第3話「誠実という名の誘惑」
三限目の移動教室。化学室へ向かう廊下を歩きながら、またくだらない話が始まった。
「で、お前らの好みのタイプって何なんだ?」田中が振り返りながら言った。
「俺は清楚系」佐藤が即答する。「でも中身はちょっと天然入ってる子がいい」
「ありきたりだな」俺は教科書を小脇に抱えて歩きながら答えた。「俺は知的な子」
「知的って具体的には?」
「本をよく読んでて、でも時々妙なことで悩んでたりする子」俺はふと綾瀬の顔を思い浮かべた。「表面上は完璧に見えるけど、よく観察すると意外な一面があったりとか」
「お前の好みって結局観察対象なんだな」田中が苦笑した。
そんな会話をしていると、廊下の向こうからトイレのドアが開いた。綾瀬が出てきて、ハンカチをポケットに仕舞いながら歩いてくる。いつものように軽やかな足取りで、こちらに気づくと小さく手を振った。
すれ違いざまに、俺はふと口を開いた。
「綾瀬、ちょっと訊いていい?」
綾瀬は足を止めて振り返った。
「うん?」
俺は一瞬迷ったが、好奇心が勝った。
「もし、誰かと付き合うなら、どういう人がいいと思う?」
綾瀬は少し考えるような仕草を見せてから、いつものように穏やかな表情で答えた。
「誠実な人かな」
「誠実?」
「うん。嘘をつかないで、ちゃんと自分の気持ちを伝えてくれる人」綾瀬は手を胸の前で組んだ。「見栄を張ったりしないで、素直でいてくれる人がいいな。あと、約束を守ってくれる人」
田中と佐藤が俺を見た。俺の昨日の発言を思い出しているのだろう。
「それって、つまりどういうこと?」佐藤が訊いた。
「えーっと」綾瀬は少し上を向いて考えた。「例えば、好きになったらちゃんと好きって言ってくれるとか。変に格好つけたりしないで、ありのままでいてくれるとか」
俺はその言葉を聞きながら、妙な感覚に襲われた。昨日の俺の発言は素直すぎたが、ある意味では誠実だったのかもしれない。
「あと、一緒にいて安心できる人」綾瀬が続けた。「信頼できるっていうか」
「なるほど、“誠実”って一番エロいな」
俺の口から思わず出た言葉に、田中と佐藤が振り返った。
「黙れ」佐藤が俺の肩を叩いた。
綾瀬は不思議そうな表情で俺を見詰めた。きょとんとした様子で首を傾げている。
その反応を見て、俺は内心で苦笑した。また変なことを口に出してしまった。でも本当にそう思ったのだ。誠実さという言葉に、妙に心が動かされた。
「まあ、そういうことで」俺は曖昧に手を振った。
綾瀬はしばらく俺を見詰めていたが、やがていつものように微笑んだ。
「じゃあね」
そう言って、軽やかに歩き去っていく。俺たちはその後ろ姿を見送ってから、化学室へ向かって歩き始めた。
歩きながら、俺は綾瀬の言葉を反芻していた。誠実な人。嘘をつかないで、ちゃんと自分の気持ちを伝える人。見栄を張らないで、素直でいる人。
俺の普段の言動は、確かに素直すぎるかもしれない。でもそれは嘘をついていないということでもある。変に格好をつけようとしないから、思ったことをそのまま口にしてしまう。
もしかしたら、それは悪いことではないのかもしれない。
「おい、また考え込んでるぞ」田中が俺の肩を叩いた。
「別に」俺は化学室のドアを開けた。「ちょっと誠実さについて考えてただけ」
「お前が誠実さって」佐藤が笑った。
でも俺は本気だった。綾瀬の言葉が、なぜか心に引っかかっている。誠実さとは何か。俺にとって、それはどういう意味を持つのか。
答えはまだ分からない。でも考え続けてみようと思った。