第一章:雨音の和声
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瑕疵ある心音の聞かせ方
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ガラスの、破片が、互いに、ぶつかり合うような、乾いた、響き。
湿った、鉄の、ワイヤーを、無理やり、引き伸ばすような、不快な、摩擦音。
空の、瓶の、口に、息を、吹き込む時に、生まれる、虚ろで、方向性のない、音。
僕の、耳には、雨が、そんな、音として、届き続けていた。
それぞれの音は、固有の、音程と、律動を、持っていた。そして、その、どれ一つとして、調和しようという、意思を、持たない。ただ、己が、鳴りたいように、鳴り響き、互いを、打ち消し合い、濁らせ合う。
この、あまりに、情報量の、多い、音の、洪水。
それは、僕にとって、美しい、音楽などでは、断じて、なかった。ただ、耐え難い、カオスでしかない。
僕は、この、世界の、本当の、響きを、自分だけが、聞いてしまっている。
その、どうしようもない、事実が、僕を、たった一人、この、音の、洪水の中へと、突き落としていく。
僕は、そのカオスに耐えきれず、両手で、強く、耳を塞いだ。
だが、何の意味もなかった。
音は、外から、やってくるのではない。僕の、頭蓋の内側で、直接、鳴り響いているのだ。骨を伝い、脳を直接、揺さぶる、暴力的な、振動。それは、物理的な、防御を、嘲笑うかのように、勢いを、増していく。
僕は、救いを求めるように、部屋の中を見渡した。
壁一面の本棚。その、整然と、並んだ、背表紙の、列が、音の、振動に、呼応して、僅かに、震えているように、見える。床に、落ちた、一粒の、埃。それさえも、この、狂った、オーケストラの、一部となって、不規則に、跳ねている、幻覚に、襲われる。
どこにも、逃げ場はない。
その、絶望が、僕の、喉を、締め上げた、その時。
僕は、見つけた。
僕を、苛む、全ての、音の、振動から、ただ、一点、逃れている、静止した、場所。
それは、椅子に、腰掛けたまま、ただ、こちらを、見つめている、きみの、姿だった。
その、カオスの、中心で、僕は、溺れていた。
だが、きみは、ただ、静かに、僕を、見ている。
椅子の、背に、身体を、預けたまま、その、視線は、僕に、注がれていた。けれど、その、瞳に、同情や、憐れみの、色は、ない。まるで、まだ、誰にも、奏でられたことのない、未知の、楽器の、構造を、その、響きだけで、探り当てようとする、音楽家の、ように。
その、静けさが、僕を、音の、洪水から、引き戻した。
なぜ、きみは、平然と、していられるのか。
この、鼓膜を、引き裂くような、無数の、不協和音が、聞こえていないとでも、いうのだろうか。
それとも、聞こえていて、なお。
これが、きみにとっての、日常だとでも、いうのだろうか。
僕は、彼女の、存在そのものに、意識を、集中させる。
すると、不思議なことに、あれほど、僕を、苛んでいた、音の、暴力が、僅かに、その、勢力を、弱めた。
きみは、ふと、僕から、視線を、外し、窓の、方へ、顔を、向けた。
そして、まるで、無数の、音の、粒子の中から、たった一つの、正しい、欠片を、探し出すように、ゆっくりと、その、目を、細めた。
きみが、窓の外に、意識を、集中させた、その、瞬間。
まるで、部屋の、時間そのものが、密度を増し、ゆっくりと、引き伸ばされるような、感覚に、僕は、襲われた。
世界の、狂った、オーケストラは、未だ、鳴り止まない。だが、その、カオスは、遠い、背景へと、後退していく。
僕は、息を、飲む。
彼女は、この、世界の、本当の、響きを、知っているのか?
それとも、彼女自身が、この、世界の、新しい、響き、そのものなのか?
無数の、問いが、僕の、内で、渦巻く。だが、それを、口にすることは、できなかった。この、張り詰めた、静寂を、僕自身の、声で、壊すことが、恐ろしかった。
彼女の、僅かな、身じろぎ、微かな、呼吸の、変化さえもが、僕の、全神経を、捉えて、離さない。
僕の世界は、今や、窓の外の、雨音と、目の前の、きみの、存在、その、二つだけで、構成されていた。
やがて、きみは、何かを、見つけたように、微かに、頷いた。
そして、人差し指を、一本、すっと、立てる。それは、オーケストラの中から、たった一つの、楽器を、指し示す、指揮者の、ような、仕草だった。
きみは、その、指先で、空中に、ある、律動を、なぞり始める。
それは、決して、美しい、律動ではない。ガラスの中心を叩く、高く、澄んだ、音ではなかった。サッシの隙間を抜ける、か細い、息遣いでもない。
彼女が、選び取ったのは、窓枠の、金属に、当たり、不規則に、途切れる、あの、低く、鈍い、軋んだ、音。世界の、調和から、最も、遠い、場所で、鳴っている、あの、音だった。
その、彼女の、指先が、描く、律動を、見た、瞬間。
僕の、中で、二つの、音が、出会った。
ずっと、僕の、胸で、鳴っていた、不規則な、律動。そして、彼女が、雨の、中から、選び取った、あの、不揃いな、律動。
二つの、不協和音が、ぶつかり合い、そして、ぴたりと、一つの、和声へと、重なった。
その、瞬間、僕の、思考は、一度、完全に、停止した。
衝撃が、過ぎ去った後、部屋には、静寂が、戻る。
だが、その、静寂は、以前の、孤独な、それとは、全く、違う、質を、持っていた。
初めて、自分の、魂の、響きを、理解された、という、驚きと、安堵。
その、二つの、感情が、混ざり合い、部屋の、空気を、満たしていた。
僕と、きみの、間に、言葉は、ない。
だが、言葉が、生まれる、ずっと、以前の、場所で、僕たちは、確かに、繋がっていた。