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第二章:どもる息、虹の欠片

 言葉が、生まれる、ずっと、以前の、場所で、僕たちは、確かに、繋がっていた。

 その、共有された、沈黙の、中で、僕は、初めて、言葉を、探していた。

 ありがとう、と。

 あれは、何だったのか、と。

 言葉に、したい、想いが、胸の、内で、渦巻く。


 しかし、言葉を、発しようとすると、喉の、奥の、筋肉が、僕の、意志に、反して、石のように、硬く、収縮していく。せっかく、手に入れた、この、穏やかな、静寂を、僕の、声にならない、醜い、息遣いで、壊してしまうことが、恐ろしかった。


 きみは、何も、求めない。

 テーブルの、上に、置かれた、二つの、音叉を、ただ、静かに、眺めている。その、平然とした、横顔が、僕の、焦りを、じりじりと、炙っていく。


 不意に、きみが、椅子から、立ち上がった。

 その、何でもない、動作が、僕たちの、間に、あった、穏やかな、空気を、切り裂く。


 きみは、ドアへと、向かう。

 一歩、また、一歩。その、僅かな、足音が、僕の、心臓を、直接、踏みつけていくようだった。

 やめてくれ、と、声にならない、声が、叫ぶ。まだ、行かないでくれ、と。


 だが、彼女は、ドアノブに、手を、かけた。

 その、冷たい、金属の、感触が、僕にまで、伝わってくるかのようだ。


 言わなければならない。

「さよなら」か、あるいは、「またね」と。

 その、たった、数文字の、音が、僕にとっては、世界の、果てよりも、遠い。

 その、あまりにも、簡単な、言葉の、前で、僕は、いつも、無力だった。


 視界が、歪む。

 ドアノブを、握る、きみの、その、白い、手が、過去の、誰かの、手と、重なって、見える。

 窓から、差し込む、西日が、不意に、色を、濃くする。

 きみの、姿が、過去の、誰かの、姿と、重なり始める。


 放課後の、あの、教室の、匂いが、した。

 傾いた、西日が、窓から、差し込み、机の、傷や、埃を、黄金色に、照らし出している。もう、誰も、いない、教室。その、静寂が、僕を、追い詰めていた。


 目の前に、きみが、立っている。

 いや、きみじゃない。よく、似ているけれど、違う。あの日の、彼女だ。

 制服の、リボンの、形。教科書を、抱えた、指の、白さ。僕を、見つめる、その、瞳。忘れたくても、忘れられない、記憶の、残像。


 彼女は、もう、行かなければ、ならなかった。

 僕も、それを、知っていた。

 だから、言わなければ、ならなかった。たった、一言。さよなら、と。

 その、言葉だけが、僕たちの、時間を、正しく、終わらせることが、できる。


 僕は、息を、吸う。

 喉の、奥で、声帯が、震える、準備を、する。

 唇が、僅かに、開く。


 だが、音は、出ない。


 ひゅ、と。

 意味のない、息が、漏れるだけ。声に、なることを、拒絶された、空気が、虚しく、消える。

 喉が、見えない、手で、締め上げられる。ガラスの、破片でも、飲み込んだかのように、痛い。焦れば、焦るほど、身体は、硬直していく。


 目の前の、彼女の、瞳から、光が、消えていくのを、見た。

 期待が、諦めに、変わり。

 親愛が、憐れみに、変わり。

 そして、最後に、残ったのは、僕という、人間の、輪郭を、ゆっくりと、消し去っていく、冷たい、光だった。


 その、視線が、僕を、刺し貫く。

 世界中が、一斉に、僕を、指差して、笑っているかのようだった。

 お前は、欠陥品だ、と。


 過去の、残像から、現在へと、引き戻される。

 目の前に、いるのは、きみだ。

 だが、僕の、頭蓋には、まだ、あの、声が、木霊している。「欠陥品」、と。


 僕は、過去を、振り払うように、今度こそ、きみに、言葉を、伝えようと、必死に、もがいた。

 もう、失敗は、できない。

 この、手を、離しては、いけない。

 その、想いが、僕の、身体を、突き動かす。


 息を、吸う。

 喉の、奥で、錆びついた、弦が、無理やり、引き伸ばされる、ような、痛みが、走る。

 唇を、開く。


 ひゅ、


 また、だ。

 また、同じ。

 きみの、前で。この、醜い、音。無力な、息。

 あの日の、瞳。冷たい、軽蔑。頭の、中で、笑い声が、響く。

 違う。やめろ。見ないで。

 僕は、壊れてる。僕は、間違ってる。

 さよなら、が、言えない。

 ただ、それだけの、ことが。

 できない。できない。できない。


 僕は、その場で、深く、うなだれる。

 思考が、熱を持ち、頭蓋の、中で、膨張していく。息が、できない。ただ、胸の、奥で、不規則な、律動だけが、暴れている。

 世界の、全ての、音が、消えていた。


 ひゅ、と。

 僕ではない、誰かの、息の、音が、した。


 その、瞬間。

 僕の、内側で、暴れていた、律動が、ぴたりと、止んだ。

 自己嫌悪の、高速詠唱は、その、響きを、失う。


 僕は、顔を、上げた。

 きみは、僕の、声にならない、息の、音を、まるで、ずれた、木霊のように、自身の、唇で、そっと、真似てみせた。

 それは、からかいではない。純粋な、興味と、受容の、響きだった。


 そして、僕が、呆然と、している、その、目の前で。

 きみは、静かに、両手を、差し出していた。

 僕が、漏らした、あの、声にならない、震える、息。その、はかなく、消えゆく、空気そのものを、彼女は、両手で、そっと、掬い上げる。

 まるで、そこに、見えない、宝石でも、あるかのように。


 その、何もない、空間を、きみは、世界で、一番、美しい、宝玉みたいに、その、手のひらの、上で、そっと、転がした。


 僕は、ただ、その、信じがたい、光景を、見つめていた。

 彼女の、指先の、動き。手のひらの、僅かな、窪み。まるで、未知の、鉱石に、秘められた、構造を、指先で、読み解くような、その、仕草に、注がれる、慈しむような、眼差し。

 呼吸さえ、忘れて。

 僕の、最も、醜い、失敗は、彼女の、手のひらの、中で、静かな、光を、放っていた。


 その、衝撃が、僕の、内側で、凝り固まっていた、自己嫌悪の、硬い、氷を、完全に、砕け散らせた。


 僕の、表情の、変化を、見て、きみは、初めて、あの、言葉を、告げた。

「その震え方が、一番あなたらしいね」


 その、言葉は、僕の、魂に、直接、届いた。

 肯定、という、光。

 僕の、唇から、感謝とも、嗚咽とも、つかない、震える、息が、漏れる。


 その、瞬間。


 次にもれた、震える、息は、ただの、空気では、なかった。

 それは、窓から、差し込む、光を、僅かに、屈折させ、一瞬だけ、虹色の、小さな、欠片のように、きらめいて、静かに、消えた。


 僕の、最も、醜いと、思っていた、弱さの、象徴。

 それが、世界で、最も、美しい、一瞬の、光景へと、変わる。


 僕は、呆然と、その、はかない、光が、消えた、空間を、見つめていた。

 胸を、締め付けていた、鉄の、箍が、音もなく、外れる。その、隙間から、温かい、空気が、流れ込み、僕の、肺を、何年かぶりに、完全に、満たしていく。

 初めて、本当の、呼吸が、できた、気がした。

 僕の、心臓は、まだ、不規則に、打っていた。

 だが、その、響きは、もう、孤独ではなかった。


YouTubeで

瑕疵ある心音の聞かせ方

と検索すると原作となる楽曲を視聴できます。

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