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真実の愛、監査対象です。婚約破棄から始まる白い結婚

作者: 百鬼清風

 冬の宮廷は、飴細工のように冷たい光を放っていた。

 シャンデリアの下、赤い絨毯の中央でエルノア・ヴァレンシュタインは息を潜める。

 雪のように白いドレスの裾が、まるで雪煙のように広がっている。

 その前に立つ王太子アルフレッドが、ゆっくりと杯を掲げた。


「エルノア・ヴァレンシュタイン。お前との婚約を、今この場をもって破棄する」


 ざわめき。

 杯が落ちた音。

 楽団が途切れ、空気が一瞬で凍りつく。

 耳の奥で、何かが砕ける音がした。

 けれどエルノアは、表情を動かさなかった。


「……理由を、お聞かせいただけますか」


「真実の愛を見つけた。それだけだ」


 ああ、出た。

 “真実の愛”という言葉ほど、証拠能力のない概念はない。

 彼女はゆっくりとまぶたを下ろした。

 会場の全視線が、冷たい好奇心を帯びて自分に向けられている。


 沈黙の後、彼女は声を落とした。

「……では、監査を開始します」


 その瞬間、王族印章に結ばれた契約魔法が反応した。

 天井近くに淡い光の文字列が浮かび上がる。

 “誓約違反ログ 検出”。

 青白い魔法陣が回転し、観衆の頭上で眩い閃光を放った。


 群衆がざわめく。

「な、なんだ……?」

「誓約印章が反応してる……!」


 エルノアは胸元から王太子との婚約契約書を取り出し、封印を解除した。

 光が契約条文をなぞり、条項十三の部分で赤く弾けた。


《愛情義務違反──虚偽申告》


「虚偽、だと?」王太子が顔をしかめる。

「殿下。あなたの“真実の愛”という発言は、先ほど自ら署名した誓約書に反しています」

「ふざけるな!」

「誓約印章が自動記録を出しました。私は監査官です。法の手続きに従って報告を行います」


 彼女の声は穏やかだった。だが、言葉のひとつひとつが氷の刃のように空気を切り裂く。


 誰かが息を呑んだ。

 王妃が立ち上がる。

「……アルフレッド、あなた、本当にその署名を?」

「母上、違う! あれは……っ」

「記録魔導印が証明しています」

 エルノアが淡々と答える。

 誰もが目を見開き、彼女の指先に宿る冷光を見つめた。


 夜会は混乱の中で幕を閉じた。

 そして翌朝、王太子との婚約破棄の公式文書が発行された。



 法務局の執務室。

 冷たい光の差し込む机の上に、分厚い書類の束が積み上がっている。

 エルノアはインク壺を開け、青い魔導インクを筆に含ませた。

 筆致は穏やかで美しい。

 だがその筆先が走るたび、淡い光が紙面を走り、条文が自動的に魔法陣と連動する。


「婚約破棄に伴う契約解除処理、進捗八割」

 淡々と呟くと、背後の扉が開いた。

 氷のように冷たい声が響く。


「ヴァレンシュタイン准監査官か」


 振り返ると、銀灰色の軍装をまとった男が立っていた。

 背が高く、無駄のない動作。軍の最高監査立会人——カエルス・ノルディアン将軍。

 彼の瞳は淡く蒼く、まるで氷を透かした光だった。


「本件、上層から監査立会の要請が出ている」

「……つまり、殿下の婚約破棄そのものが、王国契約法に抵触している可能性があると?」

「そうだ。君が提出した誓約違反ログを確認した。魔法印章の出力は正確だ」

 カエルスは彼女の机に報告書を置いた。

 その手付きに無駄がない。

「だが、殿下は“魅了の影響下にあった”と主張している」


「……あら、真実の愛は魅了だったと?」

「皮肉か?」

「記録に残しておきます」


 カエルスはわずかに眉を動かした。

 その表情は冷徹そのものだが、どこかで微かに笑ったようにも見えた。


「私は事実しか扱わない。感情では動かない」

「それは私も同じです」


 二人の視線が、音もなく交差した。

 部屋の空気が、少しだけ動いたように感じた。



 翌日、監査の正式な再開が告知された。

 エルノアは淡々と準備を進める。

 机の上には“誓約監査報告書・第一稿”の文字。

 自らの名前と共に、“監査立会人:カエルス・ノルディアン”が並ぶ。


 窓の外、雪が静かに降っていた。

 手袋越しに感じるインクの温度が、やけに温かく思える。


「……真実の愛、ね」

 彼女は小さく呟き、報告書に筆を走らせた。

「それが虚偽であるなら、私が証明する」


 インクの光が紙面に滲み、魔法文字が脈打つ。

 その瞬間、印章が微かに光った。

 ——まるで彼女の決意を、天が記録したかのように。


 冬の空は、薄い雲の向こうで凍っていた。

 王都の中心を貫く法務省庁舎は、白大理石の壁面を氷のように光らせている。

 朝、鐘の音が三度鳴った頃、エルノアは長い回廊を歩いていた。

 腕には分厚い記録ファイル、胸元には監査官の徽章。

 歩くたび、かすかな魔力の反応が鈴の音のように響く。


 昨日まで婚約者だった男の署名を、今日の彼女は“案件”として扱う。

 それだけのことだ。

 感情を手放して、事実を整える。それが監査官という職業の礼儀だった。


 執務室に入ると、カエルス・ノルディアン将軍が既に待っていた。

 軍服の上に羽織ったコートの裾から、薄く霜が落ちる。

 まるで冬そのものが彼に従って歩いているようだった。


「早いですね、将軍」

「監査は時間との戦いだ」

「愛の問題でも?」

「愛は感情。契約は制度。混同する者から国が腐る」


 エルノアは微かに笑った。

 ——彼もまた、愛を信じない人間。


「では、始めましょう。対象:アルフレッド王太子。契約条項十三、逸脱判定」

 机の上に契約文書を広げ、筆を滑らせる。

 インクの光が淡く瞬き、条文が浮かび上がる。


 〈本契約における愛情義務は、信義則に基づく行動・言動を指す〉

 〈虚偽・魅了・欺瞞による愛情表明は、逸脱行為として失効対象とする〉


「……条文、これを制定したのは誰ですか?」カエルスが問う。

「三代前の法務卿です。“恋愛の魔法干渉”が社会問題化した時期がありました」

「なるほど。愛の定義を条文化するとは、奇妙な時代だ」

「奇妙ですが、便利です。検証可能な概念として扱えるので」


 エルノアは印章を取り出し、軽く押した。

 赤い光が浮かび、文書に署名者の魔力反応が照らし出される。

 王太子の波形は乱れていた。

 明らかに“魅了干渉”の痕跡。

 彼の“真実の愛”は、外部魔法による錯乱の結果だった。


「……つまり、殿下は被害者でもある?」

 カエルスの声が低く響いた。

「理屈の上では。けれど、契約上の責任は残ります。虚偽の署名をした時点で失効です」

「冷たいな」

「制度は温度を持ちません」


 彼女は筆を置き、指先で報告書を閉じた。

 机に積まれたファイルが、ひとつ、音を立てて整う。



 午後、王宮会議室。

 王妃、宰相、法務局長が出席する臨時審議が開かれていた。

 中央に立つエルノアとカエルス。

 壁際の暖炉がぱちぱちと音を立てているが、室内の空気は冷え切っていた。


「婚約破棄の効力を、法務局として無効とする判断を下すのか」宰相が問う。

「はい。ただし婚姻契約は既に社会的に公知となっています。したがって“失効”として処理します」

「失効とは?」

「履行不能条項に基づく、契約の自然消滅です。違約ではなく、存在の終了」


 静かな説明が続く。

 エルノアの声には感情の波がない。

 けれど、その冷静さに誰も口を挟めなかった。

 彼女の背筋は真っ直ぐで、氷のように美しい。


「……准監査官エルノア。あなた自身の感情は?」

 唐突に、王妃が問うた。

 会議室の空気がわずかに揺れる。


「感情は報告対象外です。報告書には事実のみを記載します」


 短い沈黙。

 カエルスがわずかに首を傾け、王妃に代わって口を開いた。

「陛下。私は立会人として保証します。彼女の判断は正しい。これは個人の感情ではなく、制度の秩序維持です」


 王妃は目を伏せた。

「……分かりました。手続きを続行してください」


 その声は、諦めとも安堵ともつかない響きを持っていた。



 夜。

 エルノアは自室の机に向かっていた。

 机上には“婚約失効報告書”が並び、端に小さく備考欄がある。

 〈殿下の魅了被害については、別途調査を要す〉

 〈魅了魔法の発動者、確認中〉


 筆を動かす指が、途中で止まった。

 インク壺の影から、小さな封筒が滑り出す。

 宛名:カエルス・ノルディアン。


 ——あの人が残した報告の控え。

 彼の筆跡は硬く、軍人らしい整然とした文字だった。


 〈愛は制度の外にある。だが制度の外で人が壊れるなら、私は制度を再設計する〉


 それは、まるで彼女の胸の奥に直接刻まれるような一文だった。


 しばらくして、窓を叩く音。

 氷の結晶を散らして、カエルスが姿を見せる。

「まだ起きていたのか」

「報告書をまとめていました」

「書き過ぎは体を壊す。温かい茶を持ってきた」

「将軍が茶を?」

「兵站管理の一環だ」


 カップを受け取る指先が、かすかに触れた。

 その瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。

 けれど、彼女はすぐに視線を落とした。


「……ありがとう、ございます」

「感情ではなく、感謝として受け取っておく」


 二人の間に、微かな息が混ざる。

 夜気が冷たいのに、不思議と温かい。

 インクの香りと紅茶の湯気が、静かに混ざり合った。



 翌朝、失効手続きは正式に完了した。

 エルノアは印章を押し、魔法陣を閉じる。

 光が消え、婚約契約は完全に終わった。


「終わりましたね」

「終わりは始まりだ。——今度は、“新しい契約”を設計する番だ」

 カエルスが言う。

「愛を条文化するつもりですか?」

「いや。愛を、免責しない制度を作る」


 その言葉が、彼女の胸の奥に残った。

 エルノアは静かに頷き、書類を閉じた。


 窓の外で、冬の光が少しだけ柔らかくなっていた。


 早朝、法務局の空気は硝子のように澄んでいた。

 エルノア・ヴァレンシュタインは、まだ誰もいない監査室で机に向かっていた。

 契約違反の魔法痕跡——それを確定させるための調査資料が、山のように積まれている。


「……“魅了痕”の確証が必要ね」

 呟きながら、指先で薄い水晶板を撫でた。

 板の上には青白い光が波紋のように広がる。

 “誓約インク”——魔力を媒介し、虚偽の言葉を赤く滲ませる特製のインク。

 調合には緻密な計算と高位の呪文が要る。

 この国で扱える者は、彼女を含めて五人もいない。


 扉の向こうから足音が近づいた。

「早いな、エルノア」

 低い声と共に、カエルス・ノルディアン将軍が現れた。

 肩に掛けた外套から、雪がひとひら落ちる。


「魅了痕を確定させる材料が足りません。殿下の筆跡には魔力干渉がある。けれど、誰の呪いかが分からない」

「魔法院に依頼するか?」

「……あそこは殿下派です。証拠の改竄が入りかねません」

「なら、自分でやると?」

「はい。これは監査案件です。私の職責の範囲内です」


 カエルスは一瞬だけ、微笑とも苦笑ともつかぬ表情をした。

「お前、氷より硬いな」

「氷は融けます。私は制度です」

「……なるほど」


 彼は机の上に手袋を置いた。

 その中には小さな封筒がある。

「これは軍の情報部が回収した魔導書の切れ端だ。魅了魔法の詠唱構造が殿下の側妃候補の魔力と一致する」

「詠唱構造の一致……決定的証拠になりえます」

「だが、そのままでは証拠能力が弱い。魔導書そのものを押収する必要がある」


 エルノアは小さく頷き、インク壺を閉じた。

「現場へ行きましょう。法務局だけでは証拠は動きません」



 王都南区、旧魔法院の廃棄倉庫。

 埃を被った魔導書の山を、二人は静かに捜索していた。

 外は雪。吹き込む風が蝋燭の火を揺らす。


「ここは閉鎖されて十年経つ。まだ結界が残っているな」

 カエルスが壁に触れ、淡い青光を散らせる。

「監査官、記録魔具を起動しておけ。証拠映像として残す」

「了解」


 エルノアは腕輪の魔石を軽く叩いた。

 空中に円形の魔法陣が浮かび、周囲を記録する。

 その時——棚の隙間から、一冊の黒い本が目に留まった。


「ありました」

 彼女が取り上げた瞬間、結界が弾けたような音を立てた。

 埃が舞い、冷たい風が吹き抜ける。

 その中で、エルノアの手にした本が淡く赤く光った。


「反応した……“誓約違反魔法”だ」

 カエルスが剣を抜く。

 周囲の魔力がざわつく。

 黒い文字が本から溢れ、空中に浮かび上がった。


 〈汝、真実の愛を誓うなら、魅了の鎖を断て〉

 その文言に、エルノアは息を呑んだ。

 この呪文こそ、王太子を縛った“真実の愛”の源。


「……証拠、確保完了」

「よくやった」


 カエルスが本を封印魔方陣で包む。

 光が収束し、静けさが戻った。

 彼の横顔は冷たく、けれどどこか柔らかかった。


「監査官。お前が震えている」

「……寒いだけです」

「俺の外套を使え」

「必要ありません」

「命令だ」

 差し出された外套が、ふわりと肩を包んだ。

 氷の匂いと、彼自身の体温がわずかに混ざっている。


「——将軍、温かいですね」

「それは氷が融ける前兆だ」


 その言葉が、妙に胸に残った。



 翌日。

 王都中央法廷。

 魅了魔導書の押収報告書が提出され、殿下の行為は“虚偽申告”として公式認定された。

 議場はざわめきに包まれる。


「“真実の愛”を口実にした魅了行為。王族の資格を問う!」

「魅了による署名は契約法上、完全無効だ!」


 ざわめきの中、エルノアは静かに立ち上がった。

「——よって、婚約契約は虚偽申告により失効。殿下の地位に関しては王室評議の決定に委ねます」


 淡々と告げる彼女の声。

 その背後で、カエルスの瞳が光った。


 人々の喧騒が遠のいていく。

 代わりに、自分の鼓動だけが耳の奥で響く。

 法廷の空気は冷たい。けれど、その中心で彼の存在だけが確かな熱を持っていた。



 夜。

 法務局の灯が消えた後、二人は同じ窓際に立っていた。

 窓の外では雪が降り続いている。

「これで殿下の“真実の愛”は、完全に虚偽と確定しました」

「皮肉なものだな。真実の愛の証明が、虚偽の証拠で成されるとは」

「証拠こそ真実です」

「なら、感情はどこにある?」


 エルノアは少しだけ考えてから、答えた。

「感情は……行動の中に、残ります」


 カエルスが彼女を見た。

 長い沈黙。

 やがて、彼はゆっくり頷いた。


「報告書には書けない答えだな」

「はい。だからこそ、記録しないでください」


 ふっと笑みが漏れた。

 その笑みは、氷の将軍には似合わないほど、人間的だった。


 エルノアは視線を落とし、胸の奥で静かに呟いた。

「嘘が赤く滲むなら、せめて本当の気持ちは透明であってほしい……」


 窓の外、雪の夜が溶け始めていた。

 それはまるで、氷が融けるように。


 冬至の朝。

 王都の中央議事堂に、国中の視線が集まっていた。

 石造りの円形大ホールに、貴族・官僚・将軍たちの列。

 その中央に、王太子アルフレッドが拘束のまま立っている。

 そして、その正面に、エルノア・ヴァレンシュタインが立った。

 王国法務局・准監査官。

 彼女の手には、証拠文書と“誓約インク”で記録された光の写本。


「これより、王太子殿下に対する婚姻契約違反の査問を開始します」


 声が高く響き、議場全体が静まり返る。

 雪明かりが高窓から差し込み、青白い光が床に落ちる。

 エルノアは深く息を吸い、指先にわずかな魔力を流した。

 空中に、赤い文字列が浮かぶ。


《第十三条:愛情義務》

《虚偽申告による誓約違反 発生日時:十二月十四日》


 群衆がざわめいた。


「誓約インクの反応は明白です。殿下が“真実の愛”を誓った時点で、魅了魔法の干渉を受けていました」


 王妃が椅子の肘を掴む。

 宰相が驚愕の表情を隠せずにいる。


「殿下、弁明をどうぞ」

「俺は……! 愛していたんだ!」

「その“愛”の証拠をお見せください」


 沈黙。

 エルノアが魔導投影を切り替える。

 そこに映し出されたのは、側妃候補の手記。

 詠唱文の一節が“愛”という単語で暗号化され、殿下の署名魔力と一致していた。


「……つまり、“真実の愛”という言葉そのものが魅了の鍵だった」

 カエルス・ノルディアン将軍の声が響いた。

 彼は後方に控え、立会人として冷静に記録を取っている。


「王族としての責任を果たすつもりはありますか、殿下?」

「私は……騙されていたんだ!」

「では、あなたの“愛”の代償を、誰が払うべきですか?」

 エルノアの声は低く、鋭かった。


 殿下は言葉を失い、目を伏せた。

 議場に沈黙が満ちる。

 誰もが息を潜め、ただ一人の女監査官の声に耳を傾けていた。


「愛は、免罪の理由にはなりません。——以上をもって、契約違反は確定とします」


 彼女が印章を押した瞬間、魔法陣が広がった。

 赤い光が契約書を包み、燃えるように散って消えた。

 これで王太子との婚約は、制度上から完全に抹消された。



 査問会後の控室。

 窓の外では雪が舞い、議事堂の鐘が鳴っている。

 エルノアは机に置かれたカップを手に取ったが、飲まずに戻した。

 氷のように冷えた紅茶。

 彼女の胸の中にも、まだ冷たい波が残っている。


「——終わったな」

 背後から低い声。

 カエルスが入ってくる。

 鎧の隙間から漏れる冷気が、部屋の温度をさらに下げた気がした。


「将軍、報告書は」

「すでに回した。王妃陛下が署名する」

「……これで、すべて完了です」

「お前は冷静だな」

「それが仕事です」


 カエルスは机の上の紅茶を見た。

 湯気の消えた表面が、鏡のように二人を映す。


「お前の声が、あれほど多くの人を黙らせた。あれは制度の力じゃない」

「では、何の力です?」

「信念だ」


 エルノアは返事をしなかった。

 ただ、筆先を整えて封印書類にサインを入れる。

 インクの色は深い青。

 彼女の瞳と同じ色だった。


「……将軍、次の監査予定は?」

「今夜、辺境軍の契約更新式がある。同行してほしい」

「私に?」

「法務局の監査官として、必要だ」


 彼の声が低く響く。

 それは職務命令のようでいて、どこか個人的でもあった。



 夜。

 辺境軍の要塞に続く街道を、二人を乗せた馬車が走っていた。

 窓の外には凍てつく雪原。

 静寂の中、車輪の音だけが響く。


「殿下の件、国中の噂になっています」

「“真実の愛”が制度に殺された、か」

「むしろ、制度が愛を守ったのです」

「……お前はそう思うのか」

「はい。感情を測定するための規則がなければ、人は永遠に嘘を吐き続けます」


 彼が小さく息を吐いた。

「なるほど。君は冷たいようで、誰よりも人を信じている」

「私が信じるのは、記録だけです」

「だが記録を書くのは、人間だ」


 その言葉に、エルノアは初めて黙った。

 車窓を流れる雪が、ゆっくりと白から銀へ変わっていく。

 夜明けが近い。



 辺境の砦に到着すると、カエルスは馬車を降り、手を差し出した。

 凍てつく風。

 エルノアがその手を取る。

 彼の指先は冷たく、それでいて確かな熱を帯びていた。


「——監査官。今日の君の行動、俺は誇りに思う」

「将軍、それは記録対象外の発言です」

「では記録を止めろ」


 エルノアは笑って、魔具のスイッチを切った。

 世界が、音を失った。

 雪の音も、風の唸りも、ただ遠くで消える。


 静寂の中で、彼の声だけが確かに届く。

「俺は、君のような人間が制度を支える国に仕えられてよかった」


 その一言に、胸の奥で何かが溶けた。

 エルノアは目を閉じ、深く息を吸う。


 氷の国の夜が、少しだけ柔らかく見えた。


 辺境の朝は、王都よりも静かだった。

 空気は澄み切り、雪に覆われた森の向こうで、遠い鐘の音がかすかに響く。

 エルノア・ヴァレンシュタインは薄い灰の外套を羽織り、要塞の回廊を歩いていた。

 視界の端には、兵士たちが訓練をしている。

 冷気を吐く声が、秩序だったリズムを刻む。


 監査官としての任務は、辺境軍の契約更新に立ち会うこと。

 だがその真の目的は、カエルス・ノルディアン将軍の提案にあった。


 ——“白い結婚”の制度設計。

 愛情を前提としない婚姻契約。

 感情ではなく、合意と運用で結ばれる関係。


 王都の査問会のあと、法務局には婚姻制度の見直しを求める声が殺到していた。

 “真実の愛”という概念が崩壊した今、人々は次の形を探している。

 そのために、彼女は再び筆を取ることになった。



「エルノア、今夜、草案会議を開く。出られるか?」

 執務室に現れたカエルスは、簡潔に言った。

 鎧の上に軍用マントをかけたまま、彼は机の上に書簡を置く。

「王都法務局から、“白い結婚制度”の試験運用案が届いた。君に検証を頼みたい」

「試験運用……つまり、実際の契約モデルを作るのですね」

「ああ。互いに“愛さない”ことを合意の条件とする。感情を免責し、行動と責務だけを定義する」

「……理論上は、機能します」

「だが、人間が関わる。机上の理屈だけでは崩れる」


 カエルスは窓の外に視線をやった。

 雪が舞い落ちる。

 その白の向こうに、砦の旗がはためいている。


「だからこそ、実例が要る」

「……実例?」

「俺と君で」


 沈黙。

 エルノアはペンを握ったまま動かなくなった。

 インクの先が紙に落ち、細い黒点を残す。


「それは……提案ですか、将軍」

「制度の検証だ。感情抜きの“白い契約”を、実際に締結する」

「……承認権限を持つのは私ではありません」

「だが、立案者である君が署名しなければ始まらない」


 カエルスの瞳は真っ直ぐだった。

 命令ではなく、確信の眼差し。

 彼は机の端から契約書を取り出し、そっと差し出した。


 〈白い婚姻契約 条項一:互いを愛さない〉

 〈条項二:互いの尊厳を守り、支援を怠らない〉

 〈条項三:制度改定時には共同責任を負う〉


「……将軍、本気ですか?」

「制度を動かすには、誰かが先に傷を負わなければならない」


 エルノアは長い沈黙ののち、静かに頷いた。

「——ならば、運用設計を始めましょう」



 夜。

 砦の会議室に、彼女とカエルスだけが残っていた。

 テーブルの上には新しい契約書の草案。

 火鉢の炎が揺れ、二人の影を壁に映している。


「愛を前提としない関係に、意味はあると思いますか?」

「ある。愛を言葉にできる者ほど、愛を使って人を縛る。——俺はもう、そういう嘘を見たくない」

「では、将軍は誰も愛さないのですか?」

 彼は少しだけ目を伏せた。

「愛した。だが、それで一人を失った」

「……奥方ですか」

「昔の話だ」


 火の粉がはぜた。

 彼の横顔が一瞬赤く染まる。

 氷のような男が、過去を語る時だけ人間の色を見せる。

 その隙間が、エルノアには恐ろしくも愛おしかった。


「だから、制度を作る。愛を免責する制度を。愛しても、壊れないように」

 彼の声は低く、確かだった。


 エルノアは筆を取り、契約書に自分の名を記した。

 ——“エルノア・ヴァレンシュタイン”。

 続けて、カエルスが署名する。


 その瞬間、魔法印章が光を放ち、白い花弁のような紋章が二人の間に浮かび上がった。

 “白い結婚契約、発効”。


 室内が静まり返る。

 カエルスが小さく息をついた。


「これで、君は俺の契約上の妻だ」

「感情は含まれません」

「分かっている。……だが、不思議なものだな」

「何がです?」

「制度に従っているのに、胸の奥が少しだけ温かい」


 エルノアは目を伏せた。

 炎の反射で、瞳がかすかに揺れる。

「それは、発効時の魔力反応です」

「そうかもしれない」


 彼の笑い声は、今まででいちばん柔らかかった。



 数日後、王都へ報告書を送るための封筒を閉じながら、エルノアはふと窓の外を見た。

 雪が解け、屋根の端から水滴が落ちている。

 辺境に、少しだけ春の気配。


 机の上の契約書は白く光っていた。

 条文には、こう記されている。


 〈この契約は、双方の尊重と誠実に基づき、愛を排除して維持される〉


 彼女はその一文を指でなぞりながら、小さく笑った。

 愛を排除したはずの契約が、奇妙に温かい。


「カエルス将軍」

「何だ」

「この契約が破られるとしたら、それはどんな時でしょう」

「……どちらかが、相手を“愛してしまった時”だろうな」


 静寂。

 エルノアは息を呑み、ペン先を見つめた。

 インクが、ほんの少し震えて滲む。

 それは、彼女の心が揺れた証だった。


 辺境の春は短い。

 雪が解けるより早く、新しい雪が降る。

 それでも、エルノアにはその白の循環が心地よかった。

 彼女の机の上では、婚姻契約の副本と報告書の束が、淡い光を放っている。

 あの夜に交わした“白い契約”は、順調に機能していた。


 互いに愛さない。

 けれど、互いを支え、敬意をもって共に生きる。

 理論上、完璧。

 ——だが人間は理論どおりにはいかない。



 朝の回廊で、カエルスが軍務報告を受けていた。

 陽光に反射した鎧がまぶしい。

 氷の将軍と呼ばれるその男が、兵士たちに的確な指示を出す姿は凛々しく、美しいほど整っている。

 エルノアは少し離れた場所からその光景を見つめていた。


「監査官、何を見ている」

 彼が気づいた。

「業務監査です」

「嘘だな」

「記録はすべて公開対象です」

「俺の表情を記録して何になる」

「……制度を支える人間の、状態監査です」


 軽口を返すつもりだった。

 だが、彼の笑みは思ったより優しかった。

「なら、俺も君を監査していいか?」

「私の業務は公開情報です」

「そうじゃない。心のほうだ」

 唐突な言葉に、エルノアは少し息を詰まらせた。

 彼が何を意図して言ったのか分からなかったが、その声がやけに柔らかく胸に響いた。



 その日の午後、砦の外縁で監査任務が入った。

 北の集落で魔導装置の異常が報告されたのだ。

 エルノアとカエルスは二人で現地へ向かった。


 雪道を馬で進む。

 空気は冷たいが、日差しがわずかに暖かい。

 遠くに煙が上がっていた。


「ここが報告のあった村です」

 集落の広場には、魔導水路を制御する石碑がある。

 しかし表面には亀裂が走り、魔力の暴走が始まりつつあった。

 住民たちが怯えながら遠巻きに見ている。


「放っておけば爆発する。だが近づくと暴発の危険がある」

 カエルスが剣を抜き、魔力を纏わせる。

 彼の氷属性の魔法が空気を冷やし、暴走の波を抑え込む。

 その間に、エルノアは記録魔具を起動した。


「魔力波形を固定します。将軍、十秒だけ抑えてください!」

「了解——っ!」


 凍気と光が交錯する。

 エルノアは筆のような魔導具を使い、暴走箇所に新しい“誓約印”を描いた。

 彼女の筆致は正確で、そして優雅だった。


「——安定化完了!」

 最後の符号を書き終えると、石碑の光が穏やかに収束していく。

 村人たちが歓声を上げた。


 カエルスは剣を下ろし、額の汗をぬぐう。

「見事だ、エルノア」

「記録上は共同作業です」

「だが、君がいなければ俺も村も凍りついていた」


 彼の言葉に、胸の奥が熱くなる。

 “愛さない”と明記された契約書が、どこか遠く感じた。



 その夜、砦の医務室。

 小さな火の灯る部屋で、エルノアはカエルスの腕に包帯を巻いていた。

 石碑の暴走で生じた氷傷。

 浅い傷だが、魔力が残っているため放置はできない。


「軍医を呼ぶほどではありません」

「だが、君の手のほうが温かい」

「それは包帯の摩擦熱です」

「そういうことにしておこう」


 彼が静かに笑った。

 その笑みを見た瞬間、エルノアの心臓がわずかに跳ねた。


「……将軍、以前おっしゃいましたね。愛して壊れたと」

「ああ」

「それでも、もう一度制度を作ろうとした理由は?」

「誰かが、信じてくれたからだ」

「誰が?」

「君がだ」


 エルノアの指が止まった。

 包帯の端が彼の腕に触れたまま、動けなくなる。

 目を上げると、蒼い瞳がすぐそこにあった。


「俺は君の理性に救われた。——だから、今度は君を救いたい」


 息が詰まる。

 心が、理屈を超えて揺れる。


「……契約の条項、忘れていませんか」

「互いを愛さない、か」

「はい」

「なら、今のは制度違反だな」

「罰則条項を適用しますか?」

「罰則を受けるなら、君と同じ場所でいい」


 彼の声が低く落ちた。

 その響きが、まるで胸の奥の氷を溶かしていくようだった。



 夜更け、エルノアは執務室で一人、契約書を開いた。

 そこに記された条文を何度も読み返す。


 〈条項一:互いを愛さない〉

 ——この文が、いまはまるで棘のように胸に刺さる。


 ペンを取って、修正案の欄に小さく書き込む。

 〈但し、制度的合理性を超える感情発生時は、再審議の対象とする〉


 書き終えた瞬間、インクが淡く光った。

 まるで“心の証拠”を自ら記録したかのように。


「……カエルス、これも監査対象に入るのでしょうか」

 独り言のように呟いた声が、静かな夜に溶けて消えた。


 春の終わり、王都から一報が届いた。

 “婚姻制度改革審議会”の開催。

 白い結婚制度の試験運用結果を、報告せよ——。

 差出人の印章には、王妃の名があった。


 報告書の第一署名者はエルノア。

 第二署名者、カエルス・ノルディアン。

 制度の象徴として、二人が王都へ召喚される。


「逃げられませんね」

「制度を作った以上、説明責任がある」

「“愛さない”契約が、どんな結果を生んだか」

「……愛を生んだ、とは報告できないな」

 カエルスの冗談めいた声に、エルノアは眉をひそめた。

「それを言葉にした時点で、契約違反です」

「違反も監査対象にしてくれ」


 彼の瞳に微かに光が宿った。

 その光が、彼女には危険に思えた。

 理性の壁の向こうで、心が音を立てて崩れていく。



 王都の議事堂は、かつての査問会場と同じ場所だった。

 だが今度、そこに立つ二人の立場は違う。

 告発者ではなく、制度の創設者。


 壇上に立ったエルノアは、冷静に口を開いた。

「“白い婚姻契約”は、感情を免責し、責務の履行を第一とする制度です」

「運用は機能しているのか」宰相が問う。

「はい。少なくとも、嘘の愛よりは穏やかに共存できます」


 議場の一部から笑いが漏れた。

 だが彼女は動じない。

 続けて、白い契約の成果を報告した。

 辺境軍の安定、契約不履行率の低下、社会的混乱の減少。

 どれも実績だ。


「——ただし、一つだけ問題があります」

 静寂が落ちる。

 エルノアは視線を上げた。

「感情は、制度によっても完全には消せません」


 人々がざわめく。

 その時、カエルスが前に出た。


「私は、この制度の共同署名者として証言します」

 彼の声が、議場に響く。

「制度は成功した。しかし、感情を“存在しないもの”として扱うのは、誤りだ」


 宰相が身を乗り出す。

「それは、制度の否定か?」

「いいや。補足だ」

 カエルスは一歩前へ進み、エルノアの方を見た。

「愛は免責されるべきではない。だが、責任と共に存在できる。——彼女がそれを教えてくれた」


 ざわめきが広がった。

 エルノアの胸が高鳴る。

 何を言っているのか、彼の言葉のひとつひとつが熱すぎて、空気が変わっていく。


「将軍、それ以上は——」

「報告の一部だ」

「報告書にない発言です」

「なら、今書け」


 彼が差し出した筆を、エルノアは反射的に受け取った。

 指先が触れる。

 体温が伝わる。

 会場が静まった。


「君が作った制度に、俺は救われた。だが同時に、君によって破られた」


「……」


「俺は君を、愛してしまった」


 議場が息を呑む。

 誰かの椅子が軋む音。

 けれど、エルノアの耳にはそれすら遠く聞こえた。

 胸の奥で、氷が砕ける音がした。


 筆先が震える。

 白紙の報告書に、インクが落ちて滲んだ。

 その滲みが、紅に変わる。

 ——誓約違反の証。

 愛の発生。


「……条項一、互いを愛さない。違反確認」

 エルノアが呟いた。

 声が震える。

 彼女は筆を置き、視線を上げた。


「カエルス・ノルディアン。あなたの違反に対し、再契約手続きを提案します」

「再契約?」

「はい。免責ではなく、合意としての愛の条項を追加する」


 彼の瞳が見開かれ、すぐに微笑んだ。

「それは……新しい制度だな」

「共同署名しますか?」

「当然だ」


 エルノアは筆を走らせた。

 新たな条文が浮かび上がる。


 〈条項零:互いを信じ、愛することを許可する〉


 筆を止めた瞬間、魔法印章が眩く光を放つ。

 純白だった契約書が金に輝き、花のように開く。

 人々が息を呑む中、カエルスが手を差し出した。


「監査官エルノア。——再契約の相手として、君を選ぶ」

 彼女はその手を取った。

 温かかった。

 こんなにも温かいものを、制度の言葉に閉じ込めておくことはできない。


 彼女は微笑み、ゆっくりと頷いた。

「これが、“愛を免責しない制度”です」



 その夜、王都の空は淡く曇っていた。

 議事堂を出た二人の前に、春の風が吹き抜ける。

 遠くで桜が散っている。


「……終わりましたね」

「いや、始まったばかりだ」

「再契約の報告書、明日までに仕上げます」

「また仕事か」

「制度が完成するまでが恋愛です」

「お前らしいな」


 カエルスが笑い、エルノアもつられて笑った。

 どちらの笑いも、もう冷たくはなかった。


 風が髪を揺らす。

 彼は一歩近づき、囁いた。

「制度を守る者が愛を語るとき——それは、真実だ」


 その言葉が、春の空気に溶けていった。


 季節は夏へと傾いていた。

 雪深い辺境の砦にも、短い陽光が差し込む。

 エルノア・ヴァレンシュタインは机の上の紙束を整え、最後の署名を終えた。

 王都での審議会から三か月。

 彼女とカエルスの“再契約”は、正式に王国法へと組み込まれた。


 ——〈愛は免責されず、責任と共に存続する〉。

 新たな第零条。

 それは、王国史上初めて“愛”という語が法律文に記された瞬間だった。


 窓から吹き込む風が書類を揺らし、インクの香りを運ぶ。

 エルノアは静かに息をついた。

 報告書の表紙には、こう記してある。


 『監査終了報告書 兼 婚姻制度改定記録』

 署名:エルノア・ヴァレンシュタイン、カエルス・ノルディアン。



 午後、庭の白い石畳を歩いていると、兵士たちが軽く敬礼をして通り過ぎていった。

 彼女は“氷の将軍の妻”としてではなく、制度を再構築した監査官として、敬意を受けていた。

 それがどれほど誇らしいことか——今のエルノアはよく分かっていた。


 中庭の中央には、かつての契約印章を埋め込んだ記念碑が立っている。

 白い石の表面に、淡く金の文字が刻まれていた。


 〈愛の記録は、今日も更新中〉


 その言葉を読んだ瞬間、胸の奥がふっと温かくなる。

 ふいに後ろから声がした。


「——あの文は、君が書いたのか?」

 カエルスだった。

 いつもの軍装ではなく、薄いシャツに手袋だけという珍しい姿。

 彼がこの砦で“人間の顔”を見せるのは、たいてい彼女の前だけだった。


「ええ。制度は完成しても、記録は終わりません」

「つまり、俺たちの契約はまだ続いている」

「当然です。契約は更新型ですから」

「更新手続き、そろそろか?」

「次の条文案、もう草稿を用意しました」


 エルノアが懐から紙片を取り出す。

 そこには、小さく書かれた文字。


 〈条項一:互いの沈黙を尊重する〉

 〈条項二:疲れた時は紅茶を淹れる〉


 カエルスは吹き出した。

「それは法律じゃなくて、生活の取り決めだろう」

「制度は生活の中で息をするものです」

「……なるほど。君に監査される男は、幸せ者だな」


 ふと、風が吹いた。

 髪が揺れ、淡い陽光が二人の間を照らす。

 カエルスが、少し照れたように顔をそらした。


「俺は今でも、制度に守られている気がする」

「制度を作るのは人です」

「なら、その“人”を守りたいと思うのは、制度違反か?」

「……いいえ。条項零に基づき、愛することは許可されています」


 彼の目が笑い、エルノアも微笑んだ。

 互いに何も言わず、ただ同じ方向を見た。



 夜、執務室の灯が落ちる。

 エルノアは一人、書きかけの文書を見つめていた。

 そこにはタイトルだけが記されている。


 『白い契約、第二版』


 ペンを取ろうとして、彼女はふと止めた。

 代わりに、机の上に一輪の白い花を置く。

 それは、カエルスが昼間庭から摘んできた花だった。


 花びらに指先で触れながら、エルノアは小さく微笑んだ。


「——監査官の記録、ここまで」


 そう言って、筆を置く。

 だが、報告書の余白には、もう一行だけ添えた。


 〈愛は、制度を超えても存在してよい〉


 インクが滲み、ゆっくりと乾いていく。

 窓の外で風が鳴り、遠くで彼の笑い声がした。

 その音が、静かな砦の夜に溶けていった。



 翌朝。

 王国広報官が公式に布告を読み上げる。

 新しい法典の中で、“真実の愛”という言葉は完全に削除され、代わりに次の文が追加された。


 〈愛は虚偽を許さず、誓約の履行をもって証とする〉


 群衆が拍手した。

 それは革命でも、反乱でもない。

 ただ静かな、制度の進化だった。


 その中で、エルノアとカエルスは互いを見た。

 もう、言葉はいらなかった。

 契約も、署名も、いまはただ——日々を共に生きるという事実がすべてだった。


 エルノアは心の中で、最後の一文を記す。


 〈この契約は、今なお有効である〉


 そして微笑んだ。

 監査は終わった。

 けれど、愛の記録は、今日も更新されていく。

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静かで淡々としたお話ながらも、2人の揺るぎない信頼と愛情が感じられて、まるで仏映画のような美しい流れに身を委ねている感覚になりました。 法治国家における法とはなんだろう?と考えさせられるお話でもあり…
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