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世界の、再調律

 朝、目が覚めると、世界は、以前と、変わらない、音を、奏でていた。


 壁に掛かった時計の秒針が、やはり、不規則な律動を刻んでいるのが聞こえる。遠くの、大通りからは、大型トラックが、地を、這うような、低い、走行音が、届いていた。だが、その、響きは、もはや、僕を、苛む、棘ではなかった。一つ一つの、ズレや、歪みは、この、世界が、持つ、愛おしい、癖のように、感じられた。


 僕が、身体を、起こすと、きみは、もう、起きていた。

 窓辺に、立ち、外を、眺めている。


 彼女は、僕の、視線に、気づいて、ゆっくりと、振り返った。

 僕たちは、何も、言わない。

 言葉は、もう、必要なかった。


 彼女の、瞳と、僕の、瞳。その、間に、流れる、静かな、時間には、昨日までの、戸惑いや、緊張は、もう、どこにも、ない。そこには、ただ、絶対的な、信頼と、共犯者だけが、分かち合える、重さを、持った、沈黙が、満ちているだけだった。


 ***


 その、静かな、空気を、破ったのは、ドアチャイムの、音だった。


 あまりにも、正確な、音階。

 楽譜に、書かれた、通りの、間隔で、二度、鳴り響く、その、電子音は、僕たちが、見つけた、世界の、響きの、中に、あって、ひどく、異質だった。それは、僕たちの、調和を、乱す、明確な、拒絶の、意思表示のように、聞こえた。


 きみと、僕が、視線を、交わす。

 ドアを、開けると、そこに、立っていたのは、母だった。


「あら、いたの。連絡くらい、しなさい」


 母は、僕の、返事を、待たずに、部屋へと、上がり込む。そして、窓辺に、立つ、きみの、存在に、気づき、一瞬、その、眉を、ひそめた。


「あなた、最近、ずっと、部屋に、籠っているって、聞いたわよ。学校は? 大丈夫なの?」


 母の、発する、言葉は、全て、常識的で、正しかった。

 その、一つ一つが、僕の、健康を、気遣い、将来を、心配する、善意に、満ちていた。


 だが、僕の、耳には、その、善意の、言葉が、耐え難い、不協和音として、届いていた。

 それは、世界の、歪みとは、違う。

 全ての、節を、削り取られ、磨き上げられすぎた、木材の、表面のような、無機質で、息の詰まる、音。

 その、正しい、音の、一つ一つが、僕と、きみとで、作り上げた、この、繊細な、世界の、壁を、外側から、叩き、ひび割れさせていくようだった。


 母の、視線が、僕から、きみへと、移る。

 その、視線は、きみの、顔、肩、そして、テーブルの、上に、置かれた、手に、止まった。

 僕が、昨日、見つけた、あの、小さな、傷跡。母もまた、それを、見つけてしまった。


「その、手の、傷、どうしたの? 女の子なんだから、傷なんて、作らないように、しないと」


 そして、母は、僕へと、向き直る。

 僕が、何も、答えられないのを、知っているのに、彼女は、言葉を、続けた。


「あなたも、そうやって、黙ってないで、何か、言ったらどうなの。ああ、言えないんだったわね。それも、早く、治さないと、社会では、やっていけないわよ」


 違う。

 違うんだ。

 僕の、これ。きみの、あれ。

 それは、治すべき、欠点じゃ、ない。


「二人で、こうして、いても、不健全なだけよ。二人とも、普通じゃないんだから」


 ああ。

 僕たちは、間違い。

 この、世界。その、中では。ただの、不健全な、間違い。


 きみは、その、言葉を、浴びながらも、一切、動じなかった。

 ただ、静かに、母を、観察している。

 その、静けさが、僕の、中で、ようやく、調和し始めた、響きを、粉々に、砕いていく。


 もう、何も、聞こえない。

 母の、声も。きみの、静けさも。

 ただ、頭の、中で、響く。

 正しい、音。正しい、言葉。

 それが、僕を、閉じ込める。

 壁に、なる。


 ***


 母が、去った、後。

 部屋の、空気は、彼女が、残した、言葉の、残骸で、満たされていた。

 正しい、という、名の、暴力。

 その、響きが、壁に、染みつき、僕と、きみとで、作り上げた、繊細な、調和を、汚していく。


 ここに、いては、いけない。


 僕が、そう、思った、その、瞬間に。

 きみが、先に、立ち上がった。

 僕も、それに、続いた。

 言葉は、なかった。ただ、一つの、同じ、想いが、僕たちを、動かしていた。


 僕たちは、まだ、日の、高い、街へと、出た。

 陽に焼かれた、灰色の、道を、照らす、午後の、光が、やけに、眩しい。行き交う、人々。その、誰もが、正しい、足並みで、歩き、正しい、声で、笑っている。僕たちだけが、その、世界の、調和から、弾き出された、不協和音だった。


 当てもなく、僕たちは、歩き続けた。

 太陽が、ゆっくりと、その、角度を、変え、街全体が、夕焼けの、色に、染まっていく。ビル群の、壁面が、一斉に、燃えるような、オレンジ色を、反射する。その、あまりに、美しい、拒絶の、風景を、僕たちは、ただ、黙って、見ていた。


 やがて、一番星が、空に、灯り、街は、人工の、光で、満たされていく。

 街を、様々な、色に、染める、光。街灯。マンションの、窓から、漏れる、温かな、光。

 その、どれもが、僕たちを、優しく、拒絶していた。


 僕たちは、自然と、その、光から、逃れるように、暗い、路地へと、足を、向けた。

 光の、届かない、場所へ。

 世界の、正しい、顔が、剥がれ落ちた、場所へ。


 そして、僕たちは、まるで、導かれるように、その、場所に、たどり着いた。

 錆びた、鉄の、匂いが、夜の、空気に、混じっている。

 巨大な、影が、月明かりの、下に、静かに、横たわっていた。


 僕たちは、その、錆びた、鉄の、フェンスの、途切れた、場所から、音もなく、敷地へと、足を踏入れた。


 耳の、中で、鳴り続けていた、僕自身の、不協和音が、初めて、音量を、下げた。

 月明かりが、天井の、抜け落ちた、部分から、差し込み、巨大な、機械の、残骸や、ひっくり返った、テーブルを、青白く、照らし出している。

 壁際には、かつて、何かを、飾っていたのであろう、ガラスの、箱が、いくつも、並んでいた。その、ほとんどは、割れ、あるいは、中は、空っぽだった。


 けれど、その、瓦礫の、中で、一つだけ。

 埃と、煤に、覆われ、その、中を、窺い知ることは、できない。けれど、他の、箱のように、砕けては、いない、ガラスの、立方体が、あった。


 僕たちは、まるで、何かに、導かれるように、そこへと、近づく。

 そして、僕が、自らの、手のひらで、その、冷たい、表面の、埃を、そっと、拭った。

 拭われた、その、向こう側。

 ケースの、中。天井の、抜け落ちた、穴から、差し込む、一本の、月光に、照らされて。

 二つの、器が、静かに、置かれていた。


 一つは、夜の、深淵を、その身に、写した、黒い、器。

 もう一つは、朝の、光を、その内に、湛えた、白い、器。

 その、どちらもが、一度、その、形を、失うほど、無残に、砕け散った、過去を、持ち、その、無数の、ひび割れを、黄金の、線が、繋いでいた。


 僕の、内側で、鳴り続けていた、不協和音が、ぴたりと、止んだ。

 目の前の、器に、走る、黄金の、線。その、一本一本が、僕の、魂に、刻まれた、癒えない、(ひび)と、寸分違わず、重なっていく。


 砕けているからこそ、繋がれる。

 その、声なき、声が、僕の、内側で、鳴り響いた。


 僕は、きみを、見た。

 彼女もまた、その、黄金の、輝きを、瞳に、映していた。

 そして、僕を、見た。


 言葉は、いらなかった。

 世界の、全ての、音が、消え去った、この、場所で。

 僕たちの、沈黙が、奏でる、最初の、和声を、僕たちは、今、ここに、見つけたのだ。


 僕は、手を、伸ばした。

 きみも、同じだった。


 僕の、右手が、きみの、胸に。

 きみの、左手が、僕の、胸に。

 薄い、布地を、通して、互いの、心臓の、鼓動が、直接、伝わってくる。


 速く、途切れがちな、僕の、音。

 ゆっくりで、時折、間が、入る、きみの、音。

 その、不揃いな、二つの、律動が、僕たちの、手のひらの、下で、混ざり合う。


 もう、僕たちは、その「ズレ」を、欠点だとは、思わない。

 これこそが、奇跡なのだと、知っている。

 二人だけで、奏でる、世界で、ただ一つの、完璧な、和声なのだと。


 僕が、そう、確信した、その、瞬間。

 世界が、応えた。


 僕たちの、足元から、伸びる、影が、その、輪郭を、曖昧に、揺らし始めた。僕の、速い、心音に、合わせて、収縮し、きみの、ゆっくりとした、心音に、合わせて、膨張する。影が、僕たちの、和声に、合わせて、静かに、呼吸を、している。


 遠くの、街の、灯りが、僕たちの、不規則な、心音あいと、同期して、ゆっくりと、明滅を、繰り返す。

 風の、音。金属の、軋む、音。この、廃墟に、満ていた、全ての、音が、僕たちの、内なる、うたに、引き寄せられるように、その、響きを、変えていく。


 世界が、僕たちに、調律されていく。

 その、壮大な、光景の、中で、僕たちは、ただ、互いの、瞳を、見つめ合っていた。


 世界の、脈動は、穏やかになっていく。

 僕たちの、和声に、合わせて、呼吸を、していた、影は、その、動きを、止め、遠くの、街の、灯りもまた、その、同期を、解いて、いつもの、夜の、光へと、戻っていく。


 全ての、音が、消え去った、世界。

 その、何もない、空間で、僕は、安堵よりも、むしろ、一種の、恐怖を、感じていた。

 僕の、存在を、縁取る、ものが、何もない。このまま、この、虚空に、溶けて、消えてしまいそうだった。


 その、存在が、希薄に、なっていく、恐怖に、突き動かされ、僕は、衝動的に、きみを、求めた。

 僕は、彼女の、胸に、もう一度、耳を、押し当てる。


 とく、…とく、とく、


 彼女の、あの、不規則な、心音。

 その、瑕だらけの、音だけが、僕が、まだ、ここに、いる、という、唯一の、証明だった。

 ああ、そうだ。

 正しい、世界じゃ、僕は、とっくに、死んでいた。

 きみの、この、不揃いな、音だけが、僕に、呼吸を、許してくれる。


 僕が、彼女の、心音で、自らの、存在を、確認していると。

 きみは、静かに、僕の、手を、取った。

 そして、その、手を、僕自身の、胸の、上へと、導く。

 僕の、不整脈な、心音を、彼女に、聴かせるように。


 これが、僕たちの、たったひとつの、心音(あい)の、聞かせ方。


 僕たちは、互いの、不揃いな、心音を、感じ合う。

 視線が、交わる。

 言葉は、ない。


(ねぇ、耳を、澄まして)

(…きこえる?)

(きみの、音。僕の、音)

(これが、わたしたちの、(うた)だ)

YouTubeで

瑕疵ある心音の聞かせ方

と検索すると原作となる楽曲を視聴できます。

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