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第三章:罅で叩く扉

 僕の、視線は、長い間、僕自身の、内側だけを、向いていた。


 だが、今は、違う。

 僕は、きみを、見ていた。


 彼女は、何者なのだろう。

 なぜ、僕の、弱さを、肯定することが、できたのだろう。

 彼女自身は、痛みというものを、持たないのだろうか。


 僕の、視線は、テーブルの、上に、置かれた、きみの、手へと、注がれる。

 静かに、組まれた、その、指。

 白く、滑らかで、完璧に、見える、その、肌の、中で、僕は、見つけてしまった。

 人差し指の、爪の、すぐ、横。そこに、白く、光る、一本の、古い、傷跡が、あった。それは、鋭利な、何かで、深く、切った、痕のようだった。


 これまで、自分の、ことで、精一杯だった、僕には、決して、見えなかった、もの。

 きみが、持つ、小さな、小さな「瑕」。


 その、傷跡から、目が、離せない。


 白く、光る、一本の、線。

 その、僅か、数ミリの、線の中に、僕の、知らない、物語が、封じ込められている。

 いつ、できた、傷なのだろう。

 どんな、痛みが、そこに、あったのだろう。

 知りたい、と、思ってしまった。


 だが、その、想いと、同時に、激しい、恐怖が、僕を、襲う。

 この、視線は、暴力では、ないのか?

 他者の、痛みを、知りたいと、思う、この、感情は、ただの、歪んだ、好奇心では、ないのか?


 他人の、視線に、切り刻まれてきた、僕が。

 今、同じ、ことを、きみに、しているのでは、ないか?


 触れては、いけない。

 僕には、その、資格がない。


 そう、思うのに。

 僕の、思考は、その、白い、線の上から、動けなくなっていた。

 逸らそう、という、意志が、生まれる、その、瞬間に、意識は、また、傷跡の、始まりへと、滑り落ちてしまう。

 始まりから、終わりへ。そして、また、終わりから、始まりへ。

 その、静かな、往復運動だけが、僕に、許された、唯一の、思考だった。


 始まりから、終わりへ。

 そして、また、終わりから、始まりへ。

 僕の、思考は、その、白い、線の、上を、滑り続けていた。


 その、静かな、狂気に、きみは、気づいていた。


 彼女は、僕の、視線を、咎めない。

 その、手を、隠そうとも、しない。


 むしろ、その、視線を、受け止め、ゆっくりと、テーブルの、中央へと、その手を、差し出した。

 掌を、上に、向けて。

 僕が、囚われていた、あの、小さな「瑕」を、光の、下に、完全に、開示するように。


 それは、言葉のない、問いかけだった。

 あなたには、これが見えるの?と。

 僕の、この、部分に、あなたは、何を、見るの?と。


 差し出された、彼女の、手。

 それは、僕にとって、未知へと、続く、開かれた、扉そのものだった。


 僕は、息を、飲む。


 僕の、喉を、締め付けた、あの、教室の、空気が、囁いた。

 お前に、資格など、ないと。

 他人の、視線に、傷ついてきた、お前が、他者の、痛みに、触れる、資格など、ないと。

 その、指先が、彼女を、汚すだけだ、と。


 その、声に、身体が、竦む。

 指一本、動かせない。


 だが。

 僕の、脳裏に、あの、光景が、蘇る。

 僕の、醜い、失敗を、宝玉のように、手のひらで、転がしてくれた、きみの、姿。

 僕の、震える、息を、肯定してくれた、あの、声。

 あの、虹色の、光。


 今度は、僕の、番だ。


 その、想いが、過去の、声を、振り払う。

 僕は、自らの、震える、手を、ゆっくりと、持ち上げた。

 言葉を、紡ぐことに、失敗した、この、手。

 だが、今、この、手だけが、彼女に、届くかもしれない。


 僕の、指先が、彼女の、手へと、近づいていく。

 一ミリ、また、一ミリ。

 僕の、指先と、彼女の、肌との、間にある、数ミリの、空気が、鉛のように、重くなっていく。


 僕の、震える、指先が、ついに、彼女の、瑕に、触れた。


 熱も、電気も、感じなかった。

 ただ、僕の、指先の、感触が、消えた。


 僕の、皮膚と、彼女の、肌を、隔てていた、その、薄い、境界線が、まるで、初めから、存在しなかったかのように、融解していく。どこまでが、僕で、どこからが、きみなのか。その、区別が、一瞬、わからなくなる。


 そして、流れ込んでくる。

 音のない、音楽。それは、喜びでも、悲しみでもない、ただ、存在の、根源に、触れた、時にだけ、聞こえる、静かな、響き。

 彼女の、その、小さな、瑕が、生まれた、遠い、日の、微かな、痛み。誰にも、見せることのなかった、悲しみの、残響。


 それは、僕の、罅にだけ、届く、旋律だった。


 感覚は、すぐに、遠のく。

 僕は、驚いて、指を、離した。だが、指先には、まだ、あの、境界線の、曖昧な、感触と、彼女の、痛みの、余韻が、残っている。


 僕が、顔を、上げると、きみの、瞳と、視線が、ぶつかった。

 彼女の、あの、静かな、湖のような、瞳が、僕を、見て、微かに、揺らいだ。

 それだけで、僕には、全てが、わかった。


 そして、悟る。


 僕の「罅」があったからこそ、彼女の「扉」を、見つけ、叩くことが、できたのだと。

 完璧な、人間には、決して、届かない、場所。

 僕の、欠落こそが、彼女の、孤独に、触れる、唯一の、資格だったのだ。

YouTubeで

瑕疵ある心音の聞かせ方

と検索すると原作となる楽曲を視聴できます。

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