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白い獅子の骸  作者: sume
第二章
9/33

懐旧

 まだ夜が明けきらぬ城内。


 南棟にある自室には、静寂が支配していた。




 寝台の上、セリムは目を開けたまま天井を見つめていた。


 先ほどまで見ていた夢の余韻が、まだ心に薄く残っている。




 夢の中で、兄は確かにそこにいた。


 穏やかな笑みを浮かべ、何かを伝えようとしていた。


 けれど、声だけがどうしても届かなかった。




 胸の奥に、まだ小さな痛みが燻っている。




 セリムはゆっくりと寝台を降り、


 机の上に置かれた水差しから一杯の水を注いで喉を潤した。




 窓の外では、まだ薄明かりが東の空を染め始めたばかりだ。


 この静けさのなかで、彼は再び、自らの立場を心に刻み直す。




 ──表の顔は、オーブ姫の教育係。


 ──裏の顔は、兄の死の真実を探る者。




 どちらも、同じだけの重みを持つ。


 どちらも、決して粗末にしてはならない。




 「……急ぐな。焦るな」


 セリムは自らに言い聞かせるように、低く呟いた。




 十年という歳月を経た今、真実は深く沈み、隠されている。


 それを掘り起こすには、粗雑な動きなど決して許されない。




 たとえ何も得られぬ日が続こうと。


 小さな違和感ひとつさえも見逃さず、少しずつ、確かに、歩を進める。




 「兄上……」




 かすかな声で呼びかける。


 だがもちろん、誰からの応えもない。




 それでもセリムは、胸の中で誓う。




 必ず辿り着く。


 兄が遺したものに。


 あの夜、言葉にならなかった想いに。




 彼は杯を置き、もう一度だけ深く息を吸い込んだ。




 そして、夜の帳を背に、ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。




 まだ誰も目覚めぬ城を見下ろしながら、


 目に見えぬ炎をその胸に灯して。




 ──兄上。


 ──待っていてください。


 ──私は必ず、真実をこの手に掴んでみせます。




 空はまだ白む前。


 セリムは、静かに夜明けを待った。




――――――




 フェイミリアム城の西門から、重厚な馬蹄の音が響いた。

 昼下がりの陽を浴びながら、遠征任務を終えた一団が帰還してきたのである。


 その先頭に立つ騎士――槍を背負った壮健な男が、馬上から周囲を見回し、鋭い目つきで何かを探していた。

 やがて視線の先に、南棟へ向かう青年の姿を見つけると、男は満面の笑みを浮かべて手綱を引いた。




 「おーい、セリム〜!!!」




 声は朗らかに、城門の石畳に響いた。


 手に書類を抱えながら歩いていたセリムは、呼ばれて足を止めた。

 隣には、気怠そうに欠伸をしていた竜族の青年――アルフェリスもいた。




 「……嫌な予感がする」




 セリムが低く呟く。

 その直後、馬から飛び降りた男――テオドール・ヴァルツァーが、砂埃を巻き上げながら二人に突撃してきた。




 「セリムッ!! 元気にしてたかァァァ!!」




 バシン!とセリムの肩を豪快に叩き、さらに豪腕で無理やり引き寄せる。

 ほぼ抱きついている。旅装に着いた土汚れが容赦なくセリムの服に襲いかかった。




 「ちょ…やめてくれ、テオドール……」




 冷静に抗議するセリムだったが、彼の力ではびくともしない。


 その光景に、アルフェリスが吹き出した。




 「ははっ、いいねいいね、セリムくんが押し負けてるとこ久しぶりに見たわ!」


 「アルフェリス、見てないで止めてくれ」


 「やだよ。面白いもん」


 けらけら笑いながら、アルフェリスはテオドールの背中に跳びついた。


 「おーっす、テオ! 久しぶり! 生きてたか!」


 「おう、アル! お前も相変わらず元気だなぁ!」


 二人は子どもみたいにじゃれ合い、セリムを置き去りにして盛り上がる。


 周囲の騎士たちは、呆れながらも微笑ましいものを見るように二人を眺めていた。


 セリムは溜息をつき、そっと距離を取る。


 「……騒がしい」


 それでも、心のどこかが緩んでいる自覚があった。 懐かしい、あたたかい時間。

 長い間、遠ざかっていたものだった。


 ようやく落ち着いたテオドールが、腕を組んでセリムに向き直った。




 「それにしても、セリム。俺が送った手紙、二年間で十通。返事二通。それも三行だぞ? どういうことだよ。俺の美しい字でこまめに送ってやってたのに。」




このテオドールという男、性格は豪放磊落という言葉がぴったりな快男児であるが、見た目や性格からは想像できないほど字が美しい。内容はさておき、まるでお手本のような流麗な字を書くのだ。




 「……確かに字はきれいだった、それは認める。だが内容は暑苦しかったな……。それに必要なことは伝えていただろう」




 即答するセリムに、テオドールが顔をしかめる。




 「冷てぇなぁ、お前は……昔はもうちょっと可愛かったのになぁ」


 そう言いながら、テオドールはわざとらしく頭をかく。

 そして、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 「覚えてるか? 昔はよ、俺のこと“テオにいさま”って呼んで、ぺたぺたくっついてきたくせに」


 セリムはほんのわずかに表情を引き締めた。

 だが否定することもせず、無言で歩き出す。


 「おいおい、無視かよ! 照れてるな?」


 アルフェリスが追いかけながら、声をあげて笑う。


 「いやあ、昔のセリムは本当に天使だったよな! 今じゃすっかり無愛想だけど…」


 「……うるさい」


 セリムが小さく返す。

 けれどその横顔は、ほんのひとかけらだけ、柔らかさを取り戻していた。


 テオドールも、アルフェリスも、彼の変化に気づいていたが、あえて何も言わない。

 ただ、昔と変わらぬ陽気さで、彼の隣を歩いていた。




 春の陽射しが、南棟へ続く石畳をやさしく包んでいた。






 そんな中、ふとテオドールはセリムの背中を見つめた。




 笑って、じゃれ合って――それでも。


 あいつは、あの頃のままじゃない。


 わずかに遠くなった背中。




 無理に引き寄せることはできないと、テオドールは知っていた。




 アルフェリスが隣ではしゃいでいる中で、彼だけがふっと、笑みを潜めた。




 (――きっと、クラウスのことだな)




 何も聞かない。何も言わない。




 けれど、ここに戻ってきた理由など、他に考えようがなかった。


 兄を失い、空白を抱え、それでも生きてきた少年。




 十年経っても消えなかった痛みを、今なお、彼は抱えているのだ。




 だからこそ、今度こそ――




 どんなに無愛想でも、ぶっきらぼうでも、構わない。


 そばに立ち、支える。ただ、それだけでいい。


 テオドールは小さく、けれど確かに胸の中で誓った。




 (俺は、お前の味方だ、セリム)




 その想いを誰にも見せることなく、


 彼はいつものように、からかい口調で声をかけた。




 「さーて、歓迎の宴でも開くか? 厨房に押しかけて、ご馳走作らせてやるぜ!」




 「……やめろ。騒ぎになる」


 「だーいじょうぶだって! な? アル!」


 「もちろん! 俺も手伝うぞ! 食う方をな!」




 二人の騒がしさに、セリムはまた、静かに小さなため息をついた。




 けれど――


 その胸の奥に、ほんのひとかけら、確かな温もりが芽生えていた。




――――――






 宴の賑やかな音が耳に響く。




 騎士たちが集まって杯を交わし、何度も乾杯の声が上がる。だが、セリムはその喧騒を一歩離れた場所で静かに見守っていた。


 ヴァレリーとオーブ、そして少し顔を出したマクシムは、自分たちがいると気を遣わせてしまうから、と言い、軽い挨拶だけ済ませると早々に立ち去った。




 今この場に集まったのは、どちらかというと、テオドールの指示で来た者たちや、無理やり駆り出された者ばかりだ。




 セリムはその騎士たちの騒がしいやりとりをぼんやりと聞き流し、ふと、昔のことを思い出していた。


 あの頃、クラウスとテオドール、そしてアルフェリスが常に周りにいてくれた。彼らはセリムを気にかけ、とても可愛がってくれた。








 ある春の午後、セリムはひとりで中庭を歩いていた。周囲の花々は色鮮やかに咲き誇り、風に揺れる枝の音が心地よい。


 そんな中、突然、テオドールが後ろから声をかけてきた。


「おい、セリム、何してるんだ?一緒に遊ぼうか?」




 セリムはびっくりして振り向くと、テオドールがにっこりと笑って立っていた。彼の笑顔は、どこか安心感を与える。セリムはすぐに手を振りながら答えた。




 「うん、テオにいさま。何して遊ぶ?」




 テオドールは少し悩む素振りを見せた後、すぐに思いついたように言った。


 「じゃあ、ちょっとした冒険をしようか。あの大きな木まで、誰が早く走れるか競争だ!」


 セリムは少し驚きつつも、目を輝かせて答えた。




 「競争?でも、テオにいさまはぼくより大きいし速いから…ぼく負けちゃうよ。」




 「いいや、セリム。負けてもいいんだ。ただ楽しむだけさ。」




 テオドールは、はははと歯を見せて笑った。


 セリムはテオドールに誘われるまま、その競争に参加することにした。


 スタートの合図とともに二人は駆け出す。セリムは必死に足を動かしながら、テオドールの後ろ姿を追いかけた。しかし、さすがにテオドールは速かった。結局、木にたどり着いたのはテオドールが先だった。




 「ほら、やっぱり…勝てないや」




テオドールはセリムを振り返り、優しく笑った。




 「いいや、よく頑張ったよ。でも、楽しかっただろ?」




 セリムは息を切らしながらも満足そうに笑った。




 「うん、楽しかった!」




 その時、クラウスの明るい声が聞こえてきた。




 「おい、テオドール!またセリムを無理やり走らせてるのか?」




 クラウスが木の陰から顔を出し、にやりと笑った。




 「うるさいな、クラウス。今のうちから鍛えておいて損はないだろ?これも立派な訓練だ。」


 テオドールは肩をすくめると、クラウスに笑いかけた。


 セリムはそのやりとりを聞きながら、楽しそうに駆け寄った。




「クラウスにいさまも一緒に遊ぼう!」




 クラウスはセリムの声を聞くと、にっこりと笑って膝を曲げ、セリムを抱き上げる。




「じゃあ次は競争じゃなくて、稽古だな。セリム、君の剣術の腕前も見せてくれないか」




 セリムは笑いながら「そんなにできないよ!」と答えたが、テオドールは真剣な顔で「セリム、クラウスにお前必殺技をかましてやれ!」と言った。


 その後、三人は庭の隅で遊びながら、セリムの得意な「木の枝での剣の使い方」を練習した。


 クラウスはセリムに手本を見せ、テオドールは時折冗談を交えて指導してくれた。セリムが間違えるたび、二人は大声で笑いながら励ましてくれた。


 


 その笑顔と優しさが、セリムの心に深く残っている。




 彼らは決して、セリムに対して無理なことを押し付けることはなく、いつもセリムが楽しめるように工夫して遊んでくれた。




 アルフェリスもその時間に合流し、三人が笑い合う中、彼はセリムに「次は俺も混ぜて!」と微笑んだ。その優しさに、セリムはただ嬉しそうにうなずくことしかできなかった。




 「お前ら、あまりセリムくんを甘やかしすぎなんじゃない?」




 アルフェリスは茶化すように言ったが、その顔には優しい笑みが浮かんでいた。




 「心配するな、アルフェリス。セリムは私たちの宝物だからな。」




 テオドールはにっこりと笑いながら、セリムを肩に乗せて、駆け出した。


 優しい春の風がセリムの頬を通り過ぎていった。

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