第1話:語りの器
空は深く澄み渡り、どこまでも静かだった。
風は音もなく流れ、山々の稜線をなぞるように輪を描いていた。
その山の懐には、匂い立つ緑が茂る森が広がっている。
木々は太古の息吹を宿し、幹は苔に覆われ、かすかに響く葉のざわめきは語りのように、そこにすむ動物たちの耳を撫でていた。
森の奥では、川が蛇のように身をくねらせながら流れていた。
岩を避け、根をくぐり、時に泡立ちながら、彼方へ続いていく。
さざめきの音が各所で聞こえ、命を包み込む。
それを受け止める空は広く、雲の渦をゆるやかに飲み込んでいた。
川が小さくなり、なだらかとなった平野のほとりに、小さな村があった。
土と風と水に囲まれた村——シネプカ。
人々は精霊との対話を望み、その声に従いながら静かに暮らしていた。
シネプカで生まれた少女、アシリには、すでに親がいなかった。
彼女が生まれてまもなく、母は身を崩し、風に運ばれていった。
父の名は語られず、村人たちは彼女を「風の娘」と呼んだ。
村の子どもたちと遊ぶことは少なく、彼女はいつもひとりでいた。
風と語り、湖と向き合い、土に触れていた。
彼女の指先は、土の温度や水の流れ、風のささやきを感じ取るように、静かに動いていた。
その日も、風は静かに吹いていた。
川の水面は薄く揺れ、草木がさざめいている。
アシリは膝をつき、ひとつの土器に渦巻きを刻んでいた。
指先は迷いなく動き、螺旋は三重に重なりながら、土器の中心へと沈み込んでいく。
その模様は、風の声をなぞるようだった。
彼女の目は真剣で、唇は閉じられ、呼吸は土器とともにあった。
その背後に、柔らかな足音が近づいた。
カムナ——白髪を編み、鹿革の衣をまとう、精霊の声を人々に届けるシャーマン。
彼女は静かに座り、アシリの手元を見つめた。
その目は深く、風の記憶を宿しているようだった。
「風の記憶。その渦は、誰に習った?」
アシリは振り向き、少しだけ目を伏せながら答えた。
「風の声が聞こえたの。『模様を描け』って」
カムナは目を見開いた。
「そなたは選ばれたのか。言葉ではなく、模様で語り、記憶を残せる者として」
アシリは戸惑いながらも、土器を見つめた。
その模様は、確かに彼女の中から生まれたものだった。
けれど、それが語りであるとは、まだ信じられなかった。
カムナは土器の口縁に指を滑らせながら言った。
「ここに描くべきは、空の記憶。点と線をつなぎなさい」
アシリは目を見開いた。
「空にも模様があるの?」
「あるとも。選ばれた者だけが見える。それが語る者」
アシリは少し俯き、つぶやいた。
「わたしは語る者じゃない。ただ、模様を描いただけ」
カムナはそっとアシリの手を包み込んだ。
その手は冷たく、けれど確かな温もりがあった。
「自然の声が聞こえたのなら、そなたは語る者。
風の声を模様に変え、器に記憶を宿す者。
語りは、言葉だけではない。
土に触れ、風を聴き、命を刻む——それが語る者の道」
アシリは静かに頷いた。
その瞬間、風がふわりと吹き抜け、土器の渦巻きが微かに震えた。
それは、語りの始まりだった。




