夜の図書館:喜びの棚より「あの日の風鈴が鳴る」
風が止まったとき、思い出も立ち止まる。
この短編は、『夜の図書館』という幻想図書館を舞台にした、静かな物語のひとつです。忘れかけていた記憶、あのとき言えなかった言葉、胸の奥に残った“音”。そんな、どこか懐かしくて、やさしい記憶の断片をそっと拾い上げるような、ひとときをお届けします。
──物語は、「喜びの棚」から。
その音は、
風が止まった夜にだけ、ふいに鳴る。
潮の香りを運ぶ、夏の風。
古びた倉庫の軒先で、風鈴がかすかに揺れていた。
ミナは立ち止まった。
あの音──十数年前、幼いころに聞いた、懐かしい響きだった。
足元に、小さなセミのぬけがらが落ちている。
透明で、からっぽで、触れれば壊れてしまいそうな夏の記憶。
仕事帰りにふと訪れた港町。
誰もいないと思っていた場所で、音だけが、時を遡るように彼女を包んだ。
そして、からっぽの殻だけが、あの日々を静かに物語っていた。
その瞬間、空気が変わった。
街灯の明かりが一つずつ消え、
倉庫の壁が、ふわりと揺らいだ。
──夜の図書館が、開いた。
ミナは、扉に手をかける。
忘れていた「約束の音」が、胸の奥で微かに鳴った気がした。
扉の中は、静かな青に満ちていた。
天井から吊るされたランプが、本の背表紙をやさしく照らし、
棚のあいだから、いくつもの"音"がそっと滲んでいた。
「……音の書架」
そう書かれた木札の前で、彼女は足を止めた。
その空間は、音楽室のように静かで、そして、どこか懐かしかった。
ガラスの奥に、ひとつだけ風鈴が飾られている。
あの日と、同じかたちだった。
その前で、本が一冊、ふわりと開いた。
ページの奥から、風が吹くように、誰かの声が届いた。
「……まってたよ」
ミナは、息をのんだ。
その声を、知っていた。
あの夏の日、あの風の中で、確かに聞いた声だった。
風鈴が静かに鳴る。
ページは、淡く光を帯び始めた。
ミナは手を伸ばし、そっと本に触れた。
──ページの中へ、吸い込まれるように。
それは、読むのではなく、
思い出す感覚だった。
記憶でも夢でもない。
けれど、確かに、かつて体験した夏の続きだった。
──祭りの終わり。
──港町の外れ。
──ひとつだけ吊るされた、風鈴の下。
縁側に、少年がいた。
ミナを見て、少しだけ照れたように笑った。
「来てくれたんだね」
それは、あの日に言いそびれたはずの言葉。
ミナも笑った。
「……うん、ずっと気になってたから」
風鈴が、ひとつ、澄んだ音を鳴らした。
ふたりは並んで、縁側に座る。
柱に、小さなセミのぬけがらがひとつ、くっついていた。
透明で、からっぽで、でも確かにそこにある。
「あのころと、変わらないね」少年が、ぬけがらを指差した。
ミナも見上げる。
「……うん。でも、中身はもういないんだね」
「そうだね。でも、かたちは残ってる」
少年がそっと言った。
「ぼくも、ずっとここにいたよ。君が戻ってくるのを」
言葉は少なくても、
それだけで、十分だった。
静かな風が吹いて、
そして、やがて、風が止まった。
少年が、そっと言った。
「ありがとう。ちゃんと会いにきてくれて。……もう、行けるよ」
ミナは、涙をこらえて頷いた。
そして──
光が、やわらかく、遠のいていった。
*
ふたたび目を開けると、
そこは"音の書架"。
風鈴は、もう鳴っていなかった。
でも、胸の奥に、あたたかな余韻が残っていた。
足元に、一枚の紙片。
「また、いつか。夏の風が、ここまで届いたら──」
ミナはそれをポケットにしまい、
図書館の扉をくぐる。
朝の光が、港町を包み始めていた。
倉庫の前を通り過ぎるとき、
足元に、あの小さなセミのぬけがらがまだ落ちていた。
今度は、そっと手に取った。
からっぽだけれど、透明で美しい。
風が吹いて、遠くで風鈴が鳴ったような気がした。
ぬけがらを空に向かって放すと、
それは朝の光の中に、ふわりと舞い上がっていった。
どこかで、きっと新しい夏が始まっている。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
風鈴と、セミのぬけがら。
Threadsで開催されていた物書きさん交流企画──その素敵なテーマ「風鈴」と「セミのぬけがら」に合わせて、noteで無料公開中の短編『あの日の風鈴が鳴る』を、朗読風バージョンとして加筆・再編集しました。
透明で、からっぽで、
それでも確かに“あの日”がそこにあったと思わせてくれるもの。
──風に揺れた音と、地に落ちた殻が、静かに夏の記憶を語りはじめます。
『夜の図書館』は、夜にだけ開く不思議な図書館を舞台に、静かな物語を一冊ずつ綴っていく短編シリーズです。
この「喜びの棚」には、誰かの心にそっと寄り添うような、ささやかだけれど温かい“喜び”を描いた物語を並べていきます。
風が止む夜に、もう一度思い出す。
そんな記憶を、またひとつ。
また次の棚、次の一冊で、お会いできますように。
廻野 久彩 (Kuiro Megurino)