悪夢
夜の静けさに包まれた南棟の自室。月明かりが窓から差し込み、寝台の上でセリムは静かに寝息を立てていた。
けれどその胸中では、遠い記憶が、夢となってゆっくりと再生されていた。
春の庭。穏やかな日差し。薄紅色の花びらが舞う中、あの人が立っている。
兄、クラウス・アシュノッド。
甲冑は着ておらず、柔らかな白い上着に身を包み、珍しく穏やかな笑みを浮かべていた。
少年の姿のセリムは、彼の名を呼びながら駆け寄る。
兄は微笑みながらしゃがみこみ、何かを語りかけてくる。
だが、声が――聞こえない。
唇が確かに動いているのに、どんな音も響かない。口の動きだけがはっきりと見える。
なぜ、なぜ何も聞こえない?
セリムは不安に駆られ、兄の胸元に手を伸ばす。だがその体は風に溶けるようにふっと揺れ、遠ざかっていく。
焦りと悲しみに満たされ、彼は必死に手を伸ばすが、指先は空を掴むばかり。
兄の表情は変わらない。何かを伝えようとし続けている。
その眼差しは優しく、けれどどこか哀しげで――。
どうして、聞こえないのだ。
どうして、言葉を交わせない。
セリムの胸に、かつてない焦燥が渦巻いた。
――そのとき。
風のような何かが夢の中を通り抜け、花びらが乱れ舞う。
兄の姿が、ふいに崩れるように消えていく。
「……兄上ッ――」
セリムは寝台の上で息を荒げながら身を起こした。
額には汗。胸は激しく上下し、まだ夢の名残に囚われている。
「……夢、か」
手を額に当てて静かに深呼吸する。
兄の顔は、あれほどはっきり見えたというのに。
声だけが、どうしても届かなかった。
まるでこの世に彼の言葉はもう存在しないと、何者かに突きつけられたようで――胸の奥に、鈍い痛みが残った。
セリムはゆっくりと寝台を降り、机に置かれた水差しから一杯の水を注いで喉を潤す。
まだ深い夜だった。城の中も、世界も静寂に包まれている。
だがその静けさのなかに、セリムは一つの問いを抱え続けていた。
――兄は、何を伝えたかったのか。
なぜ、言葉は風に攫われたのか。
それは夢の中だけの現象ではない。
十年前、あの死の報せを聞いたときも、彼は何一つ言葉を遺していなかった。
――クラウスが遺したもの。それを知るために自分は帰ってきたのだ。
「……待っていてくれ。兄上」
胸の奥で再び誓う。
静かな夜の底で、その誓いは灯火のように微かに、けれど確かに燃えていた。
――
クラウスの死の報は、フェイミリアム城に重い影を落とした。
各所で混乱が広がった。
公国の要とも言うべき文武両道の才人を一夜にして失ったのだ。
城の高官たちは対応に追われ、若い騎士たちは悲しみと動揺を隠しきれなかった。
誰もが信じたがらなかった。クラウス・アシュノッドの死を。
そして、幼いセリムもまた、その現実を受け止めきれずにいた。
――あの日。
午前の授業がちょうど終わりを迎えようとしていた頃だった。
講師が最後の設問を板に記しているそのとき、重く閉ざされていた教室の扉が、控えめに三度叩かれた。
入ってきたのは、見覚えのある文官だった。年嵩の落ち着いた身なり、その後ろには小柄な騎士が付き従っている。
「オーブ殿下、セリム様。……執務室までお越しいただけますか。マクシム殿が、おふたりにお話があると」
その声は低く、教室の空気に波紋を広げた。
セリムとオーブは、互いに顔を見合わせる間もなく立ち上がり、静かに部屋を出る。
案内された先は、南棟にある小さな応接室だった。
そこには、マクシム・ベルノワがひとり、立ったままふたりを待っていた。机の上には封を切られた文書が一通。その表情は、いつもよりいっそう堅く引き締まっている。
「おふたりとも……どうか、落ち着いてお聞きください」
老文官の静かな声が、やけに大きく耳に響いた。
「今朝未明、メルベール公国より一報が届きました。クラウス・アシュノッド殿が、昨夜……不慮の死を遂げられたとのことです」
沈黙――
まるで時間が止まったかのような数秒が流れた。
「……嘘、ですわ」
先に声を漏らしたのはオーブだった。わずかに震える手を口元に当て、栗毛の睫毛を伏せた。
セリムは声を失ったまま、ただマクシムを見つめていた。
信じられない。理解が追いつかない。けれど、マクシムの声は冗談を言うものではない。
「詳細はまだ不明ですが……メルベール城にて、不審者の侵入があり、その中で……」
マクシムは言葉を選ぶように視線を落とした。
「ご遺体は、本日中に搬送の手筈が整うよう、手配が始まっております」
クラウスが死んだ――その言葉が、ようやく頭に届いたその瞬間、セリムの身体から力が抜けた。
涙は出なかった。ただ、空気が肺に入らず、喉が灼けつくように痛む。
「……兄上が」
その場に崩れ落ちるほどの衝撃。だが彼は立っていた。ただ、静かに、目を見開いたまま。
マクシムが、そっと手を差し伸べようとしたその時――
オーブが、セリムの手をそっと取った。
その手は、小さく、温かく、震えていた。
「……セリム様」
何も言葉は交わさずとも、ふたりはその瞬間から、同じものを見つめていた。
ひとつの喪失を、それぞれの胸に刻み込んで。
――
そして、葬儀の日が訪れた。
都の外れ、騎士たちが眠る公共墓地。
曇り空の下、セリムは黒い喪服に身を包み、墓前に立っていた。
小さな肩を、アルフェリスが静かに隣で支えている。
そしてセリムは彼と墓との間で泣き崩れている、兄の親友――テオドール・ヴァルツァーを見つめていた。
普段は陽気で、頼れる兄貴分のような存在。
セリムたちアシュノッド兄弟とともに故国ダリアブルクから逃れてきた同郷の者、セリムにとってはもう一人の兄のような存在だった。
剣の稽古を見てくれたり、くだらない冗談を言っては、よくセリムを笑わせてくれた。
無邪気な日常を、彼は兄に代わって与えてくれていた。
だからこそ、今――
そんなテオドールが、ぐしゃぐしゃに顔を濡らして泣いている姿は、あまりにも痛々しかった。
誰の目も気にすることなく、嗚咽を押し殺すことさえせず、ただその場で泣き崩れていた。
それが、セリムには救いだった。
泣いてはいけないと思っていた。
弱さは恥だと、教わってきた。
けれど、テオドールが泣いているのなら――
自分も、泣いていいのだと、思った。
「……クラウス……っ」
テオドールが、セリムの小さな肩に手を置く。
力強く、温かい掌だった。
「……セリム、お前の兄貴は……最高に、最高の騎士だった。絶対、忘れるなよ……俺も忘れはしない。忘れられるものか」
涙とともに絞り出されたその言葉が、
セリムの幼い胸に深く、深く刻みつけられた。
長命種であるアルフェリスは人の生死には興味が希薄であったが、昔馴染みのテオドールの言葉は彼の胸にも響いた。
普段なら誰よりも賑やかで、おしゃべりで、
場を明るくしてくれるアルフェリスが――
この日ばかりは、静かに、黙って空を見上げていた。
何も言えなかったのだ。
この現実の前では、どんな言葉も、意味をなさなかった。
クラウスを心から慕っていたアルフェリスにとっても、それは言葉にならない喪失だった。
セリムは小さな拳をぎゅっと握り締めた。
自分のためではない。
ここにいる皆のために。
そして、兄のために。
弱さを堪え、前を向かなくてはならないのだと、幼いながらに、そう決意した。
墓前に捧げられた白百合の花束が、湿った空気に揺れていた。
その白さは、どこまでも痛いほどに、悲しかった。
---
クラウスの葬儀から数日が経過した。
城内の空気は、いまだに重苦しかった。
かつて、クラウス・アシュノッドの存在がどれほどこの城を支えていたか。
今になって、誰もが思い知らされていた。
政務は滞り、士官たちはどこか落ち着きを失い、若い騎士たちは苛立ちを隠そうともしない。
だが一番深く沈んでいたのは、幼いセリムだった。
彼は今、南の渡り廊下に面した小さな休憩室にひとり腰掛けていた。
窓の外には春の陽光が降り注いでいるのに、その温かささえ、どこか遠く感じられた。
「……兄上」
かすれた声で、セリムは呟く。
父のような存在だった兄。
自分を守り導いてくれた、たったひとりの家族。
その兄が、この世界から消えてしまった。
喪失感は、まだ現実として受け止めきれずにいた。
廊下の向こうから、足音が響く。
顔を上げると、そこにいたのはテオドールだった。
「セリム」
穏やかな声に、セリムはゆっくりと顔を向けた。
テオドール・ヴァルツァー。
クラウスの親友であり、兄が最も信頼していた男。
武骨な槍使いだが、情に厚い人物だった。
彼は、今も喪服姿のままセリムの前に立った。
数日経ったというのに彼の目元はいまだに赤く腫れ上がっている。
そして、ぎこちなく笑った。
「……ちゃんと、飯は食ったか?」
「……少しだけ」
セリムは小さな声で答える。
食事など喉を通らなかった。だがテオドールに心配させまいと、そう言った。
テオドールは苦笑し、隣の椅子にどかりと腰を下ろした。
そして、大きな掌で、セリムの頭をくしゃりと撫でる。
「……クラウスも、お前が無理してるのを見たら怒るぞ」
「……怒られても、いいです」
セリムは膝の上で拳を握りしめた。
「兄上が……死んだことのほうが……もっと、許せない」
小さな、けれど震える声。
テオドールは何も言わなかった。
ただ隣に座り、肩を並べ、じっと陽の光を見つめていた。
沈黙が、ふたりの間を満たしていく。
そして、しばらくしてから。
テオドールは、ぼそりと呟いた。
「セリム。これからは、俺がお前の後見人になる」
セリムは驚いたように顔を上げた。
「……後見人?」
「ああ。クラウスに頼まれてたんだよ。万が一の時は、俺がセリムを守るって」
テオドールは言いながら、ぽりぽりと後頭部をかいた。
照れ隠しの癖だった。
「……万が一、なんて」
「……ああ。クラウスのやつ、あんなことになっちまって……」
そう言ったテオドールの目には、悔しさと悲しみが滲んでいた。
ごつい指先で、無骨に目元を拭う。
この強く優しい男が、人目もはばからず涙を流している姿を見て、セリムは胸に熱いものが込み上げた。
自分だけじゃない。
兄を失って、こんなにも悲しんでいる人がいる。
そう思うと、押し潰されそうだった孤独が、ほんのわずかだけ、和らいだ。
「……セリム」
テオドールは、少年の小さな肩に手を置いた。
「これからは、お前の人生だ。……クラウスが守りたかったものを、お前が生きて、確かめろ」
その言葉に、セリムは小さく、けれど力強く頷いた。
──この人が、兄上が選んだ、俺の未来の守り手なのだ。
その時、セリムの中で小さな決意が芽生えた。
たとえどれだけ辛くても。
どれだけ苦しくても。
兄の遺したものを無駄にしないために、
自分は生きなければならない、と。
外では春の風が、花の香りを運んでいた。
だがその香りも、少年にはまだ遠かった。
彼がその風を真に受け止める日は、きっとまだ、先のことだった。