序章:二つの音叉
楽曲としての3部作3週連続リリースに合わせて書き下ろした「瑕疵ある心音の聞かせ方」の小説版です。
この楽曲と小説には私たちアーティストの哲学、思想、音の全てが詰まっています。
僕の世界は、いつも僅かに調律が狂っている。
壁に掛かった時計の秒針は、一定の周期を保てない。一秒ごとに区切られるはずのその歩みは、僕の耳には、毎秒その間隔を揺らがせる、不整脈な心臓の鼓動のように届く。遠くから聞こえる救急車のサイレンは、近づき、遠ざかる物理法則のそれとは違う、不快な音程のズレ方をする。世界は、その隅々までが、不協和音で満ちていた。
この感覚を、誰かに話したことはない。理解されるはずがないと、とうの昔に諦めている。だから僕は、この部屋の扉を閉める。外の世界から流れ込んでくる音の暴力から、身を守るために。そうして作り上げた、不完全な無音。その、静かな、疲労が、水圧のように、僕の、身体を、内側から、締め付ける。
僕が、世界の、不協和音に、耳を、澄ませていると、その、中に、一つだけ、これまで、聞いたことのない、新しい、ズレが、混じっていることに、気づいた。
それが、きみだった。
彼女は、僕の、部屋の、歪んだ、空気の、なかで、平然と、呼吸をしていた。
そして、言葉少なに、くすんだオリーブ色の布袋を、テーブルの上に置く。その、中から、二つの物体を取り出した。
音叉だった。
きみは、その二つの音叉を、テーブルの上に、そっと置いた。
二つの、硬質な、音が、僅かに、ずれて、響き、そして、部屋の、無音に、吸い込まれて、消えた。
僕の、視線は、まず、完璧な、姿をした、一方の、音叉へと、注がれる。
その、冷たい、ほどの、完全性。それは、僕が、この、部屋に、求める、理想の、無音を、体現しているかのようだった。だが、そこに、安らぎは、ない。むしろ、息が、詰まる。
そして、僕の、視線は、逃れるように、もう一方の、音叉へと、滑り落ちた。
片方の、先端が、まるで、硬い石で無理やり削り取ったかのように、鋭い角度で、欠けている、その、音叉へ。
僕と、同じだ。
それは、僕の、魂の、写し鏡だった。
その、いびつな、非対称な、形を、前にして、僕の、内なる、不協和音が、初めて、僅かに、その、響きを、変えた。安堵に、似た、何かに。
その、瞬間だった。
欠けた音叉が、僕の、魂と、共鳴した、その、瞬間。
窓の外で、雨が降り始めていた。
以前の僕なら、ただの、意味のない音の塊として、認識していたはずの、雨音。それが、僕の耳の中で、無数の、独立した音の粒子へと、分離していく。
ある雨粒は、ガラスの中心を叩き、高く、澄んだ音を立てる。
ある雨粒は、窓枠の金属に当たり、低く、鈍い響きを残す。
その無数の音の律動が、それぞれ違う歩みで、世界の大きな調和から、ひとつ、またひとつと、こぼれ落ちていく様を、僕は、明確に、知覚していた。
世界の、構造が、剥き出しに、なるような、感覚。
それは、明らかに、きみが持ち込んだ、あの、一つの、欠けた音叉によって、引き起こされたのだと、僕は、直感していた。
続きは2025/08/08 楽曲リリース当日から毎日投稿していきます。