孤児院
マリアは不安に涙が止まらなくなった。
負の感情が心を覆い尽くし体がガタガタと震え出す。これほどまでにエリゼを思っている自分自身に戸惑いながらも溢れる涙を止めることができない。街の向こうに見える白亜の城。あの場所にいる人間に戦いを挑むなど不可能に思える。
「あなた、大丈夫?」
大通りの片隅にしゃがみ込み泣いているマリアに誰かが優しく声をかけた。
マリアは流れる涙をそのままに顔を上げ、動揺に揺れる気持ちを口に出す。
「大丈夫……ではありません。悲しくて、怖くて。震えが……止まらなくって……」
マリアはエリゼのことを考え冷静ではなかった。誰でもいいから大丈夫だと言って欲しい。
「……一緒についていらっしゃい」
目の前で心配そうにマリアを覗き込んだ女性は修道女だった。修道女は不安に震え泣いているマリアの手を優しく握る。
その暖かさに体の緊張感が緩む。言葉はなくとも大丈夫だと指先から伝わる気がし、マリアは立ち上がった。修道女は優しくマリアを見つめ、歩き出す。そのまますぐ近くにある孤児院にマリアを連れて行った。
「これをお飲みなさい」
マリアは温かいミルクをもらい一口飲む。ミルクの優しい風味と暖かさが全身に染み渡る。程なくし、マリアは落ち着きを取り戻した。
修道女はマリアの様子を見て安心し、ゆっくりと話しかける。
「もしかして、あなたソフィ様の偽物のマリア……さん」
「え?……ご存じですか。ああ、この顔で、わかります、よね」
マリアはそう言って俯いた。先ほどまでは顔を隠していたがエリゼの話を聞きそれどころでは無くなった。エリゼとソフィの話は帝国の孤児院まで知られているのだとその影響力に驚きながらも、気まずさに両手を握る。何かを聞かれたらどう答えれば良いのかわからない。
「安心してください。私は何も詮索しませんし言いません。マリアさん、ここにいて良いのよ。私はモニカ。実はここ、ザノッティ公爵家が作った孤児院で児童売買などない安全な所です。ここにいなさいな」
モニカはマリアの様子を察し暖かい声をかけた。
(ザノッテイ公爵家が建てた孤児院……)
マリアは黙って頷く。ザノッティ公爵と聞き、エリゼの顔を思い浮かべ唇を結ぶ。今口を開けば押し込めた気持ちが爆発しそうになる。思い出が溢れ出てまた涙が止まらなくなりそうでマリアは奥歯を噛み我慢する。
縁あってエリゼの家門ザノッティが作った孤児院に保護してもらった。エリゼと再会することはないだろうが、ほんの微かでもつながっていることに心が温まる。今のマリアにとって心の支えになるほどの出会いだ。
モニカは安心したような表情を浮かべたマリアを見つめ優しく言った。
「マリアさん、今噂されていることに心を痛め心配する必要はありません。エリゼ様は類まれな方。本当に特別な方です。エリゼ様を信じこの帝国の未来を見守りましょう」
マリアはその言葉に溢れ出る涙を堪えることが出来なくなった。ポロポロと涙を流しながら何度も頷いた。
(エリゼ様の無事を信じことの成り行きを見守ろう)
マリアは覚悟を決めた。
*
マリアはモニカの手伝いを始めた。
この孤児院にいる子供たちはそのほとんどが実の親に捨てられた子達だ。その中で、ひどい虐待を受けた子もいる。
マリアは昔の自分を見ているような気がしていた。
傷ついた子供達に寄り添うことは出来ても結局乗り越えるのは本人しか出来ないことだ。何も言わず、ただ寄り添い、悲しい時は共に泣き、嬉しい時は共に喜ぶ、そんな当たり前が当たり前じゃなかった子供達にマリアは寄り添った。そして物事を肯定的に捉えられるように一人一人の存在を尊重し、その人格を認め、あっという間に孤児たちの良き理解者となった。
マリアは孤児の世話をしながらエリゼの動向を見つめていた。
そんなある日突然市場から物がなくなり街は混乱した。人々は毎日城で行われているパーティを批判し、政に不満を募らせ暴動が起こった。それを慌てた貴族たちは城で備蓄していた食料を放出したが、その値段に手を出せる人間はいない。通常の三倍の値段で彼らは民衆に買えと言ってきたのだ。これに対し民衆は怒りを爆発させ帝国広場に集まり一発即発の状況になった。しかしエリゼが現れ公爵家を解放し無償で食料を配ると言ったのだ。その言葉に民衆は歓喜し皆ゾロゾロと公爵家に向かい始めた。
「さあ、みんなでザノッティ公爵家に行きましょう!」
モニカは孤児を連れザノッティ公爵家へと歩き出す。マリアも後ろから一緒についてゆく。だが、公爵家が近づくに連れ、足取りが重くなる。あの日さよならと言ってエリゼの前から去ったマリアが、こんなところにいるなどエリゼは思っても見ないだろう。いや、その前にマリアのことなど忘れてしまったかもしれない。
マリアは複雑な心境に足を止める。
エリゼはこの国の民衆を救うため、ザノッティ一族を総動員し戦っている。そんな時に何も出来ない自分が許せなくなる。マリアは唇を噛んだ。できることなど何一つない。だが、それを見ているだけの自分にも腹が立つ。
マリアは公爵家の門の前まできたが、中に入るのを躊躇している。人に見られないようスカーフで顔を隠しているが、それでも複雑な心境になり中に足を踏み入れる事ができない。
先を行く孤児たちは初めて見る公爵家にはしゃいでいる。門の前で躊躇しているマリアにモニカは声をかける。
「マリアは行かないの?」
マリアは首を横に振り言った。
「……私は……ここで……」
マリアは公爵家の正門の前で足を止めモニカに言った。モニカはマリアの心中を察し言った。
「マリア、……あなたの分ももらってくるわ」
マリアはモニカの言葉に頷き公爵家を見つめた。
(堂々とここに入る日は来ないとわかっている。こうして陰から見守るだけで十分だわ)
マリアはそのまま一人孤児院に戻った。
その数日後、更なる事件が起きた。エリゼが城に呼び出されたと町中が大騒ぎしている。
このままエリゼが城にゆけば捕えられ殺されてしまうのではないかと民衆が騒ぎ出したのだ。その言葉を聞いたマリアは気が気じゃなくなり孤児院を飛び出しザノッティ公爵家に走った。公爵家の周りにはすでに多くの民衆が集まっており皆口々に叫んでいる。
「エリゼ様を守る!」
「エリゼ様と共に武器を持って城にいくぞ!」
その様子を見てマリアは息を呑む。エリゼはこれほどまでに民衆の支持を得ているのだ。そんなエリゼの首を取るなどできるはずも無い。そこでマリアはエリゼの狙いに初めて気がついた。
(エリゼ様はこれを狙っていたんだ!)
マリアはエリゼがなそうとしていることがわかった。エリゼは民衆を味方にし、帝国に戦いを挑んだのだ。
犠牲者を出さずして目的を達成する戦い方。
安心と共にエリゼの勝利を確信した。そして手の届かない人になる。マリアは滲む景色に両手を握る。共にみた夕焼けと朝日を思い出し切なさに胸が詰まる。もう二度と戻ってこない日々。
(エリゼ様はこの国の皇帝になる)
口にすれば手の届かない現実を直視しなければならない。けれど、それでもいいと思い直す。
(エリゼ様が幸せであれば、それで十分)
マリアは街の向こうにそびえ立つ城を見つめ続けた。




