第9話:記憶の器
かつて、森と田の境に生きた者がいた。
名をアシリ。精霊と模様を通じて語り合った者。
その模様は、時を越え、土器の中に眠り続けた。
「模様は、語りを記憶し、伝える」
──
静かな森の中にある根深村。
湿地が多く、粘土質の土が豊富なこの土地では、古くから土器づくりが盛んだった。
今では全国から陶芸家が集まり、“芸術村”として知られている。
村内には工房が点在し、土と風と水が交差するこの地には、創造の気配が満ちていた。
十年前、根深村で発掘調査が行われ、縄文時代終末期の集落跡が発見された。
根深遺跡から出土した土器は、終末期とは思えないほど精緻な模様を持ち、学術的にも注目を集めた。
村おこしの一環として、茅葺屋根の小さな資料館が建てられた。
根深遺跡の出土品を展示するための空間であり、館長と学芸員の二人だけで運営されている。
こじんまりとした館ながら、類例のない美麗な縄文土器が静かな力を放ち、訪れる者の心を打つ。
学芸員を務めるのは、この村出身の葦里承太。
東京の大学で縄文土器の模様研究を専攻し、民間の発掘会社に就職したが、人間関係に疲れて離職。
実家に戻った頃、資料館の建設が始まり、地元企業の社長である父の縁もあって就職に至った。
普段は寡黙で感情を表に出すことは少ないが、縄文土器の模様を描くときだけは、驚くほど生き生きとする。
その理由は、祖父の存在にある。
葦里家の裏には祖父の書庫があり、黄ばんだ郷土誌、手書きの論文、地元の古地図が並んでいた。
その隅には、祖父が各地から採集してきた縄文土器が静かに置かれていた。
家業で忙しい両親に代わり、承太は祖父母に育てられた。
とりわけ祖父に懐き、土器の模様について語る声に耳を傾けていた。
意味は分からなくても、模様の美しさに目を奪われた。
それが、承太の記憶の原風景——語りの器との最初の出会いだった。
ある午後、やわらかな光が差し込む資料館の搬入口に、ひとつのコンテナが運び込まれた。
現在、根深遺跡では学術調査が進行中。調査の主体は承太の母校。
指導教官から連絡があり、「ぜひとも発掘したい」とのこと。
面倒だなと思いながらも、学生時代の情熱が思い出され、承太は手続きを引き受けた。
トラックが静かに止まり、学生が慎重に荷を下ろす。
コンテナには「土器在中」の文字。
その中には、今回の調査で出土した縄文土器が、静かに眠っていた。
学生が言った。
「先生の話によると、集落の中心で検出した穴の中に、置かれていたそうです。
だけど割れてバラバラになってて…」
わざと割って埋納したのか?儀礼か?
承太の意識が縄文世界に入り込みそうになる。
学生は気にせず話を続ける。
「葦里さんに図面を描いてほしいとのことです」
承太は無言でコンテナを受け取り、中身を確認する。
確かに1個体分はありそうだ。
「接合してから記録をとるので、少し時間がかかります」
「1か月後の講演に間に合えば良いそうです」
厳しいスケジュールだと内心で溜息をつきながらも、「分かりました」と返す。
収蔵室にコンテナを運び、ひとかけらを取り出して眺める。
美しい三重の渦巻文。試しに模様を描いてみる。
その時、実測図の紙の上の渦巻きが、震えたような気がした。
その模様は、まるで風を孕んでいるようだった。
祖父の言葉が脳裏をよぎる。
「縄文土器の模様には、確かに物語があるんだ。
今のわしらには分からないけど、縄文人は模様を通じて自然と対話していたんじゃないだろうか」
ほかの欠片も確認する。
不規則な波状文。つる草文。
その中に、星座のように点と線が繋がる模様があった。
これは何だろう……空の模様か?
そのとき、耳元で微かな女性の声がした。
「正解」
ハッとして我に返る。
外から子どもたちの声が響く。
「ねえ、これ顔みたい!」
「模様すごい!」
展示室の方で、縄文土器を囲んで騒いでいる。
承太は静かに呟いた。
「気のせいか…」




