帰還
荷造りを終えたセリムは、家の玄関でふと立ち止まった。
春の光が庭を柔らかく照らし、昨日と変わらぬ花々が咲き誇っている。軽やかな風が花の香りを運び、小道に並ぶ草花が無言のまま彼を見送っているようだった。その光景は穏やかで、まるで何事もなかったかのように日々を繰り返している。
セリムはそっと足元に目を落とし、土の匂いを深く吸い込んだ。この地に染みついた湿り気と温もりが、彼の心の奥に静かに染み渡る。それは懐かしさと安らぎを与える一方で、胸の奥には拭えぬ不安が渦巻いていた。
この小さな家で過ごした二年間、彼はようやく自身の人生に“静けさ”を得た。兄を喪い、職を退き、誰の目も気にせずに過ごした日々――そして、唯一信頼できる友人、アルフェリスとの穏やかな暮らし。
それを手放すことに、迷いがなかったといえば嘘になる。
この地に戻ることが、もうないかもしれないという思いが、胸に小さな痛みを残した。
「それじゃ、行こうか」
背後から聞こえた声に、セリムはわずかに振り返った。そこに立っていたのは、竜族の青年――アルフェリス。
「ふーん、もう少し感動的なセリフとかないの?」 「ない」
セリムは即答し、肩にかけた鞄を軽く直す。その表情は冷静で、まるでこれから旅に出るという実感を遠ざけているかのようだった。しかしアルフェリスには分かっていた。彼の中に渦巻く葛藤や決意が、表情の裏に隠されていることを。
「まったく、冷たいなあ……。ま、俺も一緒に行くけどな」
「……ああ。よろしく頼む、アルフェリス」
セリムは短く答え、扉を開けた。春の風が頬を撫で、家の中に流れ込んでくる。それはまるで彼らの旅立ちを告げる合図のようだった。
兄・クラウスの死。それはただの事件ではない。彼が都へ向かう理由は、真実を探るため。そしてその真実とは、兄の死を越えて、自らの過去と向き合う旅でもあった。
彼は一歩を踏み出し、アルフェリスも静かに続く。
その背には、ただの荷物だけでなく、これまで抱えてきた思いと、これから向かう先への決意が確かに乗っていた。
――
街道を進むうちに、セリムの心はふと過去へと引き戻されていく。
この道を初めて通ったのは、まだ幼い頃。兄クラウスに手を引かれ、初めて馬に乗ったあの日。兄はいつも堂々としていて、周囲に威厳を与えていた。セリムにとっては誇りであり、憧れであった存在だった。
しかし今なら分かる。あの背中には、彼には計り知れない重荷と孤独があったことを。
――兄上。あなたは、あの時、何を思っていたのでしょうか。
道中の村で短い休憩を取ったとき、セリムは一人、古い井戸の縁に腰かけていた。井戸の水面は陽光を受けてきらめき、その中に彼は一瞬、クラウスの面影を見たような気がした。
「兄上……」
思わず呟いた声は風に溶け、すぐに消えた。アルフェリスが後ろからやって来て、手にした干し肉を差し出す。
「食っとけ。飯は生きる基本だ」
「……ありがとう」
何気ない会話に救われる。旅とは、ただ道を歩くだけではない。こうした些細なやり取りが、心を少しずつ和らげてくれる。
――
やがて空が曇り始め、小雨が草原を濡らした。アルフェリスは魔力で即席の天幕を作り、セリムを雨からかばった。黙って雨音に耳を澄ます時間――そんなひとときに、二人の距離は少しずつ近づいていく。
「フェイミリアムに戻るなんて思ってもみなかった。」
セリムがぽつりと呟いた。
士官学校を飛び級で優秀な成績を納めて卒業したセリムは数年間、フェイミリアム城で文官として働いていた。
兄のいない城に未練などなかったが、故国を失い行くあてのなかった自分たち兄弟を受け入れてくれたフェイミリアム大公には恩義があり、それを返すまでは働こうと決めていた。
文官として実績を挙げ、自他ともに十分に役割を果たしたといえると判断した2年前に職を辞し、フェイミリアムに併合された旧ダリアブルク領にある片田舎に居を構えたのである。
アルフェリスは兄の生前は常に側にいることのできないクラウスに替わり、セリムの側で彼を守っていた。
クラウスが亡くなったのなら、アルフェリスが自身を守る理由は無くなる。自分の側から、アルフェリスは去るとセリムは思っていたがそうではなかった。
アルフェリスは去るどころか、セリムの隠棲先まで同行し現在に至る。
理由は明かしてくれないが、静かに側にいてくれた。
「お前、前より口数が増えたな。」
「……必要なときだけだ」
「いつも俺の話にはたいして返事してくれないのに」
冗談交じりにアルフェリスがぷぅと頬を膨らませた。
「君がおしゃべりすぎるんだ」
セリムの声は静かだったが、確かにあたたかさが含まれていた。口にはしないが、側にいてくれるこの男に深く感謝しているのである。
雨が上がった。どうやら通り雨だったらしい。
身支度を整えると、再び二人はぬかるんだ道を歩きはじめた。
セリムは問いを胸に抱えながら進んでいた。
答えのない問いではあるが、その問いを抱きしめることで、彼は兄の足跡を少しでも辿れる気がしていた。
――
ある夜、野営の焚き火の前で、炎越しにアルフェリスがぼそりと問いかけた。
「なあ、セリムくん。お前、考えてるんだろ。……クラウスのこと。」
「……考えていない時がない」
セリムの返答は短く、しかしその声には深い渦のような思考の重みがあった。
「なんで今になって、墓を荒らしたんだろうな。十年も経ってから、だぜ?」
「……あれは、ただの墓荒らしじゃない。何か、目的がある。誰かが“何か”を、もう一度動かそうとしている」
アルフェリスは黙ってセリムの顔を見つめ、その視線の奥に宿る苛烈な執念を感じ取っていた。
「アルフェリス。……なぜ兄は、あの日、死なねばならなかったんだろうな」
アルフェリスは火を見つめたまま答えた。
「お前が知りたいのは“誰が殺したか”じゃない。“なぜ”か、なんだな」
「……ああ。兄を手に掛けた者は――侵入した賊と聞かされていた。兄は避けることもできたはずだ。兄ほどの手練が、剣を交える前に死んだ……。無敗といわれた男が賊に遅れを取るなどありえない。まるで、死を選んだような最期だった」
「誰かを守るため、か?」
「……」
アルフェリスの問いにセリムは答えず、ただ俯いただけだった。
その誰か、がわからない。
当時幼かった唯一の肉親である弟・セリムを残してまで守らねばならない何かが兄にはあったのだろうか。
セリムは膝を抱えたまま、焚き火の揺らめきに視線を落とした。
「……この旅で、私は兄のことを知りたい。彼が命をかけたものが、正しかったのかを」
アルフェリスは静かに頷いた。
「なら、俺はその道の隣を歩くだけさ。お前が迷った時に、焚き火の光くらいにはなってやるよ」
火の粉がふっと舞い上がる。
夜の静寂の中、ふたりの呼吸だけが、耳にやさしく響いた。
やがて会話は切れた。
それでも心地悪くならない絆が二人にはあった。
無言で寝床の準備を整えたふたりは明日に備えて背中合わせに横になった。
春の名を借りてはいるものの、この地に吹く風は鋼のように冷たく、夜気は静けさの仮面を被ってじわじわと身を蝕む。
ローザリア――戦の地として知られたこの土地の夜は、まるでかつての血と火の記憶が今もどこかに潜んでいるかのように、張り詰めた空気に満ちていた。
――
都が近づくにつれ、風景が変わっていく。道沿いには交易所や農地が整備され、戦の傷跡を癒すように人々の営みが戻っていた。セリムはその変化を、どこか遠いもののように感じながら見つめていた。
彼の目は過去ではなく、まだ見ぬ真実を捉えようとしていた。
ついに、首都エルリスの城門が視界に入った。石造りの門の前に、ひとりの老人が立っている。
老文官・マクシム・ベルノワ。
かつてクラウスに仕え、宮廷に長く勤めた人物である。穏やかな目元と、深く刻まれた皺が、その歳月を物語っていた。
「……お帰りなさいませ、セリム様」
その穏やかな声に、セリムは小さく頭を下げた。
「……ご無沙汰しております、マクシム殿」
マクシムはしばしセリムを見つめ、微笑を浮かべる。その笑みにこめられた思いの深さを、セリムは感じ取っていた。
「随分とご立派になられましたな。昔のあなたは、兄上の影に隠れてばかりおられたのに」
「……そうかもしれません」
セリムは静かに答える。その声音には、過去を懐かしむような寂しさが滲んでいた。
「しかし、目の奥にある意志は、あのお方にそっくりです。否定されるでしょうが、そこがまた、よう似ております」
マクシムは穏やかに笑った。その笑いには、昔と変わらぬ温かさがあった。しかし、セリムにはその響きがかつてのように軽やかではなく、むしろ長い歳月の中で少しずつ鈍ったように感じられた。
笑いが終わると、彼の目の奥には、ひときわ深く刻まれた思い出の影が浮かんでいるように見えた。
「……兄の死について、何かご存じでは?」
「私は現場には居りませんでした。ただ、あの方の死には、未だに釈然とせぬものがある……それだけは確かです」
「兄は、誇りを手放すような男ではありませんでした」
その言葉に、マクシムは目を細め、頷いた。
「この城には、あの方の面影が残っております。その足跡を、どうか見失わぬよう」
「……はい」
セリムの短い返答には、確かな決意が込められていた。
マクシムの言葉には、かつてクラウスに仕えていた文官としてのセリムに対する深い敬意が込められていた。
そして、今、真実に向かって歩み出す彼の姿に、年長者なりの応援と期待が込められていた。その言葉の中に込められた想いが胸を満たし、静かな力となるだろうとセリムは感じた。
その様子を、後ろで見守っていたアルフェリスもまた、言葉にせずとも、静かにその想いを共有していた。
セリムは城門をくぐる直前、ふと足を止めた。
空気が変わった――そう感じたのだ。
かつてはこの門をくぐるたび、胸が高鳴った。しかし今は、ただひんやりとした静けさだけが身を包む。
城の塔が、遠くにそびえている。その姿は変わらぬまま、しかし、どこか色褪せて見える。
「ここも、変わってしまったな」
セリムはそう呟き、門をくぐろうとした。
そのとき――
「セリム様!」
明るく、よく通る声。
振り返った先に、風に揺れる淡いピンクのドレス。明るい栗毛の髪を編み上げた、少女のような笑顔。
オーブ・フォン・フェイミリアム。
フェイミリアム大公の一人娘が、花の香りとともに走り寄ってくる。
「やっぱりセリム様ですわ! お帰りなさいませ!」
その無垢な笑顔を前に、セリムは微かに瞳を細めた。
「……ただいま戻りました、殿下」