懐旧
まだ夜が明けきらぬ城内。
南棟にある自室には、静寂が支配していた。
寝台の上、セリムは目を開けたまま天井を見つめていた。
先ほどまで見ていた夢の余韻が、まだ心に薄く残っている。
夢の中で、兄は確かにそこにいた。
穏やかな笑みを浮かべ、何かを伝えようとしていた。
けれど、声だけがどうしても届かなかった。
胸の奥に、まだ小さな痛みが燻っている。
セリムはゆっくりと寝台を降り、
机の上に置かれた水差しから一杯の水を注いで喉を潤した。
窓の外では、まだ薄明かりが東の空を染め始めたばかりだ。
この静けさのなかで、彼は再び、自らの立場を心に刻み直す。
──表の顔は、オーブ姫の教育係。
──裏の顔は、兄の死の真実を探る者。
どちらも、同じだけの重みを持つ。
どちらも、決して粗末にしてはならない。
「……急ぐな。焦るな」
セリムは自らに言い聞かせるように、低く呟いた。
十年という歳月を経た今、真実は深く沈み、隠されている。
それを掘り起こすには、粗雑な動きなど決して許されない。
たとえ何も得られぬ日が続こうと。
小さな違和感ひとつさえも見逃さず、少しずつ、確かに、歩を進める。
「兄上……」
かすかな声で呼びかける。
だがもちろん、誰からの応えもない。
それでもセリムは、胸の中で誓う。
必ず辿り着く。
兄が遺したものに。
あの夜、言葉にならなかった想いに。
彼は杯を置き、もう一度だけ深く息を吸い込んだ。
そして、夜の帳を背に、ゆっくりと窓辺へ歩み寄る。
まだ誰も目覚めぬ城を見下ろしながら、
目に見えぬ炎をその胸に灯して。
──兄上。
──待っていてください。
──私は必ず、真実をこの手に掴んでみせます。
空はまだ白む前。
セリムは、静かに夜明けを待った。
――――――
フェイミリアム城の西門から、重厚な馬蹄の音が響いた。
昼下がりの陽を浴びながら、遠征任務を終えた一団が帰還してきたのである。
その先頭に立つ騎士――槍を背負った壮健な男が、馬上から周囲を見回し、鋭い目つきで何かを探していた。
やがて視線の先に、南棟へ向かう青年の姿を見つけると、男は満面の笑みを浮かべて手綱を引いた。
「おーい、セリム〜!!!」
声は朗らかに、城門の石畳に響いた。
手に書類を抱えながら歩いていたセリムは、呼ばれて足を止めた。
隣には、気怠そうに欠伸をしていた竜族の青年――アルフェリスもいた。
「……嫌な予感がする」
セリムが低く呟く。
その直後、馬から飛び降りた男――テオドール・ヴァルツァーが、砂埃を巻き上げながら二人に突撃してきた。
「セリムッ!! 元気にしてたかァァァ!!」
バシン!とセリムの肩を豪快に叩き、さらに豪腕で無理やり引き寄せる。
ほぼ抱きついている。旅装に着いた土汚れが容赦なくセリムの服に襲いかかった。
「ちょ…やめてくれ、テオドール……」
冷静に抗議するセリムだったが、彼の力ではびくともしない。
その光景に、アルフェリスが吹き出した。
「ははっ、いいねいいね、セリムくんが押し負けてるとこ久しぶりに見たわ!」
「アルフェリス、見てないで止めてくれ」
「やだよ。面白いもん」
けらけら笑いながら、アルフェリスはテオドールの背中に跳びついた。
「おーっす、テオ! 久しぶり! 生きてたか!」
「おう、アル! お前も相変わらず元気だなぁ!」
二人は子どもみたいにじゃれ合い、セリムを置き去りにして盛り上がる。
周囲の騎士たちは、呆れながらも微笑ましいものを見るように二人を眺めていた。
セリムは溜息をつき、そっと距離を取る。
「……騒がしい」
それでも、心のどこかが緩んでいる自覚があった。 懐かしい、あたたかい時間。
長い間、遠ざかっていたものだった。
ようやく落ち着いたテオドールが、腕を組んでセリムに向き直った。
「それにしても、セリム。俺が送った手紙、二年間で十通。返事二通。それも三行だぞ? どういうことだよ。俺の美しい字でこまめに送ってやってたのに。」
このテオドールという男、性格は豪放磊落という言葉がぴったりな快男児であるが、見た目や性格からは想像できないほど字が美しい。内容はさておき、まるでお手本のような流麗な字を書くのだ。
「……確かに字はきれいだった、それは認める。だが内容は暑苦しかったな……。それに必要なことは伝えていただろう」
即答するセリムに、テオドールが顔をしかめる。
「冷てぇなぁ、お前は……昔はもうちょっと可愛かったのになぁ」
そう言いながら、テオドールはわざとらしく頭をかく。
そして、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「覚えてるか? 昔はよ、俺のこと“テオにいさま”って呼んで、ぺたぺたくっついてきたくせに」
セリムはほんのわずかに表情を引き締めた。
だが否定することもせず、無言で歩き出す。
「おいおい、無視かよ! 照れてるな?」
アルフェリスが追いかけながら、声をあげて笑う。
「いやあ、昔のセリムは本当に天使だったよな! 今じゃすっかり無愛想だけど…」
「……うるさい」
セリムが小さく返す。
けれどその横顔は、ほんのひとかけらだけ、柔らかさを取り戻していた。
テオドールも、アルフェリスも、彼の変化に気づいていたが、あえて何も言わない。
ただ、昔と変わらぬ陽気さで、彼の隣を歩いていた。
春の陽射しが、南棟へ続く石畳をやさしく包んでいた。
そんな中、ふとテオドールはセリムの背中を見つめた。
笑って、じゃれ合って――それでも。
あいつは、あの頃のままじゃない。
わずかに遠くなった背中。
無理に引き寄せることはできないと、テオドールは知っていた。
アルフェリスが隣ではしゃいでいる中で、彼だけがふっと、笑みを潜めた。
(――きっと、クラウスのことだな)
何も聞かない。何も言わない。
けれど、ここに戻ってきた理由など、他に考えようがなかった。
兄を失い、空白を抱え、それでも生きてきた少年。
十年経っても消えなかった痛みを、今なお、彼は抱えているのだ。
だからこそ、今度こそ――
どんなに無愛想でも、ぶっきらぼうでも、構わない。
そばに立ち、支える。ただ、それだけでいい。
テオドールは小さく、けれど確かに胸の中で誓った。
(俺は、お前の味方だ、セリム)
その想いを誰にも見せることなく、
彼はいつものように、からかい口調で声をかけた。
「さーて、歓迎の宴でも開くか? 厨房に押しかけて、ご馳走作らせてやるぜ!」
「……やめろ。騒ぎになる」
「だーいじょうぶだって! な? アル!」
「もちろん! 俺も手伝うぞ! 食う方をな!」
二人の騒がしさに、セリムはまた、静かに小さなため息をついた。
けれど――
その胸の奥に、ほんのひとかけら、確かな温もりが芽生えていた。
――――――
宴の賑やかな音が耳に響く。
騎士たちが集まって杯を交わし、何度も乾杯の声が上がる。だが、セリムはその喧騒を一歩離れた場所で静かに見守っていた。
ヴァレリーとオーブ、そして少し顔を出したマクシムは、自分たちがいると気を遣わせてしまうから、と言い、軽い挨拶だけ済ませると早々に立ち去った。
今この場に集まったのは、どちらかというと、テオドールの指示で来た者たちや、無理やり駆り出された者ばかりだ。
セリムはその騎士たちの騒がしいやりとりをぼんやりと聞き流し、ふと、昔のことを思い出していた。
あの頃、クラウスとテオドール、そしてアルフェリスが常に周りにいてくれた。彼らはセリムを気にかけ、とても可愛がってくれた。
ある春の午後、セリムはひとりで中庭を歩いていた。周囲の花々は色鮮やかに咲き誇り、風に揺れる枝の音が心地よい。
そんな中、突然、テオドールが後ろから声をかけてきた。
「おい、セリム、何してるんだ?一緒に遊ぼうか?」
セリムはびっくりして振り向くと、テオドールがにっこりと笑って立っていた。彼の笑顔は、どこか安心感を与える。セリムはすぐに手を振りながら答えた。
「うん、テオにいさま。何して遊ぶ?」
テオドールは少し悩む素振りを見せた後、すぐに思いついたように言った。
「じゃあ、ちょっとした冒険をしようか。あの大きな木まで、誰が早く走れるか競争だ!」
セリムは少し驚きつつも、目を輝かせて答えた。
「競争?でも、テオにいさまはぼくより大きいし速いから…ぼく負けちゃうよ。」
「いいや、セリム。負けてもいいんだ。ただ楽しむだけさ。」
テオドールは、はははと歯を見せて笑った。
セリムはテオドールに誘われるまま、その競争に参加することにした。
スタートの合図とともに二人は駆け出す。セリムは必死に足を動かしながら、テオドールの後ろ姿を追いかけた。しかし、さすがにテオドールは速かった。結局、木にたどり着いたのはテオドールが先だった。
「ほら、やっぱり…勝てないや」
テオドールはセリムを振り返り、優しく笑った。
「いいや、よく頑張ったよ。でも、楽しかっただろ?」
セリムは息を切らしながらも満足そうに笑った。
「うん、楽しかった!」
その時、クラウスの明るい声が聞こえてきた。
「おい、テオドール!またセリムを無理やり走らせてるのか?」
クラウスが木の陰から顔を出し、にやりと笑った。
「うるさいな、クラウス。今のうちから鍛えておいて損はないだろ?これも立派な訓練だ。」
テオドールは肩をすくめると、クラウスに笑いかけた。
セリムはそのやりとりを聞きながら、楽しそうに駆け寄った。
「クラウスにいさまも一緒に遊ぼう!」
クラウスはセリムの声を聞くと、にっこりと笑って膝を曲げ、セリムを抱き上げる。
「じゃあ次は競争じゃなくて、稽古だな。セリム、君の剣術の腕前も見せてくれないか」
セリムは笑いながら「そんなにできないよ!」と答えたが、テオドールは真剣な顔で「セリム、クラウスにお前必殺技をかましてやれ!」と言った。
その後、三人は庭の隅で遊びながら、セリムの得意な「木の枝での剣の使い方」を練習した。
クラウスはセリムに手本を見せ、テオドールは時折冗談を交えて指導してくれた。セリムが間違えるたび、二人は大声で笑いながら励ましてくれた。
その笑顔と優しさが、セリムの心に深く残っている。
彼らは決して、セリムに対して無理なことを押し付けることはなく、いつもセリムが楽しめるように工夫して遊んでくれた。
アルフェリスもその時間に合流し、三人が笑い合う中、彼はセリムに「次は俺も混ぜて!」と微笑んだ。その優しさに、セリムはただ嬉しそうにうなずくことしかできなかった。
「お前ら、あまりセリムくんを甘やかしすぎなんじゃない?」
アルフェリスは茶化すように言ったが、その顔には優しい笑みが浮かんでいた。
「心配するな、アルフェリス。セリムは私たちの宝物だからな。」
テオドールはにっこりと笑いながら、セリムを肩に乗せて、駆け出した。
優しい春の風がセリムの頬を通り過ぎていった。