ダークサイド・過去の記憶
このお話を読んでくださる皆様へ。
いつもありがとうございます。
この51話から53話まで、暴行、自殺などの表現がある暗いお話となっております。
苦手な方は54話からお読みいただいても繋がるよう書いてございます。
ご迷惑をおかけいたしますが、どうぞご理解の程、お願い申し上げます。
ありがとうございました。
ねここ
「あ、雨……」
雨は天の涙だと、誰が言ったんだろう?
絹糸のような細い雨が、音もなく、降ってきた。
強い雨と違い、全ての生きとし生けるものに優しく、語りかけるような雨。
心がすり減った私の代わりに、天が泣いてくれている、
そう感じさせる優しい雨。
マリアは雨の中、傘もささず歩いた。
ここ以外の、別の場所にむかって。
*
母は十四歳で私を身籠もった。
同い年の父は母が自分の子を孕ったと知らない。
恐らく死ぬまで。
月経が止まり不安の中、相談する人も機会も見つけられなかった十四歳の母。
教育者だった両親が気がついた時には既に臨月。
母は家から遠い場所に連れて行かれひっそりと私を産んだ。
その後、母は生まれたばかりの私を抱き、都会に住む歳の離れた姉の元に転がり込み、
そこで三人暮らし始めた。
母の両親は十四歳で子供を産んだ母を許せずそのまま縁を切った。
その後のことはわからない。
母の姉、私にとって叔母にあたる人は母の代わりに私を愛し、育ててくれた。
その頃の母は、新しい男ができ、ほとんど帰ってこなかった。
私が小学生になった頃、叔母が不慮の事故で死んでしまった。
連絡しようにも母が何処にいるのかわからなかった。
行くあてがない私は施設に入った。
しかし数ヶ月後、突然母が知らない男と一緒に私を迎えに来た。
キッチンとベットルームしかない、小さな小さなアパートに三人。
私にとって居心地の悪い空間で新しい生活がはじまった。
母の彼氏は大学生。印象が薄い青年で母に骨抜きにされていた。
人はこうしてダメになって行くんだと思えるほどその青年は転落していった。
だんだんと大学に行かなくなり、毎日毎日部屋で母と過ごしていた。
学校が終わり家に帰っても情事が終わるまでずっと部屋の外で待っていた。
夕日と、朝日は外で見ることが多かった。
母達は夜仕事に出かけ、明け方四時頃に帰ってくる。
二人が帰ってきたら私は外に出て毛布を被り、朝日を見つめていた。
その朝日を美しいと思ったことは一度も無かった。
彼に出会うまで。
結局母とその大学生は破局した。大学生の親がアパートに乗り込みその男は連れて行かれた。
しかし母はすぐに次の男と出会い、私を連れ同じような生活を何度も繰り返した。
哀れな母は学習能力が無く、感情で生きる人間だった。
理性という言葉が母の中で存在しないと思うほど、
些細なことで激怒し、何度も何度も殴られた。
これほど理不尽なことがあるのかと殴られるたび涙したが、
その涙も、いつからか枯れ果てた。
母からの仕打ちに、崩れそうになるこの心をどのように守ればいいのか?
ただひたすらに、母を怒らせる自分が悪いのだと思っていたが、ある日気がついた。
それは正しく無い。悪いのは母だ。
母の今は、過去が作っている。安易な道を選ぶほど、その未来は苦しいものになる。
現実に向き合うこともせず、ただ心赴くまま生きているだけの母。
私が理不尽なことで殴られるのはそのせいで決して私が悪いのでは無い。
母はただ生きているだけで、物事の本質がわからない可哀想な人間なのだ。
だから、自分よりも弱い立場の私を殴り、自分の存在意義を確認しているだけ。
そう気がついた時から、たとえ殴られても心だけは折れないと、心だけは屈しないと決めた。
哀れで気の毒な母に、この心だけは触れさせないと決めた。
それからも哀れな母は出会いと別れを繰り返した。
男と別れても母は私を手放すことはしなかった。
それはどういった感情なのか……未だにわからない。
知る機会もなかった。
そして、私の人生を変えるあの男が現れた。
男は母の恋人だったが、真のターゲットは私だった。
その男は他の男と違い一緒に暮らさない、時々現れる男。
その当時少女だった私に向けるその男の視線は体にまとわりつく、湿度があるものだった。
まるで大蛇がゆっくりと獲物を締め殺すような、逃げ場のない残酷さ瞳に宿し、それを快楽に昇華させる歪んだ思考を持ち合わせる男。
得体の知れぬ恐怖を煽る視線を向け、私の反応を味わうような不気味な笑顔を見せる。
その男は音もなく現れ振り返ると、いつも私の真後ろに立っていた。
いつから背後に居たのかわからない、知りたくもない得体の知れない静かなる狂気。
何をするわけでもなく間近で私を見つめるその男の瞳は、私の恐怖心を楽しんでいるように見えた。
二人きりになる時間を避け、出来るだけその男の目につかないように生活をする。
十三歳の私に対し、三十代の男は悍ましい欲望を抱き、ゆっくりと、確実に、その距離を縮めた。
この先、万が一体は屈したとしても、心は屈しない。
それだけが非力な自分の武器となる。
そして、突然その日がやってきた。
男は母の目の前で私を襲った。
母はその男に殴られ左頬が腫れており、恐怖に支配された表情は醜く歪んでいた。
その顔で瞬きもせず、襲われる私を見ていた。
助けて!と、伸ばしたこの手を虚な眼差しで見つめる母。
母はこの男に身も心も囚われ、生贄として私を差し出したのだ。
男はキッチンにいた私を背後から羽交締めにし、ズルズルと寝室に引きずって行った。
男の荒い息遣いが耳元で聞こえ、恐怖と気持ちの悪さに吐き気がし、全身の血液が抜けてしまったように体が冷たく硬直した。
ああ、心が折れそう
その生暖かい、荒々しい息遣いは生きる気力まで奪えるほどの力があった。
けれどこんな男に屈するなら死んだ方がマシだと思う気持ちが心の片隅に、少しだけ残っていた。
ベットに倒されたくない。口を塞いでいる男の指が口の中に入ってきた瞬間思いっきり噛んだ。
鳥の軟骨を噛み砕くような罪悪感のある不快な衝撃と、ツンとした酸っぱさがある血液を口の中で感じながらも、この指を噛み切ってやると怒りに近い感情で何度も指に噛みつき抵抗した。
痛みのあまりに男の拘束が緩んだ隙に、真下にしゃがみ込み、あらためて捕まえようとする男に抵抗しながらたまたま近くに落ちていたハサミを両手で掴み握りしめ、男の腹に向けつき刺した。
硬いゴムを突き刺し、その部分が弾けズルズルと鋏の先が中に吸い込まれるような独特の感触。
人間の体は肉体といわれる理由がわかったと、冷静に感じた瞬間だった。
男は一瞬止まり、自分の醜い腹を見た。
突き刺さるハサミを見て男は取り乱し、そのまま前に倒れて来た。
私は重くのしかかる男の体から必死に抜け出し、そのまま外に逃げた。
十三歳の出来事。




