来訪
初春の柔らかな陽が、丘の向こうから村を照らしていた。
フェイミリアムの片田舎。名もなき小さな集落の、さらに外れに建つ家の庭で、ひとりの青年が湯を沸かし茶を淹れていた。
青年の名は、セリム・アシュノッド。
元は騎士の名門に生まれ、いまは隠棲した文官として、ささやかな暮らしを送っている。飛び級していたため、隠棲しているとはいえ、まだ齢20になったばかりの美しい青年である。
家の奥から、赤毛の男がごろりと転がり出てきた。
「おーいセリムくーん、朝飯まだー? 俺もう腹が鳴りすぎて死にそうだよぉ」
「嘘をつくな。誰よりも頑丈なくせに…。アルフェリス。朝は静かにしてくれないか。」
竜族の青年、アルフェリス・ヴェルミリオン。
かつてセリムの兄に興味を抱き、今では彼の影のように寄り添う存在。
彼の陽気な声が、今朝もこの家の静けさを破る。
セリムとさほど年齢は変わらぬように見えるが、長命な種族のため本人曰く数千年は生きているらしい。
いつもと変わらぬ、春の朝だった。
けれど――それは、崩れ去るための静寂だった。
その日、セリムのもとに訪れたのは、思いもよらぬ人物だった。
馬の蹄の音が、草を踏みしだく。
小さな家には不釣り合いな、格式高い裾の長いコートを纏った中年の男が、扉の前で立っていた。
「……ヴァレリー様」
彼は、フェイミリアム公国の現大公――
ヴァレリー・エンデル・フェイミリアムその人であった。
老いは感じさせぬ体躯と威厳を湛えたその姿は、城を去った日から変わっていなかった。かつてセリムが仕えていた、あの城の主。
――そして、亡き兄クラウスが命を賭して忠義を尽くした男である。
「久しいな、セリム。」
初対面のように礼を尽くすセリムに、大公はどこか懐かしげに言った。
だがその眼差しに宿っていたのは、懐旧ではなく、深く重たい何か――。
「お前に頼みたいことがある。……いや、知らせねばならぬことがあると言うべきか。」
「はい……お久しゅうございます。このような場所によくおいでくださいました」
「座ってくれ。話がある」
セリムは無言のまま、茶を淹れ、客人の前に置いた。
その手は、微かに震えていた。
予感はあった――この人が、自ら辺境まで足を運ぶ理由など、ただの世間話で済むはずがない。
「……お前の兄君、クラウスの墓が、暴かれた」
その一言に、セリムは凍りついた。
一瞬、時が止まったかのように静寂が落ちた。
「確認されたのは数日前。棺は開かれていたが……中には、何もなかった」
フェイミリアム大公の目は、わずかに揺れていた。
それが心からの動揺なのか、あるいは計算のうちか。セリムは読み取れなかった。
「何も……?」
「死体が、消えていた」
「……」
カップから漂う香ばしい匂いが、途端に苦く感じられた。
「表向きにはまだ公表しておらぬ。墓荒らしなど、不穏な噂になりかねん。だからこそ、頼れる者に調査を任せたいと思っていた」
その言葉は、命令ではなかった。
だが、拒むことなどできようはずもなかった。
セリムはしばし目を閉じ、兄の面影を思い出す。
なぜ、遺体は今さら持ち去られたのか。
答えは、まだどこにもない。
セリムは視線を落としたまま答えた。
「……再び、城に戻れと仰るのですか?」
「お前にしか頼めぬ。」
それは単なる信頼の言葉ではなかった。かつて士官学校を主席で卒業し、フェイミリアム城に文官として仕え実績も申し分なく、知性と冷静さを持ち合わせたセリム。
彼こそが、この密やかなる調査に最もふさわしい存在だった。
「うむ。だが表向きの名目が必要だ。ちょうどオーブの学業に家庭教師が必要でな。――お前ならば、喜んで迎えるだろう」
「……昔のようにとは、参りません。」
「構わぬ。今のお前が戻る、それだけで良い」
セリムは瞳を伏せ、わずかに睫毛を震わせた。
大公の言葉には黙って静かに頷いた。
それが了承の意であると、二人の間にはそれだけで意思が確認できる信頼があった。十分だった。
大公が去った後、セリムはゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
風が吹き抜ける。薔薇の香が遠くに漂い、空のどこかで、雷鳴がかすかに響いた。
風は冷たくはなかった。
けれど、どこか湿っていた。雨になるだろう、とセリムは思った。
庭の端に、植えたばかりの薔薇の若木が、まだ頼りなげに茎を伸ばしていた。
それを見つめながら、彼は誰にともなく呟いた。
「兄上……墓すら、安らげぬのですか」
十年前のあの日。
自国の騎士でありながら、死の真相を伏せられた男。
クラウス・アシュノッド。
戦場において無敗を誇り、政にも通じ、そして何より人の心を掬い上げる才に長けた人物だった。
あまりにも優しすぎた、とセリムは思う。
あまりにも、誠実すぎた。
彼は決して「国」のために死んだのではない。
きっと、「誰か」を守るために、自らの命を差し出したのだ。
だがその「誰か」が、今も真実を口にしないのだとすれば――
セリムの掌に、微かな熱が戻ってきた。
それは怒りか、哀しみか、それとも――
アルフェリスが、いつの間にか背後に立ち、黙ってセリムの肩を叩いた。
何も言わずに寄り添ってくれる存在の何とありがたいことか。
振り返りたくないと思っていた過去に向き合うときがきたのだとセリムは決意を新たにした。
――兄の死の真相を、今度こそこの手で掴む。
その決意が、かすかに、だが確かに、火種となって胸に灯った。