第6話:無の器
カムナの家では、静かな時間が流れていた。
アシリは火のそばに座り、模様の訓練を続けていた。
カムナは言葉少なに、それぞれの意味を教えていく。
「渦は、風を呼ぶ。精霊の通り道ともなる」
「つる草は、命が生まれる予兆」
「波紋は、語りが広がるしるし」
「点描は、声の粒。火との語らい」
「蓮弧は、過去と未来をつなぐ」
アシリは黙々と、粘土に語りを刻んでいった。
誰も見ていなくても、誰も聞いていなくても。
渦巻きが震え、波紋が広がる。
語りは、まだここにある。
その頃、男たちは足しげくカナヤへ通っていた。
ナガサとの交易、コメの育て方——
彼らは語りではなく、情報を集め始めていた。
そして気づいた。
シネプカのまわりには湿地が多く、タを作るには適している。
水があり、土が柔らかく、陽も差す。
語りの地は、コメの地にもなり得た。
やがて、ナガサの者たちがやってきた。
「ここは良い土地だ。コメが育つ」
彼らは喜び、シネプカの者たちと手を取り合った。
数人が移住を始め、タづくりの指導が始まる。
水の引き方、種のまき方、火の使い方——
語りではなく、技術が継がれるようになった。
カナヤからは、石製の鍬の刃がもたらされた。
シネプカの女たちは、柄を削り、道具を仕立てた。
男たちは土を起こし、水を引き、少しずつ開墾が始まった。
土器の火のそばでは、ナガサからもたらされたコメが炊かれ、甘い匂いが村に充満していた。
カムナは、家にこもるようになった。
火の前で、土器に祈りを捧げる日々。
声は風に乗らず、土に沈み始めていた。
その日、アシリは川のほとりで土器を作っていた。
粘土をこね、渦巻きを刻み、精霊の気配を感じながら、語りを器に宿していく。
風は静かで、鳥の声が遠くに響いていた。
そこへ、数人の女たちがやってきた。
ナガサから移ってきた者もいれば、シネプカの若い女もいた。
彼女たちは笑いながら、アシリの隣に座り、粘土を手に取った。
「風が吹くね。ここで作ると、よく乾く」
「粘土が良い。形がきれいにまとまる」
そんな言葉が交わされる。
アシリは最初、嬉しかった。
語りが広がるような気がした。
けれど、ふと手を止めて、彼女たちの土器を見た。
模様が、なかった。
渦巻きも、波紋も、点描も、刻まれていない。
ただ、形だけが整った土器が並んでいた。
「どうして、模様をつけないの?」
アシリが静かに尋ねると、ひとりの女が答えた。
「不要だから。煮るだけなら、模様はいらない」
別の女も言った。
「模様があると、洗いにくいし、割れやすい」
アシリは言葉を失った。
風が止まり、精霊が遠ざかるような気がした。
渦巻きが震えず、波紋が広がらない。
彼女らの器には、語りが抜け落ちていた。
女たちは笑いながら、土器を並べていく。
形は美しく、火に強く、実用的だった。
けれど、語りはなかった。
ナガサの者が言うには、村では数人の者が土器づくりを一手に引き受けているという。
村で一番の作り手による土器は、形が整い、火に強く、割れにくい。
けれど、模様はない。渦巻きも、波紋も、点描も、刻まれない。
並んだ土器は、どれも同じ顔になる。
ナガサの者たちは、朝から夕までタに出ている。
水を引き、種をまき、陽を浴びて、コメを育てる。
誰も、器に語りを刻まない。
アシリは、それを聞きながら思った。
目の前にある模様のない土器。語りの気配はない。
それは、命を煮る器ではあっても、記憶を宿す器ではなかった。
模様は、人と精霊の交流だった。
受け継いできたものだった。
伝えていくべきものだった。
それが、器から消えていく。
アシリの心には、静かな悲しみが広がっていった。
火はまだ燃えている。粘土はまだある。
けれど、語りがなくなる。
無意識に、土器を抱きしめていた。
そのとき、風の声が聞こえた。
「語る者よ、模様を描け」
はっと気づくと、その声は、遠くなっていた。
彼女は、土器をそっと地に置いた。
風が、土器の縁を撫でた。
語りは、まだここにある。
語りは、私が受け継ぐ。




