真実の愛、監査対象です。婚約破棄から始まる白い結婚
冬の宮廷は、飴細工のように冷たい光を放っていた。
シャンデリアの下、赤い絨毯の中央でエルノア・ヴァレンシュタインは息を潜める。
雪のように白いドレスの裾が、まるで雪煙のように広がっている。
その前に立つ王太子アルフレッドが、ゆっくりと杯を掲げた。
「エルノア・ヴァレンシュタイン。お前との婚約を、今この場をもって破棄する」
ざわめき。
杯が落ちた音。
楽団が途切れ、空気が一瞬で凍りつく。
耳の奥で、何かが砕ける音がした。
けれどエルノアは、表情を動かさなかった。
「……理由を、お聞かせいただけますか」
「真実の愛を見つけた。それだけだ」
ああ、出た。
“真実の愛”という言葉ほど、証拠能力のない概念はない。
彼女はゆっくりとまぶたを下ろした。
会場の全視線が、冷たい好奇心を帯びて自分に向けられている。
沈黙の後、彼女は声を落とした。
「……では、監査を開始します」
その瞬間、王族印章に結ばれた契約魔法が反応した。
天井近くに淡い光の文字列が浮かび上がる。
“誓約違反ログ 検出”。
青白い魔法陣が回転し、観衆の頭上で眩い閃光を放った。
群衆がざわめく。
「な、なんだ……?」
「誓約印章が反応してる……!」
エルノアは胸元から王太子との婚約契約書を取り出し、封印を解除した。
光が契約条文をなぞり、条項十三の部分で赤く弾けた。
《愛情義務違反──虚偽申告》
「虚偽、だと?」王太子が顔をしかめる。
「殿下。あなたの“真実の愛”という発言は、先ほど自ら署名した誓約書に反しています」
「ふざけるな!」
「誓約印章が自動記録を出しました。私は監査官です。法の手続きに従って報告を行います」
彼女の声は穏やかだった。だが、言葉のひとつひとつが氷の刃のように空気を切り裂く。
誰かが息を呑んだ。
王妃が立ち上がる。
「……アルフレッド、あなた、本当にその署名を?」
「母上、違う! あれは……っ」
「記録魔導印が証明しています」
エルノアが淡々と答える。
誰もが目を見開き、彼女の指先に宿る冷光を見つめた。
夜会は混乱の中で幕を閉じた。
そして翌朝、王太子との婚約破棄の公式文書が発行された。
◇
法務局の執務室。
冷たい光の差し込む机の上に、分厚い書類の束が積み上がっている。
エルノアはインク壺を開け、青い魔導インクを筆に含ませた。
筆致は穏やかで美しい。
だがその筆先が走るたび、淡い光が紙面を走り、条文が自動的に魔法陣と連動する。
「婚約破棄に伴う契約解除処理、進捗八割」
淡々と呟くと、背後の扉が開いた。
氷のように冷たい声が響く。
「ヴァレンシュタイン准監査官か」
振り返ると、銀灰色の軍装をまとった男が立っていた。
背が高く、無駄のない動作。軍の最高監査立会人——カエルス・ノルディアン将軍。
彼の瞳は淡く蒼く、まるで氷を透かした光だった。
「本件、上層から監査立会の要請が出ている」
「……つまり、殿下の婚約破棄そのものが、王国契約法に抵触している可能性があると?」
「そうだ。君が提出した誓約違反ログを確認した。魔法印章の出力は正確だ」
カエルスは彼女の机に報告書を置いた。
その手付きに無駄がない。
「だが、殿下は“魅了の影響下にあった”と主張している」
「……あら、真実の愛は魅了だったと?」
「皮肉か?」
「記録に残しておきます」
カエルスはわずかに眉を動かした。
その表情は冷徹そのものだが、どこかで微かに笑ったようにも見えた。
「私は事実しか扱わない。感情では動かない」
「それは私も同じです」
二人の視線が、音もなく交差した。
部屋の空気が、少しだけ動いたように感じた。
◇
翌日、監査の正式な再開が告知された。
エルノアは淡々と準備を進める。
机の上には“誓約監査報告書・第一稿”の文字。
自らの名前と共に、“監査立会人:カエルス・ノルディアン”が並ぶ。
窓の外、雪が静かに降っていた。
手袋越しに感じるインクの温度が、やけに温かく思える。
「……真実の愛、ね」
彼女は小さく呟き、報告書に筆を走らせた。
「それが虚偽であるなら、私が証明する」
インクの光が紙面に滲み、魔法文字が脈打つ。
その瞬間、印章が微かに光った。
——まるで彼女の決意を、天が記録したかのように。
冬の空は、薄い雲の向こうで凍っていた。
王都の中心を貫く法務省庁舎は、白大理石の壁面を氷のように光らせている。
朝、鐘の音が三度鳴った頃、エルノアは長い回廊を歩いていた。
腕には分厚い記録ファイル、胸元には監査官の徽章。
歩くたび、かすかな魔力の反応が鈴の音のように響く。
昨日まで婚約者だった男の署名を、今日の彼女は“案件”として扱う。
それだけのことだ。
感情を手放して、事実を整える。それが監査官という職業の礼儀だった。
執務室に入ると、カエルス・ノルディアン将軍が既に待っていた。
軍服の上に羽織ったコートの裾から、薄く霜が落ちる。
まるで冬そのものが彼に従って歩いているようだった。
「早いですね、将軍」
「監査は時間との戦いだ」
「愛の問題でも?」
「愛は感情。契約は制度。混同する者から国が腐る」
エルノアは微かに笑った。
——彼もまた、愛を信じない人間。
「では、始めましょう。対象:アルフレッド王太子。契約条項十三、逸脱判定」
机の上に契約文書を広げ、筆を滑らせる。
インクの光が淡く瞬き、条文が浮かび上がる。
〈本契約における愛情義務は、信義則に基づく行動・言動を指す〉
〈虚偽・魅了・欺瞞による愛情表明は、逸脱行為として失効対象とする〉
「……条文、これを制定したのは誰ですか?」カエルスが問う。
「三代前の法務卿です。“恋愛の魔法干渉”が社会問題化した時期がありました」
「なるほど。愛の定義を条文化するとは、奇妙な時代だ」
「奇妙ですが、便利です。検証可能な概念として扱えるので」
エルノアは印章を取り出し、軽く押した。
赤い光が浮かび、文書に署名者の魔力反応が照らし出される。
王太子の波形は乱れていた。
明らかに“魅了干渉”の痕跡。
彼の“真実の愛”は、外部魔法による錯乱の結果だった。
「……つまり、殿下は被害者でもある?」
カエルスの声が低く響いた。
「理屈の上では。けれど、契約上の責任は残ります。虚偽の署名をした時点で失効です」
「冷たいな」
「制度は温度を持ちません」
彼女は筆を置き、指先で報告書を閉じた。
机に積まれたファイルが、ひとつ、音を立てて整う。
◇
午後、王宮会議室。
王妃、宰相、法務局長が出席する臨時審議が開かれていた。
中央に立つエルノアとカエルス。
壁際の暖炉がぱちぱちと音を立てているが、室内の空気は冷え切っていた。
「婚約破棄の効力を、法務局として無効とする判断を下すのか」宰相が問う。
「はい。ただし婚姻契約は既に社会的に公知となっています。したがって“失効”として処理します」
「失効とは?」
「履行不能条項に基づく、契約の自然消滅です。違約ではなく、存在の終了」
静かな説明が続く。
エルノアの声には感情の波がない。
けれど、その冷静さに誰も口を挟めなかった。
彼女の背筋は真っ直ぐで、氷のように美しい。
「……准監査官エルノア。あなた自身の感情は?」
唐突に、王妃が問うた。
会議室の空気がわずかに揺れる。
「感情は報告対象外です。報告書には事実のみを記載します」
短い沈黙。
カエルスがわずかに首を傾け、王妃に代わって口を開いた。
「陛下。私は立会人として保証します。彼女の判断は正しい。これは個人の感情ではなく、制度の秩序維持です」
王妃は目を伏せた。
「……分かりました。手続きを続行してください」
その声は、諦めとも安堵ともつかない響きを持っていた。
◇
夜。
エルノアは自室の机に向かっていた。
机上には“婚約失効報告書”が並び、端に小さく備考欄がある。
〈殿下の魅了被害については、別途調査を要す〉
〈魅了魔法の発動者、確認中〉
筆を動かす指が、途中で止まった。
インク壺の影から、小さな封筒が滑り出す。
宛名:カエルス・ノルディアン。
——あの人が残した報告の控え。
彼の筆跡は硬く、軍人らしい整然とした文字だった。
〈愛は制度の外にある。だが制度の外で人が壊れるなら、私は制度を再設計する〉
それは、まるで彼女の胸の奥に直接刻まれるような一文だった。
しばらくして、窓を叩く音。
氷の結晶を散らして、カエルスが姿を見せる。
「まだ起きていたのか」
「報告書をまとめていました」
「書き過ぎは体を壊す。温かい茶を持ってきた」
「将軍が茶を?」
「兵站管理の一環だ」
カップを受け取る指先が、かすかに触れた。
その瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
けれど、彼女はすぐに視線を落とした。
「……ありがとう、ございます」
「感情ではなく、感謝として受け取っておく」
二人の間に、微かな息が混ざる。
夜気が冷たいのに、不思議と温かい。
インクの香りと紅茶の湯気が、静かに混ざり合った。
◇
翌朝、失効手続きは正式に完了した。
エルノアは印章を押し、魔法陣を閉じる。
光が消え、婚約契約は完全に終わった。
「終わりましたね」
「終わりは始まりだ。——今度は、“新しい契約”を設計する番だ」
カエルスが言う。
「愛を条文化するつもりですか?」
「いや。愛を、免責しない制度を作る」
その言葉が、彼女の胸の奥に残った。
エルノアは静かに頷き、書類を閉じた。
窓の外で、冬の光が少しだけ柔らかくなっていた。
早朝、法務局の空気は硝子のように澄んでいた。
エルノア・ヴァレンシュタインは、まだ誰もいない監査室で机に向かっていた。
契約違反の魔法痕跡——それを確定させるための調査資料が、山のように積まれている。
「……“魅了痕”の確証が必要ね」
呟きながら、指先で薄い水晶板を撫でた。
板の上には青白い光が波紋のように広がる。
“誓約インク”——魔力を媒介し、虚偽の言葉を赤く滲ませる特製のインク。
調合には緻密な計算と高位の呪文が要る。
この国で扱える者は、彼女を含めて五人もいない。
扉の向こうから足音が近づいた。
「早いな、エルノア」
低い声と共に、カエルス・ノルディアン将軍が現れた。
肩に掛けた外套から、雪がひとひら落ちる。
「魅了痕を確定させる材料が足りません。殿下の筆跡には魔力干渉がある。けれど、誰の呪いかが分からない」
「魔法院に依頼するか?」
「……あそこは殿下派です。証拠の改竄が入りかねません」
「なら、自分でやると?」
「はい。これは監査案件です。私の職責の範囲内です」
カエルスは一瞬だけ、微笑とも苦笑ともつかぬ表情をした。
「お前、氷より硬いな」
「氷は融けます。私は制度です」
「……なるほど」
彼は机の上に手袋を置いた。
その中には小さな封筒がある。
「これは軍の情報部が回収した魔導書の切れ端だ。魅了魔法の詠唱構造が殿下の側妃候補の魔力と一致する」
「詠唱構造の一致……決定的証拠になりえます」
「だが、そのままでは証拠能力が弱い。魔導書そのものを押収する必要がある」
エルノアは小さく頷き、インク壺を閉じた。
「現場へ行きましょう。法務局だけでは証拠は動きません」
◇
王都南区、旧魔法院の廃棄倉庫。
埃を被った魔導書の山を、二人は静かに捜索していた。
外は雪。吹き込む風が蝋燭の火を揺らす。
「ここは閉鎖されて十年経つ。まだ結界が残っているな」
カエルスが壁に触れ、淡い青光を散らせる。
「監査官、記録魔具を起動しておけ。証拠映像として残す」
「了解」
エルノアは腕輪の魔石を軽く叩いた。
空中に円形の魔法陣が浮かび、周囲を記録する。
その時——棚の隙間から、一冊の黒い本が目に留まった。
「ありました」
彼女が取り上げた瞬間、結界が弾けたような音を立てた。
埃が舞い、冷たい風が吹き抜ける。
その中で、エルノアの手にした本が淡く赤く光った。
「反応した……“誓約違反魔法”だ」
カエルスが剣を抜く。
周囲の魔力がざわつく。
黒い文字が本から溢れ、空中に浮かび上がった。
〈汝、真実の愛を誓うなら、魅了の鎖を断て〉
その文言に、エルノアは息を呑んだ。
この呪文こそ、王太子を縛った“真実の愛”の源。
「……証拠、確保完了」
「よくやった」
カエルスが本を封印魔方陣で包む。
光が収束し、静けさが戻った。
彼の横顔は冷たく、けれどどこか柔らかかった。
「監査官。お前が震えている」
「……寒いだけです」
「俺の外套を使え」
「必要ありません」
「命令だ」
差し出された外套が、ふわりと肩を包んだ。
氷の匂いと、彼自身の体温がわずかに混ざっている。
「——将軍、温かいですね」
「それは氷が融ける前兆だ」
その言葉が、妙に胸に残った。
◇
翌日。
王都中央法廷。
魅了魔導書の押収報告書が提出され、殿下の行為は“虚偽申告”として公式認定された。
議場はざわめきに包まれる。
「“真実の愛”を口実にした魅了行為。王族の資格を問う!」
「魅了による署名は契約法上、完全無効だ!」
ざわめきの中、エルノアは静かに立ち上がった。
「——よって、婚約契約は虚偽申告により失効。殿下の地位に関しては王室評議の決定に委ねます」
淡々と告げる彼女の声。
その背後で、カエルスの瞳が光った。
人々の喧騒が遠のいていく。
代わりに、自分の鼓動だけが耳の奥で響く。
法廷の空気は冷たい。けれど、その中心で彼の存在だけが確かな熱を持っていた。
◇
夜。
法務局の灯が消えた後、二人は同じ窓際に立っていた。
窓の外では雪が降り続いている。
「これで殿下の“真実の愛”は、完全に虚偽と確定しました」
「皮肉なものだな。真実の愛の証明が、虚偽の証拠で成されるとは」
「証拠こそ真実です」
「なら、感情はどこにある?」
エルノアは少しだけ考えてから、答えた。
「感情は……行動の中に、残ります」
カエルスが彼女を見た。
長い沈黙。
やがて、彼はゆっくり頷いた。
「報告書には書けない答えだな」
「はい。だからこそ、記録しないでください」
ふっと笑みが漏れた。
その笑みは、氷の将軍には似合わないほど、人間的だった。
エルノアは視線を落とし、胸の奥で静かに呟いた。
「嘘が赤く滲むなら、せめて本当の気持ちは透明であってほしい……」
窓の外、雪の夜が溶け始めていた。
それはまるで、氷が融けるように。
冬至の朝。
王都の中央議事堂に、国中の視線が集まっていた。
石造りの円形大ホールに、貴族・官僚・将軍たちの列。
その中央に、王太子アルフレッドが拘束のまま立っている。
そして、その正面に、エルノア・ヴァレンシュタインが立った。
王国法務局・准監査官。
彼女の手には、証拠文書と“誓約インク”で記録された光の写本。
「これより、王太子殿下に対する婚姻契約違反の査問を開始します」
声が高く響き、議場全体が静まり返る。
雪明かりが高窓から差し込み、青白い光が床に落ちる。
エルノアは深く息を吸い、指先にわずかな魔力を流した。
空中に、赤い文字列が浮かぶ。
《第十三条:愛情義務》
《虚偽申告による誓約違反 発生日時:十二月十四日》
群衆がざわめいた。
「誓約インクの反応は明白です。殿下が“真実の愛”を誓った時点で、魅了魔法の干渉を受けていました」
王妃が椅子の肘を掴む。
宰相が驚愕の表情を隠せずにいる。
「殿下、弁明をどうぞ」
「俺は……! 愛していたんだ!」
「その“愛”の証拠をお見せください」
沈黙。
エルノアが魔導投影を切り替える。
そこに映し出されたのは、側妃候補の手記。
詠唱文の一節が“愛”という単語で暗号化され、殿下の署名魔力と一致していた。
「……つまり、“真実の愛”という言葉そのものが魅了の鍵だった」
カエルス・ノルディアン将軍の声が響いた。
彼は後方に控え、立会人として冷静に記録を取っている。
「王族としての責任を果たすつもりはありますか、殿下?」
「私は……騙されていたんだ!」
「では、あなたの“愛”の代償を、誰が払うべきですか?」
エルノアの声は低く、鋭かった。
殿下は言葉を失い、目を伏せた。
議場に沈黙が満ちる。
誰もが息を潜め、ただ一人の女監査官の声に耳を傾けていた。
「愛は、免罪の理由にはなりません。——以上をもって、契約違反は確定とします」
彼女が印章を押した瞬間、魔法陣が広がった。
赤い光が契約書を包み、燃えるように散って消えた。
これで王太子との婚約は、制度上から完全に抹消された。
◇
査問会後の控室。
窓の外では雪が舞い、議事堂の鐘が鳴っている。
エルノアは机に置かれたカップを手に取ったが、飲まずに戻した。
氷のように冷えた紅茶。
彼女の胸の中にも、まだ冷たい波が残っている。
「——終わったな」
背後から低い声。
カエルスが入ってくる。
鎧の隙間から漏れる冷気が、部屋の温度をさらに下げた気がした。
「将軍、報告書は」
「すでに回した。王妃陛下が署名する」
「……これで、すべて完了です」
「お前は冷静だな」
「それが仕事です」
カエルスは机の上の紅茶を見た。
湯気の消えた表面が、鏡のように二人を映す。
「お前の声が、あれほど多くの人を黙らせた。あれは制度の力じゃない」
「では、何の力です?」
「信念だ」
エルノアは返事をしなかった。
ただ、筆先を整えて封印書類にサインを入れる。
インクの色は深い青。
彼女の瞳と同じ色だった。
「……将軍、次の監査予定は?」
「今夜、辺境軍の契約更新式がある。同行してほしい」
「私に?」
「法務局の監査官として、必要だ」
彼の声が低く響く。
それは職務命令のようでいて、どこか個人的でもあった。
◇
夜。
辺境軍の要塞に続く街道を、二人を乗せた馬車が走っていた。
窓の外には凍てつく雪原。
静寂の中、車輪の音だけが響く。
「殿下の件、国中の噂になっています」
「“真実の愛”が制度に殺された、か」
「むしろ、制度が愛を守ったのです」
「……お前はそう思うのか」
「はい。感情を測定するための規則がなければ、人は永遠に嘘を吐き続けます」
彼が小さく息を吐いた。
「なるほど。君は冷たいようで、誰よりも人を信じている」
「私が信じるのは、記録だけです」
「だが記録を書くのは、人間だ」
その言葉に、エルノアは初めて黙った。
車窓を流れる雪が、ゆっくりと白から銀へ変わっていく。
夜明けが近い。
◇
辺境の砦に到着すると、カエルスは馬車を降り、手を差し出した。
凍てつく風。
エルノアがその手を取る。
彼の指先は冷たく、それでいて確かな熱を帯びていた。
「——監査官。今日の君の行動、俺は誇りに思う」
「将軍、それは記録対象外の発言です」
「では記録を止めろ」
エルノアは笑って、魔具のスイッチを切った。
世界が、音を失った。
雪の音も、風の唸りも、ただ遠くで消える。
静寂の中で、彼の声だけが確かに届く。
「俺は、君のような人間が制度を支える国に仕えられてよかった」
その一言に、胸の奥で何かが溶けた。
エルノアは目を閉じ、深く息を吸う。
氷の国の夜が、少しだけ柔らかく見えた。
辺境の朝は、王都よりも静かだった。
空気は澄み切り、雪に覆われた森の向こうで、遠い鐘の音がかすかに響く。
エルノア・ヴァレンシュタインは薄い灰の外套を羽織り、要塞の回廊を歩いていた。
視界の端には、兵士たちが訓練をしている。
冷気を吐く声が、秩序だったリズムを刻む。
監査官としての任務は、辺境軍の契約更新に立ち会うこと。
だがその真の目的は、カエルス・ノルディアン将軍の提案にあった。
——“白い結婚”の制度設計。
愛情を前提としない婚姻契約。
感情ではなく、合意と運用で結ばれる関係。
王都の査問会のあと、法務局には婚姻制度の見直しを求める声が殺到していた。
“真実の愛”という概念が崩壊した今、人々は次の形を探している。
そのために、彼女は再び筆を取ることになった。
◇
「エルノア、今夜、草案会議を開く。出られるか?」
執務室に現れたカエルスは、簡潔に言った。
鎧の上に軍用マントをかけたまま、彼は机の上に書簡を置く。
「王都法務局から、“白い結婚制度”の試験運用案が届いた。君に検証を頼みたい」
「試験運用……つまり、実際の契約モデルを作るのですね」
「ああ。互いに“愛さない”ことを合意の条件とする。感情を免責し、行動と責務だけを定義する」
「……理論上は、機能します」
「だが、人間が関わる。机上の理屈だけでは崩れる」
カエルスは窓の外に視線をやった。
雪が舞い落ちる。
その白の向こうに、砦の旗がはためいている。
「だからこそ、実例が要る」
「……実例?」
「俺と君で」
沈黙。
エルノアはペンを握ったまま動かなくなった。
インクの先が紙に落ち、細い黒点を残す。
「それは……提案ですか、将軍」
「制度の検証だ。感情抜きの“白い契約”を、実際に締結する」
「……承認権限を持つのは私ではありません」
「だが、立案者である君が署名しなければ始まらない」
カエルスの瞳は真っ直ぐだった。
命令ではなく、確信の眼差し。
彼は机の端から契約書を取り出し、そっと差し出した。
〈白い婚姻契約 条項一:互いを愛さない〉
〈条項二:互いの尊厳を守り、支援を怠らない〉
〈条項三:制度改定時には共同責任を負う〉
「……将軍、本気ですか?」
「制度を動かすには、誰かが先に傷を負わなければならない」
エルノアは長い沈黙ののち、静かに頷いた。
「——ならば、運用設計を始めましょう」
◇
夜。
砦の会議室に、彼女とカエルスだけが残っていた。
テーブルの上には新しい契約書の草案。
火鉢の炎が揺れ、二人の影を壁に映している。
「愛を前提としない関係に、意味はあると思いますか?」
「ある。愛を言葉にできる者ほど、愛を使って人を縛る。——俺はもう、そういう嘘を見たくない」
「では、将軍は誰も愛さないのですか?」
彼は少しだけ目を伏せた。
「愛した。だが、それで一人を失った」
「……奥方ですか」
「昔の話だ」
火の粉がはぜた。
彼の横顔が一瞬赤く染まる。
氷のような男が、過去を語る時だけ人間の色を見せる。
その隙間が、エルノアには恐ろしくも愛おしかった。
「だから、制度を作る。愛を免責する制度を。愛しても、壊れないように」
彼の声は低く、確かだった。
エルノアは筆を取り、契約書に自分の名を記した。
——“エルノア・ヴァレンシュタイン”。
続けて、カエルスが署名する。
その瞬間、魔法印章が光を放ち、白い花弁のような紋章が二人の間に浮かび上がった。
“白い結婚契約、発効”。
室内が静まり返る。
カエルスが小さく息をついた。
「これで、君は俺の契約上の妻だ」
「感情は含まれません」
「分かっている。……だが、不思議なものだな」
「何がです?」
「制度に従っているのに、胸の奥が少しだけ温かい」
エルノアは目を伏せた。
炎の反射で、瞳がかすかに揺れる。
「それは、発効時の魔力反応です」
「そうかもしれない」
彼の笑い声は、今まででいちばん柔らかかった。
◇
数日後、王都へ報告書を送るための封筒を閉じながら、エルノアはふと窓の外を見た。
雪が解け、屋根の端から水滴が落ちている。
辺境に、少しだけ春の気配。
机の上の契約書は白く光っていた。
条文には、こう記されている。
〈この契約は、双方の尊重と誠実に基づき、愛を排除して維持される〉
彼女はその一文を指でなぞりながら、小さく笑った。
愛を排除したはずの契約が、奇妙に温かい。
「カエルス将軍」
「何だ」
「この契約が破られるとしたら、それはどんな時でしょう」
「……どちらかが、相手を“愛してしまった時”だろうな」
静寂。
エルノアは息を呑み、ペン先を見つめた。
インクが、ほんの少し震えて滲む。
それは、彼女の心が揺れた証だった。
辺境の春は短い。
雪が解けるより早く、新しい雪が降る。
それでも、エルノアにはその白の循環が心地よかった。
彼女の机の上では、婚姻契約の副本と報告書の束が、淡い光を放っている。
あの夜に交わした“白い契約”は、順調に機能していた。
互いに愛さない。
けれど、互いを支え、敬意をもって共に生きる。
理論上、完璧。
——だが人間は理論どおりにはいかない。
◇
朝の回廊で、カエルスが軍務報告を受けていた。
陽光に反射した鎧がまぶしい。
氷の将軍と呼ばれるその男が、兵士たちに的確な指示を出す姿は凛々しく、美しいほど整っている。
エルノアは少し離れた場所からその光景を見つめていた。
「監査官、何を見ている」
彼が気づいた。
「業務監査です」
「嘘だな」
「記録はすべて公開対象です」
「俺の表情を記録して何になる」
「……制度を支える人間の、状態監査です」
軽口を返すつもりだった。
だが、彼の笑みは思ったより優しかった。
「なら、俺も君を監査していいか?」
「私の業務は公開情報です」
「そうじゃない。心のほうだ」
唐突な言葉に、エルノアは少し息を詰まらせた。
彼が何を意図して言ったのか分からなかったが、その声がやけに柔らかく胸に響いた。
◇
その日の午後、砦の外縁で監査任務が入った。
北の集落で魔導装置の異常が報告されたのだ。
エルノアとカエルスは二人で現地へ向かった。
雪道を馬で進む。
空気は冷たいが、日差しがわずかに暖かい。
遠くに煙が上がっていた。
「ここが報告のあった村です」
集落の広場には、魔導水路を制御する石碑がある。
しかし表面には亀裂が走り、魔力の暴走が始まりつつあった。
住民たちが怯えながら遠巻きに見ている。
「放っておけば爆発する。だが近づくと暴発の危険がある」
カエルスが剣を抜き、魔力を纏わせる。
彼の氷属性の魔法が空気を冷やし、暴走の波を抑え込む。
その間に、エルノアは記録魔具を起動した。
「魔力波形を固定します。将軍、十秒だけ抑えてください!」
「了解——っ!」
凍気と光が交錯する。
エルノアは筆のような魔導具を使い、暴走箇所に新しい“誓約印”を描いた。
彼女の筆致は正確で、そして優雅だった。
「——安定化完了!」
最後の符号を書き終えると、石碑の光が穏やかに収束していく。
村人たちが歓声を上げた。
カエルスは剣を下ろし、額の汗をぬぐう。
「見事だ、エルノア」
「記録上は共同作業です」
「だが、君がいなければ俺も村も凍りついていた」
彼の言葉に、胸の奥が熱くなる。
“愛さない”と明記された契約書が、どこか遠く感じた。
◇
その夜、砦の医務室。
小さな火の灯る部屋で、エルノアはカエルスの腕に包帯を巻いていた。
石碑の暴走で生じた氷傷。
浅い傷だが、魔力が残っているため放置はできない。
「軍医を呼ぶほどではありません」
「だが、君の手のほうが温かい」
「それは包帯の摩擦熱です」
「そういうことにしておこう」
彼が静かに笑った。
その笑みを見た瞬間、エルノアの心臓がわずかに跳ねた。
「……将軍、以前おっしゃいましたね。愛して壊れたと」
「ああ」
「それでも、もう一度制度を作ろうとした理由は?」
「誰かが、信じてくれたからだ」
「誰が?」
「君がだ」
エルノアの指が止まった。
包帯の端が彼の腕に触れたまま、動けなくなる。
目を上げると、蒼い瞳がすぐそこにあった。
「俺は君の理性に救われた。——だから、今度は君を救いたい」
息が詰まる。
心が、理屈を超えて揺れる。
「……契約の条項、忘れていませんか」
「互いを愛さない、か」
「はい」
「なら、今のは制度違反だな」
「罰則条項を適用しますか?」
「罰則を受けるなら、君と同じ場所でいい」
彼の声が低く落ちた。
その響きが、まるで胸の奥の氷を溶かしていくようだった。
◇
夜更け、エルノアは執務室で一人、契約書を開いた。
そこに記された条文を何度も読み返す。
〈条項一:互いを愛さない〉
——この文が、いまはまるで棘のように胸に刺さる。
ペンを取って、修正案の欄に小さく書き込む。
〈但し、制度的合理性を超える感情発生時は、再審議の対象とする〉
書き終えた瞬間、インクが淡く光った。
まるで“心の証拠”を自ら記録したかのように。
「……カエルス、これも監査対象に入るのでしょうか」
独り言のように呟いた声が、静かな夜に溶けて消えた。
春の終わり、王都から一報が届いた。
“婚姻制度改革審議会”の開催。
白い結婚制度の試験運用結果を、報告せよ——。
差出人の印章には、王妃の名があった。
報告書の第一署名者はエルノア。
第二署名者、カエルス・ノルディアン。
制度の象徴として、二人が王都へ召喚される。
「逃げられませんね」
「制度を作った以上、説明責任がある」
「“愛さない”契約が、どんな結果を生んだか」
「……愛を生んだ、とは報告できないな」
カエルスの冗談めいた声に、エルノアは眉をひそめた。
「それを言葉にした時点で、契約違反です」
「違反も監査対象にしてくれ」
彼の瞳に微かに光が宿った。
その光が、彼女には危険に思えた。
理性の壁の向こうで、心が音を立てて崩れていく。
◇
王都の議事堂は、かつての査問会場と同じ場所だった。
だが今度、そこに立つ二人の立場は違う。
告発者ではなく、制度の創設者。
壇上に立ったエルノアは、冷静に口を開いた。
「“白い婚姻契約”は、感情を免責し、責務の履行を第一とする制度です」
「運用は機能しているのか」宰相が問う。
「はい。少なくとも、嘘の愛よりは穏やかに共存できます」
議場の一部から笑いが漏れた。
だが彼女は動じない。
続けて、白い契約の成果を報告した。
辺境軍の安定、契約不履行率の低下、社会的混乱の減少。
どれも実績だ。
「——ただし、一つだけ問題があります」
静寂が落ちる。
エルノアは視線を上げた。
「感情は、制度によっても完全には消せません」
人々がざわめく。
その時、カエルスが前に出た。
「私は、この制度の共同署名者として証言します」
彼の声が、議場に響く。
「制度は成功した。しかし、感情を“存在しないもの”として扱うのは、誤りだ」
宰相が身を乗り出す。
「それは、制度の否定か?」
「いいや。補足だ」
カエルスは一歩前へ進み、エルノアの方を見た。
「愛は免責されるべきではない。だが、責任と共に存在できる。——彼女がそれを教えてくれた」
ざわめきが広がった。
エルノアの胸が高鳴る。
何を言っているのか、彼の言葉のひとつひとつが熱すぎて、空気が変わっていく。
「将軍、それ以上は——」
「報告の一部だ」
「報告書にない発言です」
「なら、今書け」
彼が差し出した筆を、エルノアは反射的に受け取った。
指先が触れる。
体温が伝わる。
会場が静まった。
「君が作った制度に、俺は救われた。だが同時に、君によって破られた」
「……」
「俺は君を、愛してしまった」
議場が息を呑む。
誰かの椅子が軋む音。
けれど、エルノアの耳にはそれすら遠く聞こえた。
胸の奥で、氷が砕ける音がした。
筆先が震える。
白紙の報告書に、インクが落ちて滲んだ。
その滲みが、紅に変わる。
——誓約違反の証。
愛の発生。
「……条項一、互いを愛さない。違反確認」
エルノアが呟いた。
声が震える。
彼女は筆を置き、視線を上げた。
「カエルス・ノルディアン。あなたの違反に対し、再契約手続きを提案します」
「再契約?」
「はい。免責ではなく、合意としての愛の条項を追加する」
彼の瞳が見開かれ、すぐに微笑んだ。
「それは……新しい制度だな」
「共同署名しますか?」
「当然だ」
エルノアは筆を走らせた。
新たな条文が浮かび上がる。
〈条項零:互いを信じ、愛することを許可する〉
筆を止めた瞬間、魔法印章が眩く光を放つ。
純白だった契約書が金に輝き、花のように開く。
人々が息を呑む中、カエルスが手を差し出した。
「監査官エルノア。——再契約の相手として、君を選ぶ」
彼女はその手を取った。
温かかった。
こんなにも温かいものを、制度の言葉に閉じ込めておくことはできない。
彼女は微笑み、ゆっくりと頷いた。
「これが、“愛を免責しない制度”です」
◇
その夜、王都の空は淡く曇っていた。
議事堂を出た二人の前に、春の風が吹き抜ける。
遠くで桜が散っている。
「……終わりましたね」
「いや、始まったばかりだ」
「再契約の報告書、明日までに仕上げます」
「また仕事か」
「制度が完成するまでが恋愛です」
「お前らしいな」
カエルスが笑い、エルノアもつられて笑った。
どちらの笑いも、もう冷たくはなかった。
風が髪を揺らす。
彼は一歩近づき、囁いた。
「制度を守る者が愛を語るとき——それは、真実だ」
その言葉が、春の空気に溶けていった。
季節は夏へと傾いていた。
雪深い辺境の砦にも、短い陽光が差し込む。
エルノア・ヴァレンシュタインは机の上の紙束を整え、最後の署名を終えた。
王都での審議会から三か月。
彼女とカエルスの“再契約”は、正式に王国法へと組み込まれた。
——〈愛は免責されず、責任と共に存続する〉。
新たな第零条。
それは、王国史上初めて“愛”という語が法律文に記された瞬間だった。
窓から吹き込む風が書類を揺らし、インクの香りを運ぶ。
エルノアは静かに息をついた。
報告書の表紙には、こう記してある。
『監査終了報告書 兼 婚姻制度改定記録』
署名:エルノア・ヴァレンシュタイン、カエルス・ノルディアン。
◇
午後、庭の白い石畳を歩いていると、兵士たちが軽く敬礼をして通り過ぎていった。
彼女は“氷の将軍の妻”としてではなく、制度を再構築した監査官として、敬意を受けていた。
それがどれほど誇らしいことか——今のエルノアはよく分かっていた。
中庭の中央には、かつての契約印章を埋め込んだ記念碑が立っている。
白い石の表面に、淡く金の文字が刻まれていた。
〈愛の記録は、今日も更新中〉
その言葉を読んだ瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。
ふいに後ろから声がした。
「——あの文は、君が書いたのか?」
カエルスだった。
いつもの軍装ではなく、薄いシャツに手袋だけという珍しい姿。
彼がこの砦で“人間の顔”を見せるのは、たいてい彼女の前だけだった。
「ええ。制度は完成しても、記録は終わりません」
「つまり、俺たちの契約はまだ続いている」
「当然です。契約は更新型ですから」
「更新手続き、そろそろか?」
「次の条文案、もう草稿を用意しました」
エルノアが懐から紙片を取り出す。
そこには、小さく書かれた文字。
〈条項一:互いの沈黙を尊重する〉
〈条項二:疲れた時は紅茶を淹れる〉
カエルスは吹き出した。
「それは法律じゃなくて、生活の取り決めだろう」
「制度は生活の中で息をするものです」
「……なるほど。君に監査される男は、幸せ者だな」
ふと、風が吹いた。
髪が揺れ、淡い陽光が二人の間を照らす。
カエルスが、少し照れたように顔をそらした。
「俺は今でも、制度に守られている気がする」
「制度を作るのは人です」
「なら、その“人”を守りたいと思うのは、制度違反か?」
「……いいえ。条項零に基づき、愛することは許可されています」
彼の目が笑い、エルノアも微笑んだ。
互いに何も言わず、ただ同じ方向を見た。
◇
夜、執務室の灯が落ちる。
エルノアは一人、書きかけの文書を見つめていた。
そこにはタイトルだけが記されている。
『白い契約、第二版』
ペンを取ろうとして、彼女はふと止めた。
代わりに、机の上に一輪の白い花を置く。
それは、カエルスが昼間庭から摘んできた花だった。
花びらに指先で触れながら、エルノアは小さく微笑んだ。
「——監査官の記録、ここまで」
そう言って、筆を置く。
だが、報告書の余白には、もう一行だけ添えた。
〈愛は、制度を超えても存在してよい〉
インクが滲み、ゆっくりと乾いていく。
窓の外で風が鳴り、遠くで彼の笑い声がした。
その音が、静かな砦の夜に溶けていった。
◇
翌朝。
王国広報官が公式に布告を読み上げる。
新しい法典の中で、“真実の愛”という言葉は完全に削除され、代わりに次の文が追加された。
〈愛は虚偽を許さず、誓約の履行をもって証とする〉
群衆が拍手した。
それは革命でも、反乱でもない。
ただ静かな、制度の進化だった。
その中で、エルノアとカエルスは互いを見た。
もう、言葉はいらなかった。
契約も、署名も、いまはただ——日々を共に生きるという事実がすべてだった。
エルノアは心の中で、最後の一文を記す。
〈この契約は、今なお有効である〉
そして微笑んだ。
監査は終わった。
けれど、愛の記録は、今日も更新されていく。
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