第4話「“わからないふり”という戦術」
昼休みの図書室。書架の並ぶ静かな空間には、時おりページをめくる音と時計の針の音だけが響いていた。午後の光が窓際から斜めに差し込み、埃がゆるやかに舞っている。
その奥まった一角で、綾瀬が一人で本を読んでいた。文学コーナーの書架に背中を預けて、膝を立てて座っている。いつもより人が少ない時間帯を狙って来たのだろう。
俺はしばらく遠くから観察してから、綾瀬の前に歩いていった。
「この前の、“誠実な人”ってやつ。あれ、本気で言ってた?」
綾瀬は本から顔を上げて俺を見た。
「ん? うん。なんで?」
「いや、ああいう話ってさ、場の空気できれいな答え言っちゃうこともあるじゃん」
俺は綾瀬の隣の床に座り込んだ。図書室の静寂の中で、二人の声だけが小さく響く。
「そういうつもりじゃなかったよ」綾瀬が本を膝の上に置いた。
「じゃあ、俺が誠実じゃないって思った?」
綾瀬はふ、と笑った。いつもの無邪気な笑顔とは少し違う、どこか含みのある表情だった。
「沢村って、そんなこと気にするタイプなんだ」
「気にするよ。俺、あんたの”天然のふり”より素直だから」
その瞬間、綾瀬の表情が微妙に変わった。まだ笑顔は残っているが、目の奥に何かが宿った。
「ふり、って?」
俺は目を細めて綾瀬を見詰めた。
「いつも絶妙なタイミングで現れて”わからないフリ”するの、あれさすがに気づくよ」
綾瀬はしばらく俺を見詰めていた。やがて、小さくため息をついた。
「いや、なんかいつもタイミング悪く居合わせちゃうんだよね…でも、そっか。ごめんね」
「いいよ。むしろそういうとこ好き」
綾瀬の動きが止まった。本を持った手も、視線も、すべてが静止する。
「でもさ。俺、ずっと思ってたんだけど」俺は続けた。「わかってる人が”わからないふり”してるときって、『これ以上踏み込まないで』ってサインを出してるのと同じなんだよな」
綾瀬は何も答えなかった。
「そろそろ、そっちからちゃんと聞き返してほしいなって思ってる」
綾瀬は本を閉じた。しばらく表紙を見詰めてから、ゆっくりと口を開いた。
「たぶん、私がそれを聞き返したら、逃げられなくなるよ」
「うん。だから今、それを仕掛けてる」
綾瀬は俺を見た。その表情は、いつもの綾瀬とは明らかに違っていた。計算しているような、でも同時に困っているような。
「そういうこと言うんだ」
「言うよ。俺、誠実だから」
綾瀬は立ち上がった。本を鞄にしまいながら、俺も立ち上がる。二人で図書室を出て、昇降口へ向かう。
早足で駆けていく生徒たちを横目に、俺は訊いた。
「さっきの話、あれで終わり?」
昇降口で綾瀬は上履きを脱ぎ、外履きに履き替え始めた。靴紐をゆっくりと結びながら答える。
「ううん。聞き返すか、ずっと考えてたよ」
「で?」
「でも、それ、私が聞き返すタイミングを選んでいいなら、今じゃない気がした」
俺は綾瀬を見下ろした。しゃがんだ姿勢で靴紐を結ぶ綾瀬の頭上から、その表情を覗き込む。
「それって、答えるつもりはあるってこと?」
綾瀬は顔を上げた。下から見上げる形になったが、その視線は逃げなかった。
「それは、沢村がどれくらい”誠実”でいてくれるかによる、かな」
俺は眉をひそめた。
「それ、ずるくない?」
綾瀬は立ち上がって、いつものように微笑んだ。優しいのに、なぜか少し意地悪に見える。
「うん。でも、沢村も仕掛けたでしょ?」
俺は答えられなかった。確かに仕掛けたのは俺の方だ。でも綾瀬も、それを受けて立った。今度は綾瀬の番だった。
「じゃあ、また今度」
綾瀬はそう言って歩き去った。俺はその後ろ姿を見送りながら、妙な敗北感と期待感を同時に抱いていた。