人が隣にいない事が心細かった。
このまま、宮殿の外に出ようと思えば出られる気がした。だが、もし自分が逃げ出したら、今あの場所にいる世話役がどうなってしまうか想像して、ソレはもとの場所に帰ろうと思った。唯一自分の味方をした世話役に、恩を仇で返すような真似をしたくはない。
本当に、一時間も経っていなかった。世話役に別れを告げてほんの一刻しか。
部屋に戻ろうとして兵に止められた。
「お前、世話役の奴隷か、仕事は終わったぞ」
「どういうことですか?」
「……? お前聞いていないのか」
戸惑うソレに兵は言った。
「俺も今日初めてここの担当になったからなあ。深くは知らんが、ここに住んでた御方はもういないらしいぞ」
ソレはぽかんと口を開けて固まっていた。拳を握りしめて、ソレは震える声で尋ねた。
「いないって、どういう事ですか?」
「まあ、あれだなあ。神の御前に送られたってことだろうな」
ソレはにっこり笑った。兵士に礼を言い踵を返した。
あの奴隷は私に嘘をついたんだ。
怒りのあまり、視界が滲んだ。頭の中がガンガンと痛んで、胸が苦しかった。今この瞬間、あの者の喉笛は裂かれ、首は私の代わりに落とされるのだと思うと、怒りとも悲しみともつかないような感情が溢れた。
よくもこの私に慈悲を施したな。
下賎の身で身代わりになるなど烏滸がましいにもほどがあるだろう。従順であることが正しいとお前は分かっていただろう。
群衆の雑踏に紛れて、彼は宮殿を離れた。




