再会
「セリム様!」
朗らかに響く声とともに、柔らかな花の香りが風に乗って届いた。
城門をくぐったばかりのセリムの前に、緋色のドレスの裾を翻して駆け寄ってきた少女がいた。
オーブ・エリオラ・フェイミリアム。
フェイミリアム大公の一人娘であり、セリムにとっては幼き日々を共にした姫でもある。
「やっぱりセリム様ですわ! 本当にお帰りなさいませ!」
栗毛の髪を編み上げたその顔に、満面の笑み。迷いも戸惑いもない純粋な喜びに満ちていた。
「……ただいま戻りました、殿下」
セリムは穏やかに一礼する。その声は丁寧ながら、どこかよそよそしい。
オーブはふくれっ面で彼を見上げた。
「またそれですのね。子どもの頃のように“オーブ”と呼んでくださればよろしいのに」
その仕草は無邪気な少女のようだったが、視線の奥には大人びた寂しさも宿していた。
セリムは、つい笑みを浮かべそうになったが、すぐにその表情を引き締める。
彼の中にあるのは再会の喜びではなく、過去に踏み込む覚悟だった。
オーブも、それ以上は言わず、名残惜しそうに距離を一歩だけ引いた。
その足元には、春の花がひとつ、彼女の歩みに合わせて揺れていた。
「……失礼いたします、姫様」
そのやり取りを咳払い一つで区切ったのは、老文官マクシムである。
「殿下、セリム様はこれより大公閣下と謁見されます。どうか、このあたりで……」
「……ええ、わかっておりますわ、マクシム」
ほんの少し唇を尖らせて、オーブはふわりと後退した。
だがその目は、なおもセリムの背に注がれていた。
彼女の中でも、十年という歳月が音もなく動き出していた。
春の陽は高く、城門の石畳に柔らかな影を落としている。
その陰影の中で、再び出会ったふたりは、まだ互いに歩き出す手前にいた。
――
執務室の扉が重々しく閉じられると、空気が一変した。奥の執務机に腰掛けていたフェイミリアム大公ヴァレリーが立ち上がる。
「よく来てくれた、セリム。……そしてそなたもも、アルフェリス」
その声はかつてよりも少しだけ低く、けれど変わらぬ威厳を宿していた。
「ご無沙汰しております。大公閣下」
セリムは丁寧に一礼し、続いてアルフェリスも口元をゆるめる。
「俺のことを覚えていてくれて嬉しいね。ヴァレリーの前であんまり静かにしてると、別人かと疑われるかもな」
ヴァレリーはわずかに微笑を浮かべると、傍らの椅子を指し示し、ふたりは促された椅子に腰掛けた。
「座るといい。……君たちを迎えるために、南棟の部屋は既に整えてある」
「南棟……」
セリムはその言葉に小さく目を細めた。
南棟は、城の中心から少し離れた静かな棟であり、文官や研究者の宿舎が設けられている。中には小さな図書室や書庫も併設され、表立った権威から一歩距離を置き、思索と記録に適した空間として知られている。
「そなたには、城内のすべての文書への閲覧権限を与える。クラウスの記録に関わるもの以外も、もちろん閲覧して構わない」
「……感謝いたします」
ヴァレリーは片手を軽く振り、執務室の隅に控えていたマクシムを促した。
「マクシム、事の経緯について彼らに説明を」
老文官マクシムは一歩前に進み、報告書をひとつ開いた。
「事件が発覚したのは、二週間前の朝。墓地の管理人が巡回中、クラウス様の棺が開けられているのを発見いたしました。棺は外部から開けられた痕跡があり、中身はすでに――」
「空だった」
セリムが静かに言葉を継ぐ。
「はい。……私が現場に足を運んだのはその直後でした。直ちに現地を調査いたしましたが、荒らされた形跡は他には見られず、騒ぎを避けるためすぐに封鎖と目撃者の隔離を行いました」
ヴァレリーは深く息を吐き、窓の外を一瞥した。
「場所は公共墓地の騎士区画、王都の東端。……本来、クラウスのような者を埋葬するには、あまりに静かすぎる場所だ」
「十年前……埋葬には私も立ち会いました。兄は……そう望んでいたのです」
その声に、マクシムもまた目を伏せた。
「警備記録には特段不審な記述はありませんでしたが我らとしても、内部の関与を完全に否定はできません。」
「……わかりました。まずは当時の記録と、関係者の証言を集めます」
ヴァレリーは静かに頷いた。
「そなたの冷静さは、我が国にとって何よりの武器となろう。……だが、無理はするな。時に人の心は、剣よりも脆い」
「心得ております」
ヴァレリーはふう、と一息漏らすとセリムを見据え静かに言った。
「……この任、重いものだが……そなたにしか頼めぬ」
その眼差しには、主従を超えた人間としての願いが滲んでいた。
セリムは黙って頷いた。
無言の了承に軽く微笑んだヴァレリーはアルフェリスへと視線を移した。
「ところで……アルフェリスも同行している。竜族であることは伏せてあるが、顔を知る者もいる。問題はないか?」
大公の問いに、アルフェリスが口を開くヴァレリーは静かに頷いた。
「問題ないぜ。別に今さら隠すつもりもないけど、お前らの都合に合わせるくらいの義理はあるさ。」
その飄々とした返しに、大公は小さく笑みを漏らした。
「変わらぬな。お前も」
「俺が変わったら、空でも割れるだろ」
からからと声をあげてアルフェリスは笑った。大公のことを呼び捨てにするような彼の態度に顔をしかめる者も少なくないだろうが、大公本人は意に介しておらず、好感さえ抱いていた。
緊張が少し緩んだ空気の中、アルフェリスがふと呟くように切り出した。
「なあ、ヴァレリー。俺たちがいた頃と、城の中の空気……少し変わってる気がする。なにか、他にも動いてるんじゃないか?」
その問いに、大公は一瞬目を伏せたが、すぐにマクシムと視線を交わし、静かに答えた。
「……おそらくは。だが、その全貌を見極めるためにこそ、そなたたちに動いてもらう必要があるのだ」
執務室の空気が、再び重くなる。
「――では、詳細は追って伝える。今はまず、そなたの居場所を整えることが先だな」
「はい、閣下」
立ち上がったセリムに、ヴァレリーは目を細めた。
「クラウスは、常に他人のために生きた男だった。だが、彼の真意を知るには……そなたの目が必要だ」
その言葉に、セリムは深く一礼を返した。
――
南棟の一室。午後の授業が始まる刻限よりも、ほんのわずかに早く――セリムは静かに扉を開いた。
すでにその部屋には、ひとりの少女が座っていた。
フェイミリアム大公の一人娘、オーブである。
長い栗毛を編み上げ、淡い藤色のドレスを纏ったその姿は、春の陽を背に静かに机に向かっていた。
開いた書のページに視線を落とし、姿勢は正しく、まるで彼の到着をすでに知っていたかのようだった。
セリムは軽く咳払いをして、自らの存在を告げる。
「……お待たせしました、姫」
オーブは顔を上げた。ぱっと咲くような笑顔。
「いえ、少し早く来てしまっただけですの。ご安心くださいませ」
そう言って椅子から立ち上がり、軽くスカートの裾を持ち上げて一礼する。
セリムは深く会釈を返した後、机の前に腰を下ろす。
講義の準備は既に整っていた。だがオーブの手元に置かれているのは、授業で使う予定だった史書ではなく、一編の詩集だった。
「……詩を読まれていたのですか?」
「ええ。セリム様がお越しになる前に、少し気を落ち着けようと思って」
「気を……落ち着ける?」
オーブは微笑んだまま、ほんの少し目を伏せた。
「教師としてのあなたと再会するのは、幼馴染としてのそれとは少し違いますから」
その言葉に、セリムはわずかに息を呑んだ。だがすぐに顔を戻し、淡々と応じる。
「私はあくまで教師としてこの任に就いた者です」
「ええ。わかっています。……頭では、ちゃんと」
オーブは机の縁に手を添え、ゆっくりと指をすべらせる。まるで心をなぞるように。
「お父様は、セリム様が戻ってくる本当の理由を教えてはくださいません。でも……何か、大切なお役目を背負って戻られたのだと、そう感じております」
セリムは言葉を選ぶように沈黙する。そして、静かに頷いた。
「姫のご期待に添えるよう、努めます」
「……そういうところですの。そういうところが、昔と少しも変わっておられません」
オーブは小さく笑ったが、その瞳はどこか寂しげだった。
「……そうですか」
セリムは目を逸らさずに答えた。だが、その声は静かに落ち着いていた。
「わたくしの教育係として戻ってくださったこと、もちろん嬉しく思っておりますわ。でも……」
そこまで言うと、姫は少し言葉を選ぶように瞳を伏せた。
「でも、セリム様が本当に見ているものが、わたくしではないことも、わかっておりますの」
その言葉には、寂しさと理解が織り交ざっていた。
「申し訳ありません、姫。これは……私個人の問題です」
「謝らないでくださいませ。セリム様の目には、いつも“何か”が映っているの。遠くて、届かない何かが……」
彼女は椅子の背に手を添え、そっと息を吐いた。
「昔のように、ただ笑って、何も考えずに話すことはもうできないのだと思うと……少し、さみしいですわ」
「……姫」
セリムは言葉を失い、それでもその想いを受け止めようと目を細めた。
「それでも、わたくしは、またセリム様と過ごせる時間があることを……大切にしたいと思っておりますの」
その言葉は、まるで風に乗った春の花のように、柔らかく、胸に染み入った。
「ありがとうございます、姫。……私も、その気持ちを、大切にいたします」
ふたりの間に流れた静寂は、どこか心地よいものだった。
「セリム様、あの……一つだけ、お願いしてもよろしいかしら」
「何でしょう」
「お仕事としての授業であることは承知しております。でも、今日だけは、少しだけ――昔のように、わたくしとお話ししていただけませんか?」
その言葉に、セリムはしばし考え込み、やがてゆっくりと頷いた。
「……わかりました。今日は少し、予定を柔軟にしましょう」
「まぁ、本当に?」
オーブは瞳を輝かせ、ほんのひととき、幼い日の彼女がそのまま戻ってきたようだった。
「では、まずはこの詩集から。セリム様は、昔“春を題材にした詩は難しい”とおっしゃっていたのを覚えておりますか?」
「……覚えているような、いないような」
「うふふ。セリム様は、感情を直接書くのが恥ずかしいから、ああいう表現は苦手だとおっしゃっていましたの」
「……姫は、よく覚えておられますね」
「忘れませんわ。だって、セリム様との思い出は、わたくしの宝物ですもの」
その言葉に、セリムはふと筆を止めた。
陽が窓辺に差し込み、紙の上に影を描く。
ふたりの間に流れる空気は、たしかに“講義”という言葉だけでは言い表せぬものとなっていた。
けれどそれを打ち消すように、セリムは筆を取り、静かに告げる。
「それでも、私は“教師”です」
「ええ。……でもそれでも、わたくしは“オーブ”でございますわ」
少女のように笑いながら、オーブは詩集を開いた。
春の詩篇が朗らかに響くその声に、セリムの筆が再び走り出した。
そうして、セリムとオーブの静かな時間は、少しずつ動き出していた。教科書のページがめくられ、言葉のやりとりが始まる。
彼らの間に積もった時と想いが、ゆっくりとほどけていくように。